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奴隷の世界歴史(連載第39回)

2017-12-26 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

インドの奴隷制
 インドの奴隷制は、インドの長い紆余曲折の歴史とともに様々な形態を取り、変化し続けた。まずインド土着的な奴隷制として、ダーサとかダスユなどと呼ばれる一種の奴隷制が見られた。もっとも、これは元来、インドを征服したアーリア人にとっての敵部族を指す用語でもあり、おそらく古代社会では普遍的に見られた戦争捕虜の奴隷化が起源なのであろう。
 時代が下ると、破産、道徳的な堕落や犯罪の結果として奴隷化される慣習が生まれるが、奴隷に汚れ仕事を強制したり、虐待・レイプなどの被害を与えることは違法とされるなど、奴隷の扱いについてはある種の人道的な規制があったとされる。インドの土着奴隷制は言ってみれば、緩やかな奴隷制であった。
 これに対し、インド特有の社会構造を成すカースト制におけるカースト外下層身分ダリットは多くが汚れ仕事に専従してきたが、これは奴隷とは概念上区別された職業身分差別制度の一環とみなすべきものであろう。
 さて、インドは8世紀以降、イスラーム勢力による侵攻を受け、特に北インドではデリーを拠点にデリー・スルタン諸王朝が興亡する時代に入る。結果としてイスラーム的慣習が持ち込まれ、非イスラーム教徒の奴隷化が大々的に行なわれるようになった。
 ちなみに、五つのイスラーム系王朝が継起的に興亡したデリー・スルターン諸王朝最初のものは奴隷王朝と称されるように、奴隷軍人マムルークが樹立したテュルク系王朝であったことも、イスラーム的な特質であった。
 その後、インドは南端部を除き、テュルク‐モンゴル系の血を引くイスラーム帝国ムガル朝が支配するところとなり、その支配領域内ではイスラーム法が定着した。従って、奴隷制もイスラーム法に基づいて運用された。
 特に全盛期を築いた6代皇帝アウラングゼーブが内外のイスラーム法学者を結集して制定したファタワ・エ・アーラムギーリと呼ばれる基本法典中には、アウラングゼーブ自身が帰依した厳格なスンナ派の法思想をベースに、奴隷所有権や奴隷の権利、奴隷の解放に至るまで奴隷制に関する具体的な規定が含まれているが、奴隷の法的地位は主人に対して相当に従属的である。
 インドの奴隷は高度な熟練技能を持つことが多く、ムガル領内で使役されるにとどまらず、需要のある中央アジア方面へしばしば「輸出」されることもあった。他方、イスラーム奴隷貿易やポルトガルを通じてアフリカからエチオピア人を含む奴隷が購入されることもあり、その一部は逃亡してシッディと呼ばれるアフリカ起源の民族集団に編入され、インド西部にジャンジーラ王国のような小さな自治国家を形成した。
 一方、18世紀以降、デカン高原に台頭したヒンドゥー系マラーター王国も奴隷制度を保持したが、これはインド土着の緩やかな奴隷制の伝統を受け継ぎ、奴隷の扱いは全般に穏当で、相続権の存在などムガル帝国のそれよりも柔軟であった。
 なお、17世紀以降18世紀にかけて西欧列強がインドに侵出してくると、インドは西欧列強―具体的にはポルトガル、次いでオランダ、英国―が主導する奴隷貿易の草刈場となる。従って、ここから先は第三章で扱った領域と重なるので本章での記述は割愛し、第三章に後日、インド奴隷貿易に関する補遺を追加することとしたい。

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