ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第112回)

2020-06-09 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(6)農民革命運動の挫折
 ウエルタの反革命軍事独裁政権を倒して再び革命を振り出しに戻した立憲軍であったが、これによって成立したカランサ体制はマデロ革命の継承者であったから、ブルジョワ革命路線を変更する意思はなかった。そのため、ここで再びサパタら農民革命運動との衝突は避けられなかった。
 ところで、メキシコ革命の過程で重要なアクターとなった農民革命運動にも、主流派と言うべきサパタ派のほかに、非主流派としてパンチョ・ビリャに率いられたビリャ派があった。パンチョ・ビリャは、先住民系小作人の息子で、若くして山賊となった人物である。出自からすれば、混血系中産階級出自のサパタよりも、ビリャのほうが農民運動の「主流」とも言えた。
 政治意識に目覚めたビリャはマデロ革命にも参加したが、彼が本領を発揮したのはカランサの立憲軍で北部師団司令官に任命されてからである。彼の指揮下の北部師団は、アメリカ国境の要衝シウダー・フアレスを制圧すると、続いてチワワ州全域を征服して、首都メキシコシティ―に向けて進撃する。こうしたビリャの北部師団の活躍は、立憲軍の勝利に大きく貢献した。
 一方、サパタ派はイデオロギーの違いから立憲軍に参加することなく、独自に戦っていたが、軍事的な勢力としてはビリャ派に及ばず、ビリャ派とは中途から連携するようになっていた。両派がイデオロギー的にも合流するのは、立憲軍の勝利後、中西部アグアスカリエンテスにて開催された革命派の大会においてであった。
 両派はサパタの思想に沿ったアヤラ綱領を共同綱領として、カランサに退陣を求めるも、カランサ側は当然にも拒否したことで、両者の決裂は決定的となった。これ以降、メキシコ革命は、ブルジョワ民主勢力と農民革命勢力の内戦という新たな段階に突入する。
 カランサ派は首都メキシコシティーを撤退し、サパタ・ビリャ派がいったんは首都を制圧するが、農民の拠点がないメキシコシティを首都とする意思のなかった両派がすぐに首都を撤収したことは、戦略上のミスとなった。カランサ派はすぐにメキシコシティを奪還したうえで、脅威となるビリャ派を追撃したからである。
 カランサ派の主将アルバロ・オブレゴン(後に大統領)は正規の軍人ではなかったにもかかわらず、戦略家であり、旧式の騎兵ゲリラ戦法中心のビリャ派に対して、機関銃を駆使した近代的な新戦法で臨み、ビリャ派を撃破、1915年7月にはカランサ派が全土を制圧した。こうして成立したカランサ政権に対しては、アメリカも承認した。
 残党を率いるビリャは1916年初頭から、アメリカ民間人の殺害やアメリカ軍駐屯地への奇襲などのテロ的戦術で反米活動を展開したが、このようなまさに山賊的活動は農民革命からいっそう遠ざかるだけであった。サパタも独自に反カランサ運動を継続するも、本拠モレロス州からも政府軍によって駆逐されていった。

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