十七 1917年ロシア革命
(2)革命勢力地図
1917年ロシア革命が、これまでに見てきたそれ以前の諸革命と異なる特徴は、イデオロギー的に相当明瞭に色分けされた革命的諸政党が合従連衡しながら進行していったことである。その点で、初めにそれら主要な革命的諸政党の勢力地図を描くことが有益である。
1905年立憲革命後のロシアでは、国会の開設に伴い、近代的な政党の設立が相次いでいたが。中でも当初最有力だったのは、立憲民主党(カデット)である。
同党はリベラルな歴史家としても知られたパーヴェル・ミリュコーフを中心に設立された自由主義政党であり、基本的には立憲君主制を軸とするリベラルなブルジョワ民主主義の確立を目指す政党であった。
カデットは、1906年のロシア初の国会選挙で第一党となるも、その後は政府側の抑圧で一時後退した。しかし、第一次世界大戦中、進歩ブロックを結成し、再び国会の中心勢力となり、その後の革命初動においても重要な役割を果たすことになる。
カデットの対極には、ナロードニキ派の流れを汲む社会革命党(エスエル)があった。この党はいちおう農民階級を代表する党という位置づけであったが、正式名称を社会主義者・革命家党といったように、革命前ロシアにおける急進的な社会主義運動を包括する党であった。
そのため、イデオロギー的にはやや曖昧な点があったが、ナロードニキ運動を継承してテロ戦術も辞さない強硬派でもあった。ただ、立憲革命後は、テロ戦術を修正して、国会参加を志向する議会政党として歩み始めていた。二月革命後に臨時政府の二代目首相として台頭するアレクサンドル・ケレンスキーも同党から出ている。
こうした曖昧な包括政党としての性格から、1906年には党内穏健派が離党して、新たにトルードヴィキ(労働グループ)を称する政党を結党した。この党は穏健な農民社会主義政党として、1907年の国会選挙では第一党に躍進したが、同年の再選挙では大敗、以後はマイナー政党に転落し、革命で有力な役割を果たすことはなかった。
一方、労働者階級政党として台頭していたのは社会民主労働者党である。同党は、マルクス主義を標榜する党であったが、その内部は結党時から分裂含みであった。分裂の争点は、革命の進行過程及び担い手に関わるものであった。
すなわち、当時のロシアにあって最初に来るべき革命はブルジョワ民主革命であり、それから然る後にプロレタリア革命へ進むという二段階革命論を唱えるメンシェヴィキ派と、労働者及び農民が連合して、一挙にプロレタリア民主革命へ向かおうとするボリシェヴィキ派が対立した。
革命の担い手という点でも、メンシェヴィキ派がブルジョワ民主主義者との連携を含む広汎な人士の参加を目指したのに対し、ボリシェヴィキ派は少数精鋭の職業的革命家集団の指導性を重視するという重要な相違があった。最終的に、ボリシェヴィキ派が勝利し、実際に同派指導者レーニンを中心とする少数精鋭による支配体制を樹立するに至る。
両派の分裂は1912年のプラハにおける党協議会の場で決定的となり、以後は事実上別の政党として活動していくことになる。ボリシェヴィキ党は十月革命後に共産党と改称するが、革命前の時点ではまだ公式に共産主義を標榜することはなかった。