第四章 中世神学と奴隷制度
奴隷制と中世キリスト教会
大西洋奴隷貿易が開始される前の中世ヨーロッパは、イスラーム勢力による奴隷狩りの対象地域であり、自身の社会は奴隷制よりも農奴制が支配的な時代であった。その点、中世ヨーロッパに先立つグレコ‐ローマン社会が奴隷制を軸としていたのとは大きく異なる。
とはいえ、中世ヨーロッパ内部にも奴隷慣習は各地で残存しており、奴隷制がおおむね農奴制に置換されていくのは西暦1000年前後とみなされている。その後もイングランドでは根強く奴隷制が残り、11世紀後半のウィリアム1世(征服王)の時代でも人口の10パーセントは奴隷が占めていた。
ビザンツをヨーロッパに含めるなら、このローマ帝国東半分の生き残り帝国では奴隷制度は完全に維持されていた。ちなみに英語で奴隷を意味するslaveも、ビザンティン時代のギリシャ語のスラブ人を意味する単語σκλάβοςに由来するとされるほど、ビザンツ帝国の奴隷制度は当代象徴的なものであった。
中世の東西ヨーロッパに拡散されたキリスト教聖典の聖書はイスラーム教聖典のコーランとは異なり、奴隷の所有を公式に認めているわけではなかったが、かといって明確に禁止しているわけでもない。
そうした中、ビザンツ皇帝による統制の強い東方教会が奴隷制廃止に踏み込まなかったことは明らかであるが、西欧カトリック教会は教会会議を通じて奴隷制への介入を試みながらも、その内容はキリスト教徒を非キリスト教圏へ奴隷として売ることの禁止や、当時盛んだったイングランドからアイルランドへの奴隷貿易の禁止といった限定的なものにとどまっていた。
そうした神学的曖昧さに対して、1315年、フランスのルイ10世が発したフランス王国内における奴隷制を廃止する勅令は異例のものであった。この勅令は人間は生まれながらにして自由であり、奴隷はフランス国内に足を踏み入れたなら解放されなければならないと規定していた。教会が奴隷制そのものの廃止に関して態度を明確にしない中、世俗法が先を越したと言える。
ルイ勅令はその後もフランスでは効力を持ち続けたが、その適用範囲はフランス内地に限定されたため、大西洋奴隷貿易が開始されると、かえって反対解釈によって大西洋奴隷貿易への参入を通じた海外植民地での奴隷制を促進する結果を招いたのだった。