ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産法の体系(連載第46回)

2020-06-11 | 〆共産法の体系[新訂版]

第8章 法曹法

(4)公的法務職域
 
共産主義的法曹制度の全体像をより明確にするため、本節及び次節では、法曹の具体的な職域について、その概要を述べる。本節で見るのは公務員としての公的法務職域である。
 この領域に属する法曹の代表例は、司法職である。司法職と言えば、裁判所制度下ではほぼ裁判官を指すが、原則的に裁判所制度を持たない共産主義的司法制度下では、下掲のような個別的な役割を担う司法職の総称である。
 これらの司法職はいずれも法曹共通資格であるところの法務士のうち、法務士職能団体の司法職候補者名簿に登載された者の中から、所定の手続きを経て、いずれかの圏域の民衆会議により任期を区切って任命され、個別の選抜試験等による官僚的な任用制にはよらない。

○衡平委員:市民法に関わる紛争の調停
○真実委員:犯則事件の真相解明

○護民監:基本的人権・市民的自由の擁護

○民衆会議法理委員会判事委員:有権的法令解釈
○民衆会議憲章委員会判事委員:有権的憲章解釈

○弾劾法廷検事及び判事:公職者・公務員等の弾劾裁判

 ところで、裁判所制度を持たない共産主義社会で比重を増す公証人も公務員であるが、司法機能そのものを担う司法職には含まれない。公証人は独立して事務所を構える公的法務職域の特例的な職能である。
 さらに、民衆会議法制局やその他の民衆会議所管機関の内部部局として設置される法務部署のスタッフも法務士または法務士補から任用される法務事務職として、公的法務職域に属する。
 これらの法務事務職も司法職には含まれないが、法曹の独立原則からその職務は部署外からの干渉に対して守られねばならない。

コメント

近代革命の社会力学(連載第113回)

2020-06-10 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(7)革命の保守的収斂過程
 メキシコ革命は、1916年までに農民革命が挫折した後、さしあたり、1917年にようやく革命憲法が制定されることで、一区切りがつく。この1917年憲法は、革命の勝者となったカランサ派が主導したものであったが、奇妙なことに、必ずしもカランサの意に沿う内容ではなかった。
 というのも、カランサ自身はブルジョワ民主主義者でありながら、カランサ派内部にはサパタらの農民革命運動の影響が浸透しており、社会主義的な傾向性も帯びていたからである。そのため、出来上がった憲法は、ロシア10月革命に先駆けて、社会的な権利の保障を規定し、さらには土地、地下資源、水の国家管理を謳うなど、社会主義的な内容を含んでいた。
 こうしたことから、カランサは大統領に選出されたものの、事実上憲法を無視し、農民や労働者勢力を敵視、抑圧した。そのハイライトは、1919年、刺客を送り込み、山岳ゲリラ活動でなお抵抗を続けていたサパタを殺害したことである。
 一方、革命の過程では主導的なアクターとは言えなかった労働者勢力も、革命憲法によって活力を得て、活動的になると、カランサはこれも抑圧しようとしたため、労働者勢力はより進歩的なオブレゴンと連携するようになる。
 それ以前からカランサと対立し、政権に追われていたオブレゴンは郷里である北西部のソノラ州にて立憲自由軍を結成し、カランサ打倒の狼煙を上げた。こうして、メキシコは1920年、再び内戦状態となる。
 立憲自由軍は農民勢力からも支持を受け、首都に進撃したため、カランサは西岸部ベラクルス州へ敗走するが、当地で暗殺された。かくして、1920年6月、オブレゴンが新大統領に選出される。
 労働者、農民に支持されたこの1920年政変は、メキシコ革命の第二段階としての「労農革命」と位置づけることもできそうであるが、その後の展開を見るとそうではないところが、メキシコ革命の複雑な点である。
 大統領となったオブレゴンは、農民運動のサパタ派、ビリャ派と和平合意を結び、取り込みを図りつつ、農地改革に着手し、20万人近い農民に農地を再分配した。その一方で、1923年には郷里で農園主として引退生活を送っていたビリャの暗殺にも関与したと見られている。
 オブレゴンが1924年にいったん大統領を退任した後、憲法の再選禁止規定を改正させて1928年に大統領返り咲きを果たした直後、カトリック派により暗殺されると、跡を継いだのは腹心で、前大統領のプルタルコ・エリアス・カリェスであった。
 カリェス前政権はオブレゴンの傀儡に近い政権であり、革命憲法で謳われた政教分離を強権化し、カトリック教会・神学校の閉鎖や教会財産の没収などを断行するカトリック弾圧政策に彩られていた。
 しかし、オブレゴン暗殺後のカリェスは大統領に再選されることなく、自身が操縦できる傀儡を大統領に据えるキングメーカーとして君臨した。こうしたカリェス実権体制を支える政治マシンが、1929年に結党された国民革命党(後の制度的革命党)であった。
 国民革命党はマルクス主義政党ではなく、メキシコでは複数政党制が維持されていたが、実態としては、同時期のソ連における共産党一党支配制に影響された一党優位政の樹立により、ロシア革命と同様、メキシコ革命も動的性格を失って、言わば物象化し、保守的収斂が確定した。
 カリェス実権体制下では、労働組合の腐敗が進行するとともに、農地改革は停滞し、革命の成果は形骸化していく。カリェスは傀儡として擁立したラサロ・カルデナスの背信により追放され、カルデナス政権下で再び革命の再活性化が試みられるが、彼の退任後は保守的収斂路線に戻っていった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第112回)

2020-06-09 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(6)農民革命運動の挫折
 ウエルタの反革命軍事独裁政権を倒して再び革命を振り出しに戻した立憲軍であったが、これによって成立したカランサ体制はマデロ革命の継承者であったから、ブルジョワ革命路線を変更する意思はなかった。そのため、ここで再びサパタら農民革命運動との衝突は避けられなかった。
 ところで、メキシコ革命の過程で重要なアクターとなった農民革命運動にも、主流派と言うべきサパタ派のほかに、非主流派としてパンチョ・ビリャに率いられたビリャ派があった。パンチョ・ビリャは、先住民系小作人の息子で、若くして山賊となった人物である。出自からすれば、混血系中産階級出自のサパタよりも、ビリャのほうが農民運動の「主流」とも言えた。
 政治意識に目覚めたビリャはマデロ革命にも参加したが、彼が本領を発揮したのはカランサの立憲軍で北部師団司令官に任命されてからである。彼の指揮下の北部師団は、アメリカ国境の要衝シウダー・フアレスを制圧すると、続いてチワワ州全域を征服して、首都メキシコシティ―に向けて進撃する。こうしたビリャの北部師団の活躍は、立憲軍の勝利に大きく貢献した。
 一方、サパタ派はイデオロギーの違いから立憲軍に参加することなく、独自に戦っていたが、軍事的な勢力としてはビリャ派に及ばず、ビリャ派とは中途から連携するようになっていた。両派がイデオロギー的にも合流するのは、立憲軍の勝利後、中西部アグアスカリエンテスにて開催された革命派の大会においてであった。
 両派はサパタの思想に沿ったアヤラ綱領を共同綱領として、カランサに退陣を求めるも、カランサ側は当然にも拒否したことで、両者の決裂は決定的となった。これ以降、メキシコ革命は、ブルジョワ民主勢力と農民革命勢力の内戦という新たな段階に突入する。
 カランサ派は首都メキシコシティーを撤退し、サパタ・ビリャ派がいったんは首都を制圧するが、農民の拠点がないメキシコシティを首都とする意思のなかった両派がすぐに首都を撤収したことは、戦略上のミスとなった。カランサ派はすぐにメキシコシティを奪還したうえで、脅威となるビリャ派を追撃したからである。
 カランサ派の主将アルバロ・オブレゴン(後に大統領)は正規の軍人ではなかったにもかかわらず、戦略家であり、旧式の騎兵ゲリラ戦法中心のビリャ派に対して、機関銃を駆使した近代的な新戦法で臨み、ビリャ派を撃破、1915年7月にはカランサ派が全土を制圧した。こうして成立したカランサ政権に対しては、アメリカも承認した。
 残党を率いるビリャは1916年初頭から、アメリカ民間人の殺害やアメリカ軍駐屯地への奇襲などのテロ的戦術で反米活動を展開したが、このようなまさに山賊的活動は農民革命からいっそう遠ざかるだけであった。サパタも独自に反カランサ運動を継続するも、本拠モレロス州からも政府軍によって駆逐されていった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第111回)

2020-06-08 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(5)反革命と再革命
 およそ革命においては、それがひとたび成功した後も、旧勢力による反革命が隆起してくることが多い。メキシコ革命もその例に漏れないが、ここでの反革命の起き方はいささかねじれていた。
 メキシコ革命の第一段階は、前回見たとおり、マデロを中心とするブルジョワ民主化革命であった。ところが、彼が革命プロセスをそれ以上に進めようとしないことに失望した農民運動勢力は、独自に革命の進展を図った。
 そうした第二の革命運動の前衛に立ったのは、農民運動指導者エミリアーノ・サパタである。彼は中規模の農園を所有する混血系メスティーソ中産階級の出自ではあったが、早くから先住民の権利要求運動に関わっていた人物である。
 サパタは「マデロ革命」に際しては、中部の地元モレロス州の革命軍を率いて参加したが、革命成就後には早くもマデロと決裂した。先住民への土地返還を要求するサパタに対し、農園主層の既得権を擁護するマデロはこれを拒否したからである。
 そこで、サパタは白人が先住民から収奪した土地・森林等の財産を先住民の所有とすることを謳った革命的なアヤラ綱領を発し、新たな農民革命運動を開始する。
 他方、保守派は革命を収束できないマデロの政治手腕に不満を抱き、北部や首都メキシコシティで相次いで武装反乱を起こした。こうして、誕生したばかりのマデロ政権は、左右から挟撃される窮地に陥ることとなった。
 これに対し、マデロは軍最高司令官ビクトリアーノ・ウエルタ将軍に鎮圧を命じた。ウエルタはディアス独裁体制の生き残りだったが、体制崩壊後はマデロに忠誠を誓って軍最高司令官に抜擢されていた。
 しかし、本質的に日和見主義のウエルタは会計不祥事で解任されるや、1913年2月、保守派反乱軍と共謀して反革命クーデターを断行し、マデロを拘束、殺害したうえで、自ら大統領の座に納まった。
 こうして成立したウエルタ政権はディアス政権の再現とも言える軍事独裁であり、革命は一気に収束し、革命前の状況に逆行するかに見えた。
 しかし、ウエルタの誤算は、アメリカの承認を得られなかったことである。当時のアメリカ大統領ウィルソンは基本的にマデロのブルジョワ民主化革命を支持しており、ウエルタに公然と辞職を要求してきたのだった。ウエルタ政権を承認したのは、イギリスとドイツだけであった。
 こうした外交的な孤立状況を見て、国内でもマデロを継承するベヌスティアーノ・カランサを中心とする立憲軍が組織され、再革命運動を開始した。立憲軍はカランサを「革命第一統領」に立て、1913年10月、北西部ソノラ州に臨時政府を樹立した。
 立憲軍は師団編成を擁していたが、所詮は寄せ集めのゲリラ勢力に過ぎなかった。しかし、ウエルタは正規軍を掌握しているにもかかわらず、アメリカの武器禁輸・押収措置によって反撃力を削がれており、翌年まで持ちこたえたものの、1914年7月に政権を放棄して、イギリス(後にスペイン)へ亡命していった。
 ここに、反革命を打倒する再革命が成功した。今回の主人公はカランサであったが、彼はマデロのコピーのような人物であり、やはりブルジョワ民主化革命の一線を越えようとはしなかった。
 1914年10月、革命の仕切り直しのためカランサの発案でアグアスカリエンテスにて招集された革命各派の協議会(アグアスカリエンテス会議)は、アメリカ独立革命当時の大陸会議に似た主権会議であったが、各派の考えはまとまらなかった。
 発案者のカランサ自身が欠席し決議を拒否するありさまで、翌月、エウラリオ・グティエレス将軍を20日間限定の暫定大統領に選出するだけで終わった。結果、この会議は新たな内戦の契機となったのである。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第36回)

2020-06-07 | 〆貨幣経済史黒書

File35:ジンバブウェの天文学的インフレ

 大恐慌や大不況、感染症パンデミック等が勃発するつど、有価証券資産は価値下落を免れないが、現金資産なら価値は一定であり、何はともあれ、やはり現金資産を多く持つほど安全である―。これは、とりあえず正論である。「とりあえず」というのは、物価と通貨価値ともにひとまず安定が保持されている経済状況下では、ということである。
 その点、アフリカのジンバブウェで2000年代に発生し、現在も後遺症が続く天文学なハイパーインフレーションは、現金資産も決して絶対的に安全ではないことのまさに黒書的な教訓となる出来事である。ジンバブウェでなぜそのような悪夢のハイパーインフレが発生したかについては、この国の成り立ちから見ていく必要がある。
 ジンバブウェは、1980年に白人優越主義の白人国家ローデシアが黒人主導に転換されて成立したかなり新しい国である。黒人主導となっても、しばらくは農地の大部分を白人が所有する不平等な構造が温存されていたが、2000年、ついに政府はこの構造にメスを入れ、白人から農地を強制的に接収し、黒人に再配分した。
 続いて、外資規制のため、外資系企業株式の過半数をジンバブウェ黒人に強制譲渡させるといった過激策も導入したことから、白人地主層の流出と外資系企業の撤退が続いた。これにより従来、白人経営の農業と外資で支えられていたジンバブウェ経済が一気に縮退した。
 これに対し、政府は通貨の大量供給で対応しようとした。その結果は、天文学的な規模のハイパーインフレーションであった。2000年からインフレ絶頂期の2008年までに物価は700万倍に騰貴し、08年のインフレ率は実に2億311.5万%に達した。年率では220万%というから、仮に年初に1本100円のバナナがあるとして、年末には220万円に高騰する単純計算となる。
 これほどのウルトラインフレになると、通常のインフレ対策は通用しないため、究極の手段として、通貨価値を政策的に切り下げること(リデノミネーション:いわゆるデノミ)によるほかなくなる。ジンバブウェ政府も、2008年8月に100億分の1のデノミを断行するも効果なく、2009年2月に1兆分の1のデノミを連続実施するという過激策を講じた。
 このように短期間で二次にわたる過激なデノミを断行したことにより、自国通貨ジンバブウェ・ドルは事実上無価値となったため、流通も停止、以後は、アメリカ・ドルを基軸とする外貨主義に転換したのである。外資排除の政策が外貨導入を帰結したのは、皮肉というものであった。
 ちなみに、自国通貨の価値をあえて破壊するかのようなデノミ政策は必ずしも特異なものではなく、ジンバブウェと同時期のものに限っても、トルコ(05年)やルーマニア(同年)、北朝鮮(09年)などでデノミが実施されている。
 また、歴史的には、近年投資対象として注目されるブラジルのレアルなども、たびたび通貨名の変更を伴いつつ、1994年までの約半世紀で8回にのぼるデノミにより、275京分の1という天文学的な率での長期的な切り下げを経ている。
 まとめれば、ハイパーインフレーションは安定なはずの現金資産が異常な物価高騰により実質的に価値下落する状況を来し、対策として打たれるデノミは通貨価値を政策的に切り下げることにより、現金資産の価値が額面上も一挙に下落する。いずれにせよ、現金資産を多く保有する富裕層ですら貧困に陥る可能性を孕む貨幣のホラーである。

コメント

共産法の体系(連載第45回)

2020-06-06 | 〆共産法の体系[新訂版]

第8章 法曹法の概要

(3)司法人工知能
 見てきたように、共産主義的司法制度は弾劾司法の分野を除けば、裁判所という伝統的な司法制度によらないので、裁判の先例、いわゆる判例の集積が得られない。とはいえ、各分野の司法機関が示す先例の蓄積というものはあって、それらが判例に匹敵する役割を果たす。
 しかし、そうした司法先例はもやは紙書籍の判例集のような形態では記録されず、それらは専用の人工知能に記憶される仕組みが導入される。これを「司法人工知能」と呼ぶことができる。
 一般的に、人工知能が実用投入される場合、その機能には記憶された膨大なデータを必要に応じて抽出する参照機能、特定の事例について解決法を質問し、妥当な回答を得る諮問機能、さらに特定の案件について判断を下す決定機能を区別することができる。
 このうち司法人工知能が持つのは、参照機能と諮問機能だけであって、決定機能を持たせてはならない。すなわち、司法的決定はあくまでも人間たる法曹が独立して行うのであり、決定を人工知能に委任することは許されない。言い換えれば、前回見た「法曹の独立」テーゼは、人工知能からの独立にも及ぶものである。
 司法人工知能の参照機能は、言わば判例集に匹敵するような機能であり、人工知能が記憶するあらゆる司法先例を法曹が参照し、利用できるようにする機能である。この参照機能は、一般市民にもアクセス権が認められ、司法先例に関する情報公開の意義も持つことになる。
 一方、司法人工知能の諮問機能は、法曹が職務を行うに際して、担当する事案の先例に基づく妥当な解決例を諮問し、人工知能が回答する機能である。司法的解決を求められる事案は過去の同種事案の先例に沿った解決をすることが法的な平等性と安定性に資するため、法曹はまず司法人工知能の諮問機能を利用して、その回答を得ることが望ましい。
 従って、このような司法人工知能の諮問機能は現職の法曹にのみアクセス権が認められ、一般市民によるアクセスは原則的に制限される。ただし、前出法学院の学生が学習目的でアクセスする権限は認められてよい。
 この諮問機能は、人工知能が人間たる法曹になり代わって判断を下すことを意味しないこと、すなわち人工知能に決定権能はないことを改めて確認しなければならない。
  従って、人工知能の回答はあくまでも諮問への答申であって、拘束性はないから、法曹が最終的に判断を下すに当たって、司法人工知能の回答と異なる判断を下すことは何ら問題とならない。
 以上のような司法人工知能の機能と運用に関する詳細は、それ自体も法曹法の一環を成す専用の法律によって明確な規定として定められなければならない。
 なお、人工知能も民衆会議により民主的に管理され、悪用や自立的暴走から防護される必要があるので、各領域圏の全土民衆会議の下に、公的分野に投入される人工知能を統一的に管理する人工知能管理センターが設置される。司法人工知能も、同センターによって管理される。

コメント

共産法の体系(連載第44回)

2020-06-05 | 〆共産法の体系[新訂版]

第8章 法曹法の概要

(2)法曹の独立性
 共産主義的社会運営機構は古典的な三権分立体制を脱し、全権力が民衆代表機関としての民衆会議に統合される。従って、司法権も民衆会議から離れてはあり得ず、「司法の独立」といった古典的な概念も妥当しない。
 とはいえ、司法権が外部から介入を受け、特定の個人や団体、社会集団の利益に奉仕するような偏向を来たしてはならず、中立性を高度に保持すべきことは司法の普遍的な鉄則である。この鉄則を実現するため、共産主義的司法制度にあっては、司法を担う法曹の独立性が保障される。
 「法曹の独立性」とは、前回見た法務士と公証人という二種の法曹がその職務遂行上、外部から干渉されることなく、独立して判断することを意味する。法務士は種々の司法職の人的給源ともなるが、司法職に就いている間はもちろん、民間で私的な法律業務に従事している間も独立性を保障される。
 例えば、企業体の法務部署に勤務する法務士であっても、その業務遂行に当たり、他の内部機関・部署から介入を受けることはない。そうした独立性が保障される結果、経営陣の指示によって企業内法務士が不正の法的隠蔽を図るような企業ぐるみの不正工作を防止することができる。
 また、法務士が特定個人や企業その他の団体の法律顧問として専属することは認められない。こうした専属的法律業務は、依頼者との継続的な互恵関係ゆえに法曹の独立性を保持できないからである。個人も企業その他の団体も、何らかの法的助言を得たければ、そのつど法務士に相談、依頼することになる。
 一方、法務士が私的に経営する法律事務所や公証人が詰める公証役場は捜査機関等の法執行機関による安易な捜索押収を受けない権利が保障される。捜査の必要上、それらの場所で捜索押収するときは、人身保護監が発付する特別な授権令状を要する。
 さらに、法曹は身分保障という点でも特別な処遇を受ける。各種司法職にある間、その罷免やその他の懲戒処分は民衆会議弾劾法廷の判決によらなければならない。また民間にある間も、法務士や公証人の懲戒処分はその職能団体のみが行なうことができる。
 法曹の職能団体は法に基づいて高度な自治権を保障され、その内部運営に関しては、民衆会議を含む外部からの監督・干渉を受けることはない。ただし、準公的な団体として、一般護民監の監査対象となることはあり得る。

コメント

共産法の体系(連載第43回)

2020-06-03 | 〆共産法の体系[新訂版]

第8章 法曹法の概要

(1)法務士と公証人
 法とそれを適用して種々の争訟を解決する司法の運用に当たっては、法律事務や司法職務を専業とする法律専門家(法曹)という担い手の存在が不可欠である。後に述べるように、司法分野における人工知能の活用も推進されるが、人工知能を運用するのもまた、人間たる法曹にほかならない。
 法曹の資格や職務権限などを定める統一的な法律が存在するわけではないが、本章では、法曹に関する定めが置かれる諸法を「法曹法」と総称して、その概要を見ていくことにする。
 弾劾司法の分野を除いて、基本的に裁判所という伝統的制度によらない共産主義的司法制度の下では、法曹のあり方も資本主義社会のそれとは大きく異なってくる。裁判所制度が存在しないことにより、当然ながら裁判官という職務は存在せず、また刑事事件を中心に国側代理人として法廷に立つ検察官の職務も存在しなくなる。
 一方、民間にあって法律事務を専業とする法律家は不可欠であるが、その任務の中心は法廷弁論ではなくなるので、弁護士というよりは法務士という新たな専門職に純化される。
 そのうえで、これまでに見た衡平委員や真実委員、護民監その他の司法職は、法務士の中から所定の手続きにより任命されることになる。その意味で、法務士はあらゆる司法職の統一的な人的給源となる。
 他方、裁判所制度が存在しないことにより、公的証明を専業的に行なう公証人の任務が重要となる。古い歴史を持つ公証人は契約その他の法律関係を証明する公正証書を作成し、法的紛争を未然に防止するうえで決定的な役割を負うため、法務士と並ぶ第二の法曹として、改めて明確な位置づけを与えられる。
 これら法務士と公証人を併せた法曹の養成は、高度専門職学院の一つである法学院を通じてのみ行われる。すなわち法学院を修了し、法務士または公証人の資格試験に合格して初めて法曹として合法的に業務を行なうことができることになる。
 ただし、最終的に法務士となるには、二段階にわたる法務士試験の初級段階に合格してまずは法務士補となる必要がある。法務士補の業務は後に述べる企業等の法務部署等の私的法務職域のほか、公的法務職域の補助職に限られ、法務士としての業務を単独で行なうことはできない。
 いさかか迂遠ではあるが、法務士補として所定の年数の経験を積んだうえで、最終試験に合格すると、正式の法務士となる仕組みである。共産主義社会では、全般的に専門職も一回的な試験だけで終身間地位が保障される特権ではなく、徒弟制的なプロセスで養成されていくことの反映である。

コメント

近代革命の社会力学(連載第110回)

2020-06-02 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(4)ブルジョワ民主化革命の始動
 メキシコ革命の背景的な要因は、外部からもたらされた。すなわち、米国発の1907年恐慌である。ディアスの開発独裁体制下で米国資本が進出していたメキシコは恐慌の余波を受け、経済的な打撃は大きく、支配層であり、ディアス独裁体制の支持基盤でもあった農園主層にも経済的損失が及んだ。
 これを機に、まずは比較的民主的な精神を持つ若手の農園主層が革命に決起する。その代表者となったのが、1873年生まれのフランシスコ・マデロである。マデロは当時のメキシコでも最も富裕な農園主の家系に生まれ、米国留学経験も持つまさに典型的なメキシコ支配階級エリートであった。
 彼はまた農園主であると同時に、繊維工場主でもあり、ディアス体制下で誕生してきていたメキシコ人の民族資本家という顔も持っていた。そうした点で、ディアス体制下で育ったマデロはまさにディアス体制の申し子と言える存在なのであった。
 しかし、マデロはディアスの長期執権に対する最大の敵対者となる。すでに憲法の大統領多選禁止規定を排除して終身的に居座る構えを見せていたディアスに対し、マデロは1909年に再選反対センターを設立し、1910年予定の大統領選挙でディアスを追い落とす運動を始めた。
 この段階は革命ではなく、あくまでも選挙を通じた「ディアス降ろし」の政治運動であり、マデロ自身も立候補を予定していたところ、ディアス側は機先を制してマデロを反乱扇動容疑で逮捕・投獄した。そのうえで、ディアスは実に九選を果たしたのであった。
 マデロは直後に釈放され、米国へ亡命したが、この寛大な処置がディアスにとっては失策となった。マデロは10月、テキサスでサン・ルイス・ポトシ綱領を発し、ディアス体制に対する武装革命を呼びかけたのである。ちなみに、サン・ルイス・ポトシはマデロが投獄されていた監獄の所在する町の名にちなんでいる。
 このマデロの呼びかけが、メキシコ革命の最初の導火線となる。この時点で、マデロは革命を組織化したわけではなかったにもかかわらず、農民運動を含む諸勢力が自然発生的に武装蜂起し、一挙に革命的状況に発展した。これは、20世紀初頭以来、メキシコ社会ではマグマのごとく革命的な潜勢力が隆起していたことを示している。
 革命軍がチワワ州の要衝シウダー・フアレスを制圧すると、ディアス政権は妥協による延命工作を画策するも失敗し、1911年5月、ディアスは政権維持を断念してフランスへ亡命した。
 その後、ディアス政権の外務大臣だったフランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラの臨時移行政権を経て、同年10月の大統領選挙でマデロが大統領に当選を果たした。これにより、メキシコ革命の最初の段階が完了する。
 マデロが圧倒的な主人公であったこの段階は、本質上ブルジョワ民主化革命の性格を持っていた。というのも、マデロとその支持者は基本的に農園主層の出であり、独裁者ディアスを排除しても、かれらブルジョワ階級の支配権を放棄するつもりはなかったからである。
 このことは、呼びかけに答えて「マデロ革命」に参加した農民には幻滅を与えるとともに、かれらをして次なる革命運動に赴かせる契機となった。他方で、マデロには革命を収束させる政治手腕が欠如しており、このことは保守層の苛立ちを招き、誕生したばかりのマデロ政権が両極から挟み撃ちにあう事態を予期させた。

コメント

アメリカ人種暴動の深層構造

2020-06-01 | 時評

アメリカが目下、COVID-19パンデミックの世界最大中心地となる中、ミシガン州ミネアポリスで非武装のアフリカ系市民(黒人)が職務執行中の白人警官に窒息死させられた事件をきっかけに、全米規模のデモが暴動に展開したことは、改めてアメリカという国の不幸な成り立ちに思いを巡らす機会となった。

アメリカは、元来、先住民を排除し、黒人奴隷制を利用する白人によって建国され、開拓された国である。200年の時を経ても、多数派を占める白人にとって、先住民や黒人は同胞国民ではなく、不穏な異人か、せいぜい憐みをもって接するべき他者にすぎない。

実際、全人口の10パーセント内外の黒人や、同1パーセント未満で多くは居留地に閉じ込められている先住民を伴侶や親友に持つ白人はほとんどいないという状況では、白人が黒人や先住民を同胞と認知することは困難である。

その点、日本ではアメリカの正式国名United States of Americaをどういうわけか、「アメリカ合国」とする訳が定着しているが、直訳はむしろ「アメリカ合国」である。アメリカはの連合体ではあっても、汎人種的なの連合体ではないのだ。

もっとも、自由平等を理念とする独立革命で成立したアメリカは、19世紀に奴隷制廃止、20世紀に新連邦公民権法の制定という画期点を迎え、少なくとも、制度的な人種差別を克服する歴史的な努力は重ねてきたが、白人の意識に巣食う非制度的な人種差別までは一掃できていない。このような言わば心の差別が、ほとんど故意に黒人を死に至らしめるような白人警官の人種差別的な法執行を横行させている。

こうした非制度的人種差別慣習を法的に除去することは簡単でない。当面の対策として、連邦公民権法に再び改正を加えて、人種差別的法執行を明確に連邦犯罪とし、全件を連邦裁判所で審理することや、州裁判所の陪審評決に人種差別の疑いがあれば、連邦裁判所への破棄申し立てと再審理を認めるなど、司法分野での公民権確立を進めることは有益かもしれない。

しかし、まさしく州の連合体として、各州が自治的に享有する州の司法権を制約するこのような連邦法の大改正には大きな反発が予想されるし、まして白人優越主義者を支持基盤に持つトランプ政権と共和党が推進することはないだろう。

より根本的には、人種差別と骨絡みである「アメリカ合州国」=United States of Americaを汎人種的な「アメリカ合衆国」=United Peoples of Americaへと作り直すことである。そのためには、現存のアメリカはいったん解体する必要がある。目下、全米規模で広がる抗議活動は―単なるデモや暴動に終始しなければ―そうしたアメリカ解体の第一歩となるかもしれない。

とはいえ、United Peoples of Americaというものは、もはや国家ではなく、国家なる狭い枠組みを乗り超えた、まさに民衆の連合体ではないだろうか。その点、主権国家を止揚した領域圏という筆者が年来提唱する概念に近いものとなるのかもしれないが、この件については保留としておきたい。

コメント