旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「波の伊八」を知る~大山不動尊、行元寺、飯綱寺、+笠森観音、ホキ美術館、瑞洲亭

2024-12-23 14:02:59 | 国内
北斎にも影響を与えたと伝わる武志伊八郎信由は今、「波の伊八」と通称されている。

※こちらにも書きました
12月8日午後に訪れた大山不動尊は↓今年開山1300年を迎える古刹。

修験道、神道、天台宗、真言宗、変転はしたが近在の信仰を集め続けている。
1802年に建て替えた本堂の入り口に↓伊八が彫った二匹の龍↓

↑下に臥す脚に宝珠を握る「海の龍」↑波が大きな波頭をつくり上昇して雲に変わっている↑
↑左上の翼のある「空の龍」↑両方の周りに稲妻が見える↑
宗教宗派が変わっても、大山不動尊はずっと雨乞いの場所だった。
雷は科学的にも雲の中に溜まったマイナス電荷が地上のプラス電荷と接触して起きる放電現象。
伊八の龍は期せずしてそれを表しているようにさえ見える。

彫刻と同じ1802年に完成している本堂には↓より古い時代の厨子が見える↓

↑日光東照宮の彫刻に携わった彫り物大工が療養のために暖かい房総に滞在し、彫ったと伝わっている↑
↑たしかに東照宮の陽明門を思い出させる↑
厨子の縁台に↓伊八の写真集で見おぼえていた「俱利伽羅龍」がみえた↓

↑後ろに見える厨子の龍と呼応するようだ↑この場所のために彫られたのだろうか?
※間近に見せていただけるタイミングで俱利伽羅龍の足元に見事な波が彫られているのを教えていただいた。この波が見えなくなるような場所にもともと置かれていたとは思えなくなった…

↑外陣の巨大な絵馬など興味惹かれるモノはまだまだみられる…他日を期します。

翌日12月9日、冒頭写真の波の欄間がある行元寺を訪れた。

円仁については2015年に山形の立石寺(いわゆる「山寺」)を訪れた時にはじめて知った。
※この時のブログにリンクします
円仁が唐から持ち帰ったサンスクリット語⇔漢字の辞書を、2022年に東洋文庫で見た※リンクします
最澄の弟子で、最澄を超えた人物だったと思う。
円仁が東国で最初にひらいた寺なので「東頭山(とうずさん)」と称されている。

江戸時代以前の天正14年(1586)に建設され↑元禄時代に拡張された本堂は火災に遭っていない。

↑拡張の際に、幕府から派遣された御用宮彫師 高松又八郎邦教の彫った鮮やかな欄間彫刻がある。
現代では伊八の方が有名だが、当時は高松又八郎の方がずっと格上。
伊八は先人の技に学んでいただろう。
一方、北斎の兄弟弟子五楽院等随の鷹の杉戸絵もある。
※行元寺のHPにリンクします

「波の伊八」の最高傑作と言われる「牛若丸と天狗」がある飯綱寺へ。

「千葉虹色こまち」さんのページに写真たくさん紹介されています※リンクします
屋外で風雨にさらされている伊八の木彫もたくさんある↓


↑この裏側

どれも波が躍動している。


注目される作よりもその周辺を見ていくことで真価が感じられる。


伊八もさることながら、次の世代になる※大木茂八の木彫にも惹きつけられた↓

※こちらにも書きました



江戸時代に奉納されたたくさんの天狗たち。

境内のキンカンを味わうこともできた。

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外房の波はオリンピックのサーフィン会場につかわれるほど。

釣ヶ埼海岸にもよった。

五十嵐カノアをはじめ日本チームのサイン入りボード↑

房総の蜂蜜買ってみました
***
笠森観音へ

日本唯一の四方係=岩山のてっぺんにお堂を建て四方すべてを柱で支えている。

後一条天皇の勅願で最澄が彫った十一面観音立像を収めるために平安時代に建てられたと伝承は語るが、
昭和35年の調査で天正(安土桃山時代)の墨書が見つかり、その頃の建築ではないかとされている。

昭和の解体修理以前はいったいどんなだったのだろう。

周囲の森が見晴らせる。
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ホキ美術館は、日本人画家の超写実絵画を専門に集めている。
2010年に開館した時には周囲の住宅街はなかったとのこと※HPにリンクします

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ご希望の方と「瑞洲亭」で夕食。

旧スイス大使館を移築した。

格天井の応接室の個室でいただきました。

燻製の煙を閉じ込めた球をひらくと




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