旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

16世紀の計画都市ヴァレッタ

2024-11-01 10:34:22 | マルタ
2006年4月マルタの旅より
マンハッタンのようにまっすぐな道。

それは計画してつくられた都市だから。
ドームは「カーマライト教会(カルメリータ会のバジリカ)」。
※ヴァレッタ建設時16世紀後半に建設されたが1942年第二次大戦で爆撃破壊、1981年に再建された


起伏のある半島にまっすぐな道を通したので、サンフランシスコのような急坂になっているところもある。

1980年に世界遺産にも登録された。
街の名前は都市を計画したフランス人ジャン・ド・ラ・ヴァレット名前からつけられた(街は女性名詞なので語尾変化している)。

二度目に訪れたのは街が建設されて440年記念の2006年↑
↑町の入り口門に記念の幕↑
**
前夜、アムステルダムからの直行便で到着した。

日本から当日乗り継ぎで到着できる唯一の便だった。
マルタ航空機内で出されたマルタ独特の炭酸飲料「キニー」※解説ページにリンクします



翌朝、城壁で囲まれているヴァレッタに気付く

国章になっている先割れ十字は淡路島の半分ほどしかない島を独立国にした騎士団の紋章。

騎士団のルーツは11世紀にエルサレムで設立されたキリスト教徒の巡礼者を看護する病院。
それを守るために結成された「聖ヨハネ騎士団」である。
1291年、聖地がイスラム教徒によって陥落し、
1309年、ロードス島に本拠を移した※小松が訪れた時のブログにリンクします
1523年、ロードス島もオスマントルコ帝国の猛攻をうけ、
騎士団はロードス・シティを明け渡した。
1530年、神聖ローマ皇帝カール五世からマルタ島を領土に賜る。
賃料は年に鷹一羽。

騎士たちはオスマントルコがこの島にもやってくることを予期していた。
果たして、1565年オスマントルコはマルタ島を包囲。
だが、すでに要塞化していた街は猛攻もちこたえた。

↑当時の「Great Siege(大包囲)」の遺物はたくさん展示されている↑
↑丸いのは鉄砲の鉛球とそれを形成する道具↑

↑当時の騎士団長ヴァレットの甲冑の本物↑わりに小柄な人だったようだ。
包囲を持ちこたえた翌年、ヴァレットは新しい要塞都市の建設をはじめた。
それが現在、彼の名前をとってヴァレッタと名付けられた街である。

ヴァレッタに建設された「聖ヨハネ大聖堂」の床には騎士たちの墓石がずらりと並んでいる↑
ヴァレットの墓もここに移された。

1608年、「大包囲」で功績をあげて騎士団長になったアフロ・ド・ヴィニャンクルの庇護を求め、マルタにやってきた画家カラヴァッジョが「聖ヨハネの斬首」を描いた。

↑間近に見たかったが遠くて暗い…

カラヴァッジョの絵はもともと暗い画面にスポットライトを当てたような構成なのだが。

↑聖ヨハネの首から流れた血で「ミェランジェロ・メリージ」(カラヴァッジョの本名)とサインされている


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