Remains of The Accidents

アクシデンツなページ

わすれてはならないこと

2025年02月01日 | つれづれ

今年の正月は神保町/新世界菜館の牡蠣そばで始まった。

今年の正月休みもウチの奥さんの実家にお世話になり、もてなしてもらった。

毎回、なにか持参していこうかと奥さんに云うのだが、彼女は特にいらないという。

他人である自分は、なかなかそうはいかないと気を遣おうとするのだが、総じて
彼女は拒否する。

もともと他人の家ではご飯が喉に通らず、好き嫌いを超えてあまり箸をつけないで
いることが多くて嫌われがちなので本当に気を遣っているのだが・・・。

 

この食事についての悪い性癖は小さなころからのことで、今さら変わることがない。

確か幼稚園に入る前くらいのこと、姉に続いて兄が小学校に上がったのを機に母親が仕事に
でかけるようになった。

何の仕事かは忘れたけれど裕福な家ではなかったので、母はいつも何かしら仕事をしていた。

今どきと違ってコストのかからない公立の幼稚園は年長のみだったので、自分は母親の
友人の家に預けられ、夕方になると母に迎えにきてもらう暮らしだった。

預けられた家のことはあまりよく覚えていないが、同い年の女の子がいる家で私鉄の線路に
近いアパートの1室だった。

元々人見知りがひどくてあまりなじめない子供だったので、同い年の女の子ともほとんど口を
きかなかった・・・と後年同級生になったその子から聞いたことがある。

他人の家では食事ができないのはその頃からのことで、母親は毎日菓子パンを持たせてくれた。
何も楽しいことはなく、毎日々々早く夕方にならないかと待っているだけの暮らしだった。

お世話になった方にはずいぶん気を遣っていただいたのだが、そんな調子なので早々に「この子
は無理だ」ということになり預けるのをやめたみたいで、記憶が薄いのではないかと思う。

そして、その後も他人の家では食べ物が喉を通らない難儀な病気は現在に続いている。
結局、いつも気を遣ってくれる方には失礼ばかりしとおしてきた。

さて、その家には預けられなくなり母は仕方なくもとの内職をしていたのだろう。

今でも日差しのあふれる小春日和には暖かい南側の部屋で母親の内職を手伝ったり
洗濯物をたたんだりして母親の側にいたのをよく覚えている。

そして、その翌年には晴れて幼稚園に通うようになった。

朝は兄姉が幼稚園まで連れて行ってくれるし、昼前に帰宅しても次に兄が小学校から帰って
くるので、母親は気兼ねなく仕事に出かけていった。

面倒な末っ子は、ひどい人見知りのわりに幼稚園に進んで知らない子供たちの中に入ると
親の心配を余所になかなかのリーダーシップをとってクラスをまとめるようになった。

この頃から、自分は少し知っている人たちの中でいるよりも、見ず知らずの人といる方が
得意だった。

現在も全く同じであって営業で出会った初めての方の方が話やすく、社内の打ち合わせや
部内会議などは苦手の極みだ。

 

 

自宅近所では兄や姉の同級生に鍛えられていたので、幼稚園のクラスでは身長も高く
運動神経もよくて自然に遊びのリーダーになっていた。

この頃は朝早く幼稚園のグランドでサッカーをするのが楽しくて仕方なく、毎日
々々一所懸命にボールを蹴っていた。

昭和40年代はベッドタウンが拡がって郊外の野原や低い山が崩されてどんどん住宅が新築
された時代だった。新興住宅地は、学校や幼稚園は整備が追い付かずに皆遠路はるばる
通園/通学していた。

それが故に幼稚園の仲間と遊ぶためには数キロの道のりを歩いていかなければなら
なかったが、毎日のように友人たちの住むエリアまででかけては新しくできたキレイな
公園で遊んでいた。

結果的に、公園でサッカーを終えてヘトヘトになっても、夕日の帰り道を歩いて帰る
こととなって、帰宅してすぐに寝てしまうこともよくあった。

たまたまの境遇だったが、このころから一日中遊ぶこと以上の体力がついたのだろう。

 

繰り返すが、いくつになっても他所で食事ができないことは変わらない。

いまだに、例えば誰かのうちに泊まるということは恐怖であり、こんなに
緊張することはない。

20代の終りにシカゴに住んでいた友人に招かれたときも、成田空港に到着したところ
までは、初めての渡航に浮かれていたのだが、友人の家族に会って、これから何泊か
世話になることに気づいたときから緊張が始まった。

そんな話をすると、子供たちには「それでウチのお母さんのごはんは大丈夫だったのか」と聞かれる。

こちらは不思議なもので、たいていの場合は付き合っている女子の作ってくれる食事は大丈夫なのだ。

とても勝手な、わがままな話なのだが事実は事実でありごまかしようはない。

 

 

我儘な話ばかりだが、ここまで長く生きてきて思うことは、自分の中にはもう一人の自分の知らない
自分がいて、そいつは産まれてこの方我儘し放題だということだ。

そして、それが本当の自分であって、いつもは何かしら着ぐるみをきて、自分で作り上げた演じ難い
キャラを演じているだけだということだ。

社会の中にいるということはそういうことであって、本当の自分が思い切って手足を伸ばしていられる
ような場所ではないということなのだ。

そんな社会からそろそろ足を洗おうと思うが、そうやって迷惑をかけたり気を遣わしたりした方が
いること、これは忘れてはならないことだ。

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年の瀬は年の始まり

2024年12月31日 | つれづれ

暇だったので、少し大きな本屋に行ってきた。

昔から用もなく本屋でいろんな本棚を漁るのが好きだったので
本屋や図書館に行くと無限に時間を過ごしてしまう。

最近は方々に大きな図書館ができているが、何気なく立ち寄る
には場所が不便だったりするので、こんな日はやはり本屋となる。

以前に比べて本屋が減ってしまい、そこそこの駅の近辺でも
本屋が見当たらなくなった。

代わって目立つのがブックオフなどなのだが、こちらはあまり
興味深い本がなくてつまらない。

Web上のコンテンツが多くなった結果なのだろうけど、やはり
本屋は本屋で存在してほしい。

インターネット通販で稼いだ消費税かなにかからリアルの本屋に
分配するようなことはできないのだろうかと真剣に懸念している。

 

さて、年の瀬を本屋さんで過ごすのも少し変なのであるが、本屋には
大好きな本が並んでいて、こんなときにしか存分には楽しめない。

今日、覗いた本棚・・・。

まず、鉄道関係で一冊、関西では私鉄のことを○○電車と呼び、関東では
○○線と呼ぶことに関する考察本。関西は民営>官営で、関東は逆なのだと。

阪神と阪急は今でこそ共同持株会社を親とする兄弟会社だが、最初は当然
ライバル関係にあって、阪急が後発だったのだという。

足元をウロチョロするぽっちゃりしたガキんちょが少し邪魔だったのだが
そんなことには動じずに閲覧を続けた。

 

次に、科学系の雑誌コーナーで「NEWTON」をチラ見。
そのままコーナー深部まで足を延ばして精神科学のところに行った。

そこで目についた「運のよい人は自分を運のよい人だと思っている」という本
をパラパラとななめ読み。

気に入った点は、己の行動が運/不運のいずれの結果を呼んだかがわからない
中で、自分は運がいいと信じられるひとは、ほとんど必ず運がよいのだとする
考え方だ。

根拠のない自信が最強の武器。

友人iの言葉を裏付けるものだ。

 

その勢いで、何故か宗教系のコーナーに進むと「歴史に登場する神社」という本が目に。

大した内容ではないが、昔から鉄道と神社は好物なので、少しの間、この
コーナーに時間を費やした。

ただ、通りすがる人がみなチラ見するので、なんだか居心地が悪かったのだが
原因はその下の本棚にある新興宗教系のコーナーだった。

大川隆法氏のものなど色々な著作が並んでいるのだが、中には「運が強くなる」系
の著作も並んでいた。

これも一種の宗教なのかなぁと眺めていたのは、時折私鉄のドア横のスペース
に広告を載せている○○出版のものなのだが、彼の広告によれば「読むだけで
運が強くなる」ということらしい。

やはり運がよくなるためには、運河よくなると信じることが大事なのだろう。

自分なぞまだまだ修行が足りないその他の衆生にすぎない・・・。

 

さて、それから資格関係のコーナーにまわってみると、存外いろいろな資格がある
もので。今回手に取ったのは「ドローン」の操縦資格についての解説本。

この資格もずいぶん一般化して既に10千人以上のパイロットがいるとのこと。

で、気になったのが埼玉県で免許合宿があり、研修が終わると実技試験が免除に
なるというもの。

すごく気になって、帰宅したら早速調べてみようとスマホにメモっておいた。

三食温泉付き保養所個室などとされていて、夕飯も豪華なものだったので
退職後に少し時間ができたら、是非行ってみたいと思った。

 

 

都合、3時間ほど本屋にいたのだが、少し世界が広がって新たな年も
迎えられそうな気分になったのだが、帰宅する電車の中ではたと気づいた。

何も買わずに出てしまった・・・。

こういう輩が駅前の本屋の敵なのかもしれない。

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ファンダンゴ

2024年12月27日 | つれづれ

結局、今回は退職を見送ってもう1年働くことにした。

上席との面談でもずいぶん慰留されてしまい行き場を失ってしまった。

ただ、2026年春には必ず退職すると上席にも家族にも宣言してしぶしぶ了承を得た。
(なぜ「しぶしぶ」なのかはわからない・・・)

 

 

しかし、今年は大きなイベントもなく「仕事時々ツーリング」で終わってしまった。

昨日が年内最終出勤で今日から10連休にしている。

前半は家族旅行+家内の実家に帰省ということで、中央道方面から三河に向かう。

長男が運転免許をとったので、張り切っている。初めてのロングドライブだ。

 

また昔話となってしまうが、自分が運転免許を取得したのは19歳の春くらいだった。

前年、大学に入った夏休み、お中元配送のアルバイトを終えて出た四国への一人旅で
出会った人たちが単車で自由に旅するのを見て、まっ先に原付の免許を取得した。

その後、やはり普通自動車の免許も必要かと思いたち、冬の間に時間貸しの教習所で
ノウハウを教えてもらって、直接運転免許センターで試験を受けて苦労しながらも
なんとか取得した普通自動車運転免許。

免許取ってもまないころは、隣に乗ってくれた友人から「怖い怖い」「危ない!」と連呼
されながら運転を覚えたものだ。結果、特に事故をおこすこともなく今に至っており
ありがたいことだと思っている。

最初のロングドライブでどこに向かったのかなどは忘れてしまったが、恐らくバイト
仲間と出かけた岡山県の鷲羽山だったと思う。

バイト先は木曜が定休日だったので、1台の自動車に4人乗り込んで、平日の早朝から
「あーでもない、こーでもない」と賑やかに出かけた。

当時は瀬戸大橋がまだ工事中で、鷲羽山からその工事風景が展望できるというので
鷲羽山が目的地になったと覚えている。

 

 

ケビン・コスナーの初期のころの出演作に「Fandango」という映画がある。

大学卒業を前に徴兵の通知を受けて、最後のバカ騒ぎをしにテキサスからメキシコ国境に
向かうロードムービーで、今でも大好きな映画の一つだ。

 

大学4年の夏、就職活動の合間にやはり友人の車でそんなドライブに出たことがある。

映画に比べれば、ちっぽけな1泊2日の小旅行だったけれど、自分たちにとっては
「遊んでいられる時期」の終焉を意識しだしたころであり、不毛な採用面接が終って
就職先がほぼ決まり「ネクタイを締めてスーツを着る」生活に怖れを感じはじめた時期だった。

 

その後、皆それぞれに人生を進んでこんな歳になってしまった。

次回、契約を更新せずに「毎日スーツを着る」生活が終焉を迎えることになる。

あの頃は「見えない未来」への夢と不安を語っていて、今は「通り過ぎた過去」への
後悔と怨恨を口にしがちなことが少し残念だ。

 

 

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生きてりゃいいさ

2024年11月30日 | つれづれ

ブログの更新もしないまま、10月が過ぎて11月も終わりになった。

今週は長女とともにコロナに感染して独居房で暮らしている。

先週末に感染していたらしく、潜伏期間を過ぎた火曜日に発症した。

ちょうど前日に来年のことについて奥さんの話を聞いていた。

なぜか泣きながら状況証拠を並べていたが、自分としてはなにか違和感があって
仕方なかった。なぜ、自分が仕事にケリをつける時期を来年にするか再来年にするか
意見を聞いているだけなのに、泣きながら訴えてくるのかわからない。

きちんと話合いたかったが、残念だった。

これに対して「なぜ泣くのか、泣くような話ではないじゃないか」とでも言おう
ものなら、後にほぼ必ず「人の気持ちがわからない」と非難されるので今回もただ
ただ聞いていることにした。するとすぐに発言は途絶えて沈黙となってしまう。

女性脳というものは「論理」や「客観性」よりも感情をもとに動くものだという
ひとがいたが、まさにそんな感じだ。そしていつも病は膏肓に入ってしまう。

その場で、時間決めて会話の続きを待ったが、動きは止まったまま時計だけ進む
わけで、ほかの話に流して結論には至らずに終えた。

ただ、そういうことかと。

来週初めに上席者と面談するのだが、状況次第で4月に辞めることも考えて臨むことになる。

コロナに感染しても代わりに仕事をしてくれる人もなく、発熱した翌日も携帯電話で取引先
とやりとりを続けるようなきつめの仕事はもう要らない。

無論、上席者はフォローするように言っておいたから、誰かに引き継げというが
そう簡単に引き継げるのであればそうしているだけの話だ。

仕事を続けるのはしんどいことだと思い知らされた印象だ。

結局「つべこべ言わずに「辞めろ」と言われるまで働いていりゃいい」が答なのだろう。

 

結局、誰かと一緒にいるだけでこうやって気を遣って生きていかなければならない。

それは最も疲れることだけど、悲しい性だ。これは生まれ持ったもののようだ。

さて、そうはいうものの残された時間は家族の誰よりも短いのは事実であって、仕事に
左右されていては楽しむことはできない。

今回、夏には久々のメンバーでのツーリングに出かけたが、大雨の中でもインカムを
通して話しているだけで結構楽しいものだった。

また、その後出張にかこつけて同じメンバーで周山街道から鯖街道を回ってきたのだが
これも結構楽しく走れた。

冬にはスキーに行こうということになり、忘年会も企画する。

皆、「「辞めろ」と言われるまで働く」という。

来年の話は来週の面談しだい。いろんな話がどう伏線を回収して、どんなエピローグに
なっていくか・・・。

 

 

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ

おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今年の夏ツーリングは四国

2024年09月22日 | 二輪の話

毎年、夏季休暇をとって2度ほど旅にでる。

一つは家族の旅行で、こちらは子供たちも大きくなったのでそろそろ終わりになる予定。

もう一つは恒例の夏ツーリングだ。

実は今年は行きたい場所があって、ひとりで行くこととしてホテルを予約していた。

レンタルバイクの強みは東京からずいぶん離れた場所でもツーリングを計画できること。

今回は、福岡空港でバイクを借りて、そのまま糸島から平戸に回ってみようと考えていた。

この方面は、関西からも関東からも遠方で、移動時間が半端ないはずなので
誰かに声をかけても同行は無理であろうと考えて一人で行こうとしていたのだ。

博多はもともと好きな街の一つで、今は同期で入社したうち二人がこちらの営業部に勤務している。

なので最終日は博多で彼らと飲むのもよいかと考えていた。

ただ、もともと行きたかったのは唐津の先にある鷹島という島。

ここには仕事で知り合った方がいて、電話で話しているときに「よくオートバイの方が来られますよ」と言い
風光明媚の島として認識している。

島には橋がかかっていて単車であれば、博多からそう遠いところではない。

また、島から平戸方面にはフェリーもあるようで、こちらも是非乗船してみたいと思っていた。

 

そう計画していたところに芦屋にいるi先輩から、連休にどこか行かないかと声がかかった。

いつものメンバーはそれぞれ予定が入ってしまったようで、こちらに声をかけていただいたのだろう。

明石にいる友人(この友人とはGWに紀伊半島を回った)にも声がかかり、特に予定なく同行可とされていた。

となれば自分の予定となるのだが、さすがにレンタルバイクは少々コストもかかるので、2回のロンツーはしんどい。

どちらか一方を選ぶとすれば・・・せっかく声をかけていただいた方を優先すべきかと考えた。

ちょうど大阪の取引先から打ち合わせの依頼があり「リモートでもよいが、できれば実面で」とされたので
東阪の旅費も工面できたので、大阪からロンツーにでることとした。

 

3連休なので両親の墓参りもできる。

日頃、なかなか墓参りにも行けぬのだが、今年は母親の命日前後に長男を連れていけたので
秋はいいかなと考えていたが、やはり実の父母なので、機会があれば参っておきたい。

いろいろと条件も整った。さて、どこに行こうか。

先輩たちは特に希望はないようなので、以前計画して却下された淡路・四国の旅を申し出た。

淡路SAで待ち合わせて、そのまま南下して鳴門から四国、四国にはいったら反時計回りで
南国市経由で室戸岬をまわってみることとなった。

なかなか距離のあるツーリングだが、観光の目玉がない。

さてさて、祖谷のかずら橋など立ち寄ってみようか・・・天気次第だなと。

実際には、直前に台風が発生。台風自身ははるか中国の方に流れて行ってくれたのだが
周辺の湿った空気が四国山地にぶつかって大雨となる予報。

観光などする間もなく、ひたすら宿に向かう旅となった。

当日の宿は、室戸市の「MUROTO BASE55」という公営のグランピング施設。

天気がよければ星空の下でBBQ、疲れた体でどっぷりと眠れるはずだったが
雨模様のなか、湿ったライディングシューズでうろうろすることとなり、なんとも気持ち悪い。

BBQの最中に雷がなり、大雨となった。
そのまま明け方まで雨音が途切れることはなかった。

BBQ自体は楽しくて、いろいろ思い出話を重ねて「よいこともわるいことも全て面白い話」として
盛り上がった。

翌朝、激しい雨音で目覚めたが、いつも通り少し早すぎる。

寝床でスマホを使って情報収集しながらずるずると過ごしていた。

その後は、皆目覚めたものの、この天気ではやる気も起こらないので、チェックアウト
時間までここにいて、天気の隙をついてでかけることとした。

朝食を摂って、ゴロゴロしていたのだが10時を過ぎて雨が止んだ。

このチャンスに出発することとなり、急いで支度を整えた。

宿泊費を精算して、単車に荷物を載せた。

いざ出発のはずだったが、先輩が出てこない。

友人が無線で「iさん、足で漕いでるで」と伝えてきた。

どうやらエンジンがかからないようだ。

iさんの話では、バッテリーが上がっているようだと。

昨夜の雨で電装系がやられたのではないかと心配、目の前の坂道で押し掛けしてどうかと
いろいろな案を出していたら、宿のひとがバッテリーケーブルを持っている人を呼んでくれた。

幸い雨は上がったままだ。少し待っていると軽自動車の方がこちらに寄ってきてくれた。

ただ。ケーブルをつないでも少し唸るだけで、エンジンはかからない。

軽自動車のアクセルをふかしてもダメだ。さすがにメンバーの表情が曇りだす。

今度は、軽自動車の方がレッカー車のある自動車屋さんに聞いてくれるという。

こういうホスピタリティは本当にありがたい。

間もなく整備業の方が来てくれのだが、一向にエンジンはかからない。

仕方なく保険会社にも連絡して、レッカー車を手配するのだが、バッテリーを変えれば
解決するという確信はなく、保険の保証距離である徳島市内まで運んで治るものかどうか
判らず、いろんな方法を検討した。

 

結果的に、先輩が別に加入していたレッカーサービスであれば、時間はかかるが購入した
店まで運べるということがわかった。

そして、レッカー車が来るまでの間は鍵とともにこの宿に単車を預かっていただいて
引き渡しててただけることとなった。

やどの方の好意てせ、事務所のスペースに単車を入れさせていただきようやく出発。

本当にありがたいことで普通なら考えられない対応だ。

この宿にはもう一度天気のよいときに伺おうと思った。

 

さてさて、単車を預けたあとは自分のレンタルバイクにi先輩を乗せて雨模様の道を
鳴門の宿を目指して走り続けた。

昼食は、雨雲が少し緩んだ日和佐のお好み焼き屋「天花」さんというところで焼そば。

腹を満たしたら、また走っていくだけ。紀伊水道に面した風光明媚なサンロードも今回は見送り。

小松島から徳島、市内の混雑を避けて高速道路でそのまま鳴門北ICまでは高速道路。

2日目の宿はi先輩が手配してくれた渦潮を見下ろせる絶景の宿。

鯛づくしコースということで、美味しいお刺身などをいただいたが、雨模様の中で久々の二人乗り
高速道路で二人乗りというのは初めての経験で疲れていたのか、なんだか食が進まなかった。

鳴門大橋のたもとに位置するこの宿は、渦潮の鳴門海峡を眺めながら入浴できるお風呂も気持ちよく
本来ならば、得意の朝風呂に浸かってゆっくりするのだが、連休最終日はお墓参りの予定。

レンタルバイクも9:30までに返すことになっている。

前日のうちに、自分だけ朝早く出てしまわなければならないことを詫びた。

先輩は二人乗りで帰るしか方法がないので付き合っていただけるという。

あとの友人も早朝発は全く苦にならないとのことで、結局夜明けごろに揃って出立することとなった。

いつも自分のことばかり優先となり、皆さんに気を遣わせてしまうのは申し訳ないのだが
今回は少し予想外の展開となってしまったので、勘弁してもらおう。

 

最終日、夜明けに支度を整えて人気のない鳴門大橋を渡った。

少し時間に余裕が生まれたことで、南淡三原ICから淡路島の西海岸を回って帰ることにした。

西海岸には苦い思い出がある。

もう40年も前のこととなるが、夏休みに今回同行してくれた友人と女友達を伴ってこちらの
方に海水浴に来たことがある。

女の子を誘って海に行くなどというシチュエーションは初めてのことでなんだか舞い上がって
しまっていた。

当時は、なかなかの田舎で確か食事もままならなかったような記憶があるが、噂とおりに現在は
まばゆいばかりのおしゃれな店舗が海外沿いに並んでいる。

早朝だったので立ち寄ることはないが、隔世の感が極まっていた。

以前、テレ東の番組で淡路島の特集を見て、もう一度行ってみたいと思っていたところだ。

昨年、ツーリングのルートに組み入れて提案したが、リーダー的存在の先輩に軽く却下された
ので、ここに来ることができなかった。(そもそもツーリング自体中止になった)

少し恨み節もあるが、早朝の海岸の道はすごく心地よく、これこそがアミべのツーリングだ。

あのまま明石にいれば、あのまま、あのまま・・・過ごしていれば、地元に残って毎週のように
こんな海岸に散歩にこれたのだと想像してしまった。

 

西海岸を岩屋まで走り、少々ガソリンの心配をしながら明石海峡大橋を戻って、先輩を送って
このツーリングはおしまい。

大阪空港でレンタルバイクを返して、そのまま電車でお墓参り。

翌日は仕事、なにもなかったかのように梅田のサテライトオフィスで会議に出て、午後は取引先
でのミーティング。

早めの新幹線に振り替えてビールをあけながら帰宅した。

 

今年の夏はこんなツーリングで終わった。

 

淡路島はもう一度走ってみたい。

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