時折、出身大学から寄付の依頼が郵送されてくる。卒業生の多くがそうした依頼を無視しているらしく、何度もくる。先日はついにメールがきて、我が学年としての目標額にあと一歩及ばないので是非協力を、とのことだった。その目標額というのは思いのほか地味な金額で、自分が寄付に応じていないのを棚に上げて、その程度の額すら集まらないのかと少々驚いた。
確かに自分たちの年代は寄付どころの状況ではない人が多いかもしれない。教育費が嵩むし、住宅ローンの返済だってあるだろうし、人によっては介護の負担もばかにならないだろう。そうした特殊事情がなくても、我々の年齢は雇用不安が付いて回る年代で、日々の生活も自然に消極的になってしまうものだ。地味な金額とはいえ、ひとりあたり数万円という不測の出費は気軽に応じることのできるものではない、という人が少なくないような気がする。
その上、大学の保有有価証券が多額の含み損を抱えた、などという報道に接するといよいよ寄付をする気が削がれてしまう。一部の報道では、大学関係者の発言として「含み損は損ではない」というようなものが伝えられた。確かに、「含み」という言葉の有無で、その内容は全く違ったものになる。しかし、運用の経験があれば感覚的に了解できるとは思うが、ひとたび抱えた「含み損」を解消するというのは容易なことではない。まして、今はかつてのような経済成長は期待できないのである。海外資産に投資すれば外国為替のリスクがついて回る。実際に外貨預金やFXをやってみるとよくわかるが、外貨のリスクというのは実感としては博打のようなものである。「含み損は損ではない」とメディアを相手に発言するからには「含み」を解消する目処が立っているのだろう。それにしても、集めた金をどのように運用し、どのように使うのか、ということについて、寄付金を集めることに勝るとも劣らないほどの熱心さで説明するのが、金を受け取る側の礼儀というものではないのだろうか。まして教育機関なのだから、大学当局が人の道というものの手本を示すくらいでなければならないと思う。もらったらものは自分たちの勝手、と言われればその通りだが、それがいつまでも通用するとは考えないほうがよいだろう。最近のトヨタやタイガー・ウッズのように、信用を築きあげるのは長い年月を要するが、それを崩壊させるのはあっという間のことなのである。
ところで寄付のほうだが、それで若い人たちの教育に多少なりとも役立つならばと思い、ささやかな金額ではあるが、協力させていただいた。
確かに自分たちの年代は寄付どころの状況ではない人が多いかもしれない。教育費が嵩むし、住宅ローンの返済だってあるだろうし、人によっては介護の負担もばかにならないだろう。そうした特殊事情がなくても、我々の年齢は雇用不安が付いて回る年代で、日々の生活も自然に消極的になってしまうものだ。地味な金額とはいえ、ひとりあたり数万円という不測の出費は気軽に応じることのできるものではない、という人が少なくないような気がする。
その上、大学の保有有価証券が多額の含み損を抱えた、などという報道に接するといよいよ寄付をする気が削がれてしまう。一部の報道では、大学関係者の発言として「含み損は損ではない」というようなものが伝えられた。確かに、「含み」という言葉の有無で、その内容は全く違ったものになる。しかし、運用の経験があれば感覚的に了解できるとは思うが、ひとたび抱えた「含み損」を解消するというのは容易なことではない。まして、今はかつてのような経済成長は期待できないのである。海外資産に投資すれば外国為替のリスクがついて回る。実際に外貨預金やFXをやってみるとよくわかるが、外貨のリスクというのは実感としては博打のようなものである。「含み損は損ではない」とメディアを相手に発言するからには「含み」を解消する目処が立っているのだろう。それにしても、集めた金をどのように運用し、どのように使うのか、ということについて、寄付金を集めることに勝るとも劣らないほどの熱心さで説明するのが、金を受け取る側の礼儀というものではないのだろうか。まして教育機関なのだから、大学当局が人の道というものの手本を示すくらいでなければならないと思う。もらったらものは自分たちの勝手、と言われればその通りだが、それがいつまでも通用するとは考えないほうがよいだろう。最近のトヨタやタイガー・ウッズのように、信用を築きあげるのは長い年月を要するが、それを崩壊させるのはあっという間のことなのである。
ところで寄付のほうだが、それで若い人たちの教育に多少なりとも役立つならばと思い、ささやかな金額ではあるが、協力させていただいた。