出勤前に遠回りをして埼玉県立近代美術館で開催中の雪岱展を観てきた。1月7日付のこのブログ「拠って立つところ」で鏑木清方展のことを書いたが、小村雪岱は清方とともに泉鏡花の本の装丁を担当している。意図したわけではないが、柴田是真から清方へ、そしてこの雪岱へと、人物のつながりを辿るように作品展を観てきた。ただ、是真や清方とは違って、雪岱は資生堂の社員という、いわばサラリーマンの経験もある。勿論、私のような純粋無能給与生活者ではなく、画家としての経歴を積んだ上で、資生堂から招聘される形でデザイナーとして入社している。組織人であるから今となっては彼の作品として特定可能なものは少ないのだが、それでも香水の硝子瓶の瓶形は彼のデザインであることがわかっているのだそうで、その「菊」という香水が資生堂のミュージアムグッズとして販売されているのだそうだ。彼の仕事としては、他に書籍の装幀や挿絵、舞台装置のデザイン、など幅広く、とても一言では表現できない多種多彩な作品を生み出している。
とりわけ泉鏡花の作品において、「日本橋」以降の殆どの作品の装幀を雪岱が担当している。それ以前は鏑木清方や鰭崎英朋らが手がけていた。雪岱と鏡花の出会いについては芸術新潮の最新号でも触れられているが、雪岱という雅号は鏡花がつけたものだ。それほどふたりの関係は特別なものなのである。「日本橋」以前に雪岱は書籍の装幀をしたことがない。鏡花が何を思って雪岱に自分の作品の装幀を依頼したのか、今となってはわからないが、文筆家にとって、自分の作品の装幀や挿絵を任せるというのはよほど強い信頼感がなければできないことだろう。また未経験の仕事なのに、その信頼にきっちりと応えて見せるというのも並大抵のことではないだろう。展示会場には「日本橋」のほかにも数多くの書籍が展示されているが、事前に予備知識を持たずに「日本橋」が処女作であることを言い当てるのは困難だろう。その完成度の高さに、雪岱という人の人となりとか、雪岱と鏡花との関係という、言わば行間の諸々が透けて見えるようである。
それにしても、昔の書籍のなんと豪華なことか。おそらく、本というものが特定の階層のためのものであり、誰もが当たり前のように本を買って読むというようなことはなかったのだろう。だからこそ、これほどまでに意匠を凝らした装幀を施し、おそらく愛蔵されることを前提に作られたのだろう。今の書籍は、余程の豪華本でもない限り、誰でも買うことができる。それどころか、多くの人に買ってもらわねば、出版社も作者も成りゆかない。だから、本は内容で売るものであって、装幀は味気ないものばかりである。その内容すら、どれほどの厚みがあるのか疑問のあるものばかりである。活字離れ、などと言われる時勢だが、本を読まないほうに問題があるのか、読ませるようなものを提供できない出版側に問題があるのか一概には言えたものではない。勿論、それなりの内容のものに、これほどの装幀を施せば、それなりの価格にしないと商売にならないことは理解できる。そして、そうしたものの需要が商業ベースに乗るほどにはなさそうなことも想像できる。それにしても、手許に置いておくだけで嬉しくなるような書籍を作ってみようという人はいないものなのだろうか。
書籍の装飾は装幀だけではない。挿絵も忘れてはいけない。最近の本には挿絵の無いもののほうが圧倒的に多い。下手に挿絵を入れると文章のほうが霞んでしまうからだろうか。これほど贅沢な書籍が流通した時代は、国民経済という観点からは現在とは比べ物にならないほど貧しい時代で、世界で2番目の、そしてもうすぐ3番目になるであろう、経済力を有する現代の精神生活が、その貧しかった時代よりも貧困に見えるのは何故だろう。
とりわけ泉鏡花の作品において、「日本橋」以降の殆どの作品の装幀を雪岱が担当している。それ以前は鏑木清方や鰭崎英朋らが手がけていた。雪岱と鏡花の出会いについては芸術新潮の最新号でも触れられているが、雪岱という雅号は鏡花がつけたものだ。それほどふたりの関係は特別なものなのである。「日本橋」以前に雪岱は書籍の装幀をしたことがない。鏡花が何を思って雪岱に自分の作品の装幀を依頼したのか、今となってはわからないが、文筆家にとって、自分の作品の装幀や挿絵を任せるというのはよほど強い信頼感がなければできないことだろう。また未経験の仕事なのに、その信頼にきっちりと応えて見せるというのも並大抵のことではないだろう。展示会場には「日本橋」のほかにも数多くの書籍が展示されているが、事前に予備知識を持たずに「日本橋」が処女作であることを言い当てるのは困難だろう。その完成度の高さに、雪岱という人の人となりとか、雪岱と鏡花との関係という、言わば行間の諸々が透けて見えるようである。
それにしても、昔の書籍のなんと豪華なことか。おそらく、本というものが特定の階層のためのものであり、誰もが当たり前のように本を買って読むというようなことはなかったのだろう。だからこそ、これほどまでに意匠を凝らした装幀を施し、おそらく愛蔵されることを前提に作られたのだろう。今の書籍は、余程の豪華本でもない限り、誰でも買うことができる。それどころか、多くの人に買ってもらわねば、出版社も作者も成りゆかない。だから、本は内容で売るものであって、装幀は味気ないものばかりである。その内容すら、どれほどの厚みがあるのか疑問のあるものばかりである。活字離れ、などと言われる時勢だが、本を読まないほうに問題があるのか、読ませるようなものを提供できない出版側に問題があるのか一概には言えたものではない。勿論、それなりの内容のものに、これほどの装幀を施せば、それなりの価格にしないと商売にならないことは理解できる。そして、そうしたものの需要が商業ベースに乗るほどにはなさそうなことも想像できる。それにしても、手許に置いておくだけで嬉しくなるような書籍を作ってみようという人はいないものなのだろうか。
書籍の装飾は装幀だけではない。挿絵も忘れてはいけない。最近の本には挿絵の無いもののほうが圧倒的に多い。下手に挿絵を入れると文章のほうが霞んでしまうからだろうか。これほど贅沢な書籍が流通した時代は、国民経済という観点からは現在とは比べ物にならないほど貧しい時代で、世界で2番目の、そしてもうすぐ3番目になるであろう、経済力を有する現代の精神生活が、その貧しかった時代よりも貧困に見えるのは何故だろう。