笑福亭鶴瓶 Japan Tour 2009-2010 White セカンドシーズンの初日である。場所は秩父。客演は秩父出身の林家たい平。午後1時半から3時半まで、谷中でお茶の稽古に出た後、池袋に回り、4時半発の特急に乗って秩父へ。6時の開演5分前に会場に着いた。外は雪。
鶴瓶の落語を聴くのはこれが初めてだ。2007年9月下旬以来、テレビの無い生活なので、それ以前にテレビで観た記憶と、映画「ディアドクター」や「おとうと」での印象しかない。映画では主演の割には、少しぎこちない感じが無きにしも非ずだが、全体の雰囲気としてはいい味を出していると思った。それで是非、本職の落語を聴いてみたいと思っていたら、このチケットを取ることができたのである。
今日、MCのなかで本人が語っていたのだが、落語家なのに落語はあまりしないのだという。それが今世紀に入ってから意識的に落語をするようになったのだそうだ。所謂独演会なのだが、前座が無い。いきなり本人の噺で始まる。落語をあまりしないので、自己紹介を兼ねた演目として「ALWAYS お母ちゃんの笑顔」である。題名は「ALWAYS 3丁目の夕日」に着想を得たのだろうが、あの映画と同じようにノスタルジーを感じさせる、どことなく情緒的な噺である。落語会の演目として、彼の落語をあまり聴いたことがない観客に「この人、ええ人やわぁ」と思わせるのに恰好のツカミだと思う。噺が、というより、落語会の構成として上手い。なによりも自分という商品を客に対してどう見せ、客をどう魅せるかということを客の立場になって考えていることが伝わってくる。この最初のネタを聴いただけで、彼が何故これほどの人気なのかが了解できた。
客演のたい平を聴くのは今回で2回目。こちらも人気のある落語家なのだが、私にとってはなんとなく間合いに違和感を覚える。たまたま自分の手許に五代目小さんのDVDで「粗忽長屋」があったので帰宅してから観た。私は芸事については何もわからないが、自分の持つリズムのようなものと落語家の語りの間とが、合う場合とそうでない場合とが、やはりあるようだ。うまく表現できないのだが、小さんの「粗忽長屋」を観ると気持ちよく笑いが湧き上がってくるのだが、たい平の噺だと多少の緊張感が残る、というような心持がするのである。
「子は鎹」は古典ではあるが、鶴瓶はマクラのなかで女性の力が強くなったというような話を振っておいて、本題に入ると本作の男女の設定を逆にしたものを口演していた。オリジナルでは飲んだくれで女郎屋通いばかりの亭主に愛想を尽かした女房が子供を連れて家を出てしまう。何年か経過して後、心を入れ替えて真面目になり、世間での信用を回復した父と偶然再会した子供が、父親から子供の小遣いにしては少し大きな金額の金をもらう。子供を通じて父親が改心したことを知り、亭主がお膳立てをした鰻屋で再会した元夫婦がよりを戻す、という話である。これが鶴瓶の話では、夫婦の設定は同じだが、亭主に愛想を尽かした女房がひとりで家を出てしまうのである。そして経験豊かな女中として大店の女中頭に出世した女房が、これまでに抱えた借金の返済に四苦八苦の父親の下で欲しいものを我慢しながら生活している息子と偶然出会い、彼に少し大きな金額の小遣いを与えることになっている。そして女房のほうがお膳立てをした鰻屋で亭主と再会してよりを戻す。
時代の変化に合わせて噺の設定や構成を変えるのは当然のことなのだが、変えたことによって筋の流れに引っ掛かりができてしまうというのはいただけない。別れた片親から小遣いをもらった子供が、一緒に暮らすほうの親にその金をみつかり、その出所を追及される場面がある。子供は「男の約束」だからといって、最初は口を割らないのである。父親と息子が男どうしの約束ということで「男の約束」というのがオリジナルなのだが、小遣いを渡すのが母親で、その小遣いのことを父親に言わないと約束するのを「男の約束」とするのは、やはりちょっと違和感を覚える。「男は約束を守るもの」という解釈で「男の約束」のまま噺を流してしまうこともできないことではないのだが、それなら「女は約束を守らない」ということを暗に言っているようなものになって具合がよくないのではなかろうか。この部分はもうひと工夫欲しいところだと思った。
今日の演目(開演18時、閉演21時)
1 鶴瓶 「ALWAYS お母ちゃんの笑顔」
2 たい平 「お見立て」
(仲入り)
3 たい平 「粗忽長屋」
4 鶴瓶 「子は鎹」
鶴瓶の落語を聴くのはこれが初めてだ。2007年9月下旬以来、テレビの無い生活なので、それ以前にテレビで観た記憶と、映画「ディアドクター」や「おとうと」での印象しかない。映画では主演の割には、少しぎこちない感じが無きにしも非ずだが、全体の雰囲気としてはいい味を出していると思った。それで是非、本職の落語を聴いてみたいと思っていたら、このチケットを取ることができたのである。
今日、MCのなかで本人が語っていたのだが、落語家なのに落語はあまりしないのだという。それが今世紀に入ってから意識的に落語をするようになったのだそうだ。所謂独演会なのだが、前座が無い。いきなり本人の噺で始まる。落語をあまりしないので、自己紹介を兼ねた演目として「ALWAYS お母ちゃんの笑顔」である。題名は「ALWAYS 3丁目の夕日」に着想を得たのだろうが、あの映画と同じようにノスタルジーを感じさせる、どことなく情緒的な噺である。落語会の演目として、彼の落語をあまり聴いたことがない観客に「この人、ええ人やわぁ」と思わせるのに恰好のツカミだと思う。噺が、というより、落語会の構成として上手い。なによりも自分という商品を客に対してどう見せ、客をどう魅せるかということを客の立場になって考えていることが伝わってくる。この最初のネタを聴いただけで、彼が何故これほどの人気なのかが了解できた。
客演のたい平を聴くのは今回で2回目。こちらも人気のある落語家なのだが、私にとってはなんとなく間合いに違和感を覚える。たまたま自分の手許に五代目小さんのDVDで「粗忽長屋」があったので帰宅してから観た。私は芸事については何もわからないが、自分の持つリズムのようなものと落語家の語りの間とが、合う場合とそうでない場合とが、やはりあるようだ。うまく表現できないのだが、小さんの「粗忽長屋」を観ると気持ちよく笑いが湧き上がってくるのだが、たい平の噺だと多少の緊張感が残る、というような心持がするのである。
「子は鎹」は古典ではあるが、鶴瓶はマクラのなかで女性の力が強くなったというような話を振っておいて、本題に入ると本作の男女の設定を逆にしたものを口演していた。オリジナルでは飲んだくれで女郎屋通いばかりの亭主に愛想を尽かした女房が子供を連れて家を出てしまう。何年か経過して後、心を入れ替えて真面目になり、世間での信用を回復した父と偶然再会した子供が、父親から子供の小遣いにしては少し大きな金額の金をもらう。子供を通じて父親が改心したことを知り、亭主がお膳立てをした鰻屋で再会した元夫婦がよりを戻す、という話である。これが鶴瓶の話では、夫婦の設定は同じだが、亭主に愛想を尽かした女房がひとりで家を出てしまうのである。そして経験豊かな女中として大店の女中頭に出世した女房が、これまでに抱えた借金の返済に四苦八苦の父親の下で欲しいものを我慢しながら生活している息子と偶然出会い、彼に少し大きな金額の小遣いを与えることになっている。そして女房のほうがお膳立てをした鰻屋で亭主と再会してよりを戻す。
時代の変化に合わせて噺の設定や構成を変えるのは当然のことなのだが、変えたことによって筋の流れに引っ掛かりができてしまうというのはいただけない。別れた片親から小遣いをもらった子供が、一緒に暮らすほうの親にその金をみつかり、その出所を追及される場面がある。子供は「男の約束」だからといって、最初は口を割らないのである。父親と息子が男どうしの約束ということで「男の約束」というのがオリジナルなのだが、小遣いを渡すのが母親で、その小遣いのことを父親に言わないと約束するのを「男の約束」とするのは、やはりちょっと違和感を覚える。「男は約束を守るもの」という解釈で「男の約束」のまま噺を流してしまうこともできないことではないのだが、それなら「女は約束を守らない」ということを暗に言っているようなものになって具合がよくないのではなかろうか。この部分はもうひと工夫欲しいところだと思った。
今日の演目(開演18時、閉演21時)
1 鶴瓶 「ALWAYS お母ちゃんの笑顔」
2 たい平 「お見立て」
(仲入り)
3 たい平 「粗忽長屋」
4 鶴瓶 「子は鎹」