熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Big Brother

2010年02月28日 | Weblog
月末で家計のやり繰りにまつわる諸々の作業をしていて、ふと気付いた。自分の金の出入りが特定の企業に偏っている。

日々の出費は全て記録している。日付、支払先、費目、金額、支払い方法などをエクセルのシートに記入している。レシートは全てスクラップブックに貼って保存している。公共料金の通知書類も同じスクラップブックに貼り、パスモの使用履歴も駅の自動販売機で印字したものを貼り付けている。ついでながら、2006年に「ほぼ日手帳」を使い始めて以来、日々の行動も全て記録している。何時から何時まで何をしたとか誰に会ったとか、食事の内容、各種行事など、大雑把ではあるが、全て記入している。そして日記もつけている。

普段は記録するだけ、貼るだけで、それをどうこうしようというわけではないのだが、時々、思い立ってデータをいじってみたりスクラップを見返してみたりする。それで、自分の家計がセブン&アイ・ホールディングスと、或るメガバンクグループにかなり顕著に依存していることが明白になるのである。

レシートは圧倒的にセブンイレブンのものが多い。コンビニで使う金額というのは1件あたり数百円なのだが利用頻度が高い。職場の至近距離に店舗がある所為で、仕事をしながら食べる晩の弁当を買いにいったり、小腹が空いたときに饅頭や飲料を買いにいったりするのに利用している。落語のチケットもコンビニ受取を指定してあるので、セブンを利用する。利用頻度が高いのでnanacoというカードを利用しており、そのチャージに店舗内のATMを利用する。住処の近所でも、駅から家に至る間に3軒あり、やはりチケットの発券や、ちょっとつまむものを買うのに利用している。

さらに陶芸教室が池袋西武の中にあるので、受講料や焼成代金の支払いもばかにならない。さらに、陶芸の帰りに、ついでの買い物を西武ですることもある。西武はかつてセゾングループという企業集団の中核だったが、2003年に実質的に破綻した後、紆余曲折を経て2006年2月にセブン&アイ・ホールディングス傘下となり、同年6月から完全子会社だ。

さらに昨年12月からは食材の調達を生協の宅配にほぼ一本化したので、スーパーなどで食材を買い求めることがなくなり、買い物そのものの頻度が極端に減少した。宅配の支払は口座振替なので便利だ。生協以外から調達する食材は、実家から肉類、日本橋の大和屋でかつおぶし、近所の北海道物産専門店で昆布、都内のいくつかの焙煎業者からコーヒー豆を調達するくらいのものである。結局、消費財やサービスの調達先は巨大資本と作り手の姿の見えるものとに二極化していくように感じられる。

家計に関しては、おそらく給与生活者の多くは雇用主から銀行振込を通じて給与を支給されているだろう。特定の職種においては現金が行き交い、それは永久に現金あるいはそれに準じる現物のままなのだろうが、透明性を旨とする一般の経済活動においては現金による決済の割合は徐々に低下し、口座間での数字のやり取りだけで完結するようになっている。利便性から考えれば、最大の収入源を受け入れる口座に各種の支出を集中させるのが自然だろう。同じような理屈で、出費も特定のクレジットカードに集中すれば、その決済口座を給与振込のある口座とすることによって、余計な手間を省くことができる。私はなるべく現金を持たないように心がけている。財布のなかに1万円以上の現金があることは稀で、そういう状況というのは1年間に数日しかない。数百円単位の買い物でもカードで決済するように心がけており、例外としてはセブンイレブンでの買い物にnanacoを利用するくらいのものだ。

市場経済のなかで資本の自然に任せれば、競争を通じて資本の集約が進むのは当然なのだが、それが個人の生活のなかにもあてはまるということだ。企業の合併や買収の報道は日常風景の一部となり、それはひとりひとりの生活者にとっては他人事のように感じられる「風景」そのものでしかない。しかし、確実に自分の生活はそうした資本の運動のなかに組み込まれているばかりか、自分も利便性を追求する結果として資金の出入りの集約化を行っているのである。

こうしたことが積もり積もれば特定の組織に個人の行動に関する情報が集積することになる。幸か不幸かそうした情報が十分活用されてはいないようだ。たまにアマゾンなど通販サイトからのメールで「おすすめの商品」というようなものが紹介されるのだが、これは過去の購買履歴の分析によって作られたものだという。残念ながら、これまでのところは「おすすめ」されたもので食指が動いた経験は皆無である。結局、情報の収集というのは容易なのだが、収集した情報を分析して活用するというところに大きな課題が残されているということなのだろう。ジョージ・オーウェルの「1984年」に登場するBig Brotherのようなものは、物事の方向性としては実現に向かっているのだろうが、1984年には間に合わなかった。そのうち実現するのかもしれないし、あるいは永遠に実現しないのかもしれない。ただ、どちらにしても個人の生活にとっては、それほど大きなことのようには思われないのだが、どうなのだろう。すくなくとも私にとってはどうでもよいことだ。