熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「抱擁のかけら」(原題:LOS ABRAZOS ROTOS)

2010年02月08日 | Weblog
タイトルは英語で表示すると”The broken hugs”。本作の場面のなかで破られた写真の断片をつなぎ合わせるところがあるので、それに掛けて邦題は「かけら」としたのだろう。

作品は、エンターテインメントとして気楽に楽しむにはよいが、それほど面白いとも思わなかった。恋に落ちるということがわからないではないが、物語がベタで脇役が活きていないように感じられた。盲目の主人公というと「Scent of a Woman」を思い出し、点字をまさぐる手に官能的な色彩を与えるというようなことも誰もが思いつきそうなことだし、シーツ越しの絡みは「The Last Emperor」で見覚えあるし、という具合になんとなく見覚えのある部分品をつなぎ合わせて、そこにペネロペ・クルスを冠しただけのように見えてしまうのである。そのペネロペにしても、そろそろ新境地の開拓が必要なフェーズに入っているように思われる。ふと、本作にも描かれている監督と女優との特別な関係のようなものがあるのではないかと勘繰りたくなるような思いが頭をもたげないでもない。

それにしても、濡れ場の表現というのは難しくなったと思う。動画サイトでは素人から玄人、その中間のような人たちによるありとあらゆる性行為場面を観ることができる。「草食系」という、そうした粘着性の行為には関心がないかのような人たちも増えているというようなことも耳にするが、情報としてはいつでもどこでもどのようなものにでも触れることができるといえる。そういう状況の中で、中途半端な濡れ場を映像作品のなかに盛り込むと、それによって全体の興が醒めてしまうということに製作者側は気づくべきだろう。

手の官能性というのはよく取り上げられることである。点字をまさぐる主人公の手を真上から捉える映像は興味深い。しかし、それが活きていない。ペネロペの足がアップになるところも、やや苦しい感じが無きにしもあらずだが、面白い映像だ。赤いハイヒールを履いた血管の浮き出た生足が、カツカツと歩く様子をアップで捉えた映像である。この直後に、ペネロペはパトロンの男性に階段から突き落とされる。足を骨折して膝のあたりに痣ができ腫れ上がるのだが、傷つくのは膝の前後で足ではない。足をアップにしておいて、直後の事件を挟んで、膝に焦点を当てるというのはちぐはくな感じを受ける。赤いハイヒールの足のシーンが全く発展しない。これではただのスケベ爺の与太話になってしまう。

以前、「阿修羅のごとく」という映画のなかで、壮年の姉妹が女の踵について語るシーンがあった。男性との関係の有無は踵を見ればわかる、というようなことを言うのである。母親の踵は鏡開きの頃の餅のようだと。あれでは父親は…。それはともかくとして、手とか足とか髪とか、身体の末端というのはその人の心のありようを端的に活写しているように思う。若い頃は、異性の身体を観るときに、顔とか胸とか腰とか身体の中央に意識が向くものだが、年齢を重ねると意識が末端に向かうようになる。それなのに、多くの人はそういうところに大きな注意を払っていないように見える。ネイルアートに凝る人も少なくないようだが、それは上っ面の装飾でしかないことが殆どで、何故、金をかけてまであのような間抜けな化粧をするのか理解に苦しむ。本当の美しさというのは、適切に使用されていることが感じられる姿だと思う。きちんと自分自身で自分の身の回りのことをして、自分がするべき仕事をして、五感を駆使して人として適切に生活をした結果として、そうした生き様が身体のなかで最も活動量の多い部位に反映されるものだと思う。いわば、用の美、というようなものがきちんと生きているひとの身体に現れるものだと思うのである。

ところで、作品のラストシーンで主人公が、映画は完成させてこそ価値がある、というような台詞を吐く。私はスペイン語を解さないので字幕が正しいのかどうかわからないが、物語の流れとか、この作品自体から想像するに、「映画は、どんなに駄作でも、完成させることに価値がある」と言っているように思える。