観劇ではなくて落語会なのだが、期末試験前で勉強に忙しいはずの子供を誘って、三三の独演会を聴いてきた。
落語をきちんと聴いたことがない人に、落語のおもしろさを知ってもらおうと思って聴かせる落語はなにがいいだろうかと考えた。何事も始めが肝心、とも言う。と言って、自分もそれほど落語を知っているわけでもない。限られた自分の経験のなかから、自分が気に入っている人の噺を聴いてもらうしかない。そこで、今日の三三の独演会ということになった。
結論から言えば、目論見は当たったようだ。前から5列目の通路脇という、話し手を間近に感じられる席だったことも幸運だったが、一際大きな声でよく笑っていた。古典は話の舞台が現代とはかなり違うので、噺家の情景描写でその様子を思い浮かべることができないと、話の世界に入ることができない。三三という噺家は、この情景描写が巧みで、同じ言葉が話し手によってこれほど活き活きとするものなのだということを体験するには恰好の落語家だと思うのである。
「万両婿」は、人は思い込みを重ね、その思い込みが既成事実として成立すると、たとえそれが思い込みであったことが判明した後でも、既成事実化した思い込みに現実を摺り寄せないと、現実が上手く回らなくなってしまうという話。舞台が鉄道や飛行機や電話のない時代で、旅に出るのに決死の覚悟が必要であった時代。現代の我々の眼からすれば、かなり極端な状況なのだが、我々は果たしてどれほど物事を把握しながら生きているだろうかと考えさせられる。
京橋で小間物屋を営む小四郎が、商いの商品を持って上方へ渡り、そこで商売をして、上方にあって江戸では珍しい物を仕入れて京橋へ戻ってくる。この間約半年。江戸に残る女房や大家、そのほか親類縁者にしてみれば、この半年間はブラックボックスのようなものだ。小四郎が今この瞬間、どこでなにをしているのか全くわからない。そこへ断片的な情報がもたらされる。行旅死亡人、小四郎の住所氏名が書かれた紙片。大家と小四郎の身元保証人が連れ立って死体の確認に行く。屈葬で、しかも死亡からかなりの日数が経過している。死体を見るだけでも嫌なのに、ましてや棺桶のなかに首を突っ込んでその顔を見るとか、死体の顔をこちらに向けて確認するどころではない。見覚えのある衣服というだけで、本人であると認めてしまう、という決定的な思い込み。これが既成事実として「遺族」に伝えられ、「遺族」が成立。「死んだかもしれない」は「死んだ」に変わる。そこから新たな事実が積み上げられる。小四郎の従兄弟が未亡人の後見に、やがて新たな亭主に。新しい生活が回り始めたところへ、小四郎が上方から帰って来る。しかし、既に小四郎に新秩序の下での居場所はない。そこで小四郎は奉行所、即ち、国家権力という権威に裁きを願い出る。奉行所の役目は秩序の維持である。たまたま小四郎と誤認された死人は神谷町の有名な小間物の大店である若狭屋の主だった。しかも、巨額の身代と若くて美しい未亡人がついている。奉行は小四郎に亡くなった若狭屋の主の身代わりになることを提案、小四郎が同意して一件落着となる。事実誤認を是認するという判断だ。しかし、それで物事が丸く収まるなら、つまり既存の秩序が維持されるなら、あるいは、既存の状況を是認するという合意が関係者の間で交わされるなら、誤認は誤認ではなくなるのである。
「橋場の雪」は夢と現実とが混然とする滑稽を語ったものである。これも、何が夢で何が現実かというのがわかりにくい話にすることで、現実だと思っていることの儚さを語っていると思う。大店の若旦那が屋敷の離れで酒を飲んで、うとうととして夢を見る。その夢の話を女房に語り、夢の中のことに女房が嫉妬して泣き、その泣き声を聞いて飛んできた大旦那が若旦那を叱り、叱られた若旦那は自分の夢のことで泣いたり怒ったりしている二人を見て笑う、という状況も興味深い。同じことが観る人の立場によって全く違って見えるということを上手く表現している。
落語として聴くと、上手い話だねぇ、ということでさらっと流してしまうのだろうが、我々が生きる社会の真実を巧に表現しているのが落語だ。そこでは、世に事実というものが存在するのではなく、事実が存在するという合意によって現実が成り立っているということが活写されている。また、我々が生きる場というものが、実はとらえどころないものだからこそ、見ようによってどのようにも見えるということも上手く表現している。その深さを座布団の上で殆どなんの道具立てもなく語って聞かせる。座布団があって、そこに人が座り、何事かを語ることでそこに世界が広がる。世の中というのは、結局は落語の舞台のように無なのだ。私は、緞帳が上がり、誰もいない舞台の上に座布団だけがあり、出囃子が鳴り出す直前の、それまでざわついていた客席が一瞬だけ静まる、その間がなんとも言えず好きだ。その虚無の静寂の空間に世の中の本質を見る思いがする。
子供は、昨日、学校の郊外学習で能を観劇してきたそうだ。私は能を観たことがないのだが、子供は友達に能を習っている人がいて、その発表会に呼ばれて出かけたりしているので、既に昨日が3回目だ。能は物語の展開などはわからないのだが、全体の雰囲気が好きなのだという。想像するに、能も落語と同じように、観る側に見立ての能力がなければ楽しむことができないのではないだろうか。能舞台という、何も無い空間で能面をつけた演じ手が一定の形式の下で物語を紡ぐ。しかし、何も無い空間であるからこそ、そこに無限の世界が広がるとも言える。今度は能を観てこようと思う。
今日の演目(開演14時 閉演16時)
きつつき 「新聞記事」
三三 「万両婿」
(仲入り)
三三 「橋場の雪」
落語をきちんと聴いたことがない人に、落語のおもしろさを知ってもらおうと思って聴かせる落語はなにがいいだろうかと考えた。何事も始めが肝心、とも言う。と言って、自分もそれほど落語を知っているわけでもない。限られた自分の経験のなかから、自分が気に入っている人の噺を聴いてもらうしかない。そこで、今日の三三の独演会ということになった。
結論から言えば、目論見は当たったようだ。前から5列目の通路脇という、話し手を間近に感じられる席だったことも幸運だったが、一際大きな声でよく笑っていた。古典は話の舞台が現代とはかなり違うので、噺家の情景描写でその様子を思い浮かべることができないと、話の世界に入ることができない。三三という噺家は、この情景描写が巧みで、同じ言葉が話し手によってこれほど活き活きとするものなのだということを体験するには恰好の落語家だと思うのである。
「万両婿」は、人は思い込みを重ね、その思い込みが既成事実として成立すると、たとえそれが思い込みであったことが判明した後でも、既成事実化した思い込みに現実を摺り寄せないと、現実が上手く回らなくなってしまうという話。舞台が鉄道や飛行機や電話のない時代で、旅に出るのに決死の覚悟が必要であった時代。現代の我々の眼からすれば、かなり極端な状況なのだが、我々は果たしてどれほど物事を把握しながら生きているだろうかと考えさせられる。
京橋で小間物屋を営む小四郎が、商いの商品を持って上方へ渡り、そこで商売をして、上方にあって江戸では珍しい物を仕入れて京橋へ戻ってくる。この間約半年。江戸に残る女房や大家、そのほか親類縁者にしてみれば、この半年間はブラックボックスのようなものだ。小四郎が今この瞬間、どこでなにをしているのか全くわからない。そこへ断片的な情報がもたらされる。行旅死亡人、小四郎の住所氏名が書かれた紙片。大家と小四郎の身元保証人が連れ立って死体の確認に行く。屈葬で、しかも死亡からかなりの日数が経過している。死体を見るだけでも嫌なのに、ましてや棺桶のなかに首を突っ込んでその顔を見るとか、死体の顔をこちらに向けて確認するどころではない。見覚えのある衣服というだけで、本人であると認めてしまう、という決定的な思い込み。これが既成事実として「遺族」に伝えられ、「遺族」が成立。「死んだかもしれない」は「死んだ」に変わる。そこから新たな事実が積み上げられる。小四郎の従兄弟が未亡人の後見に、やがて新たな亭主に。新しい生活が回り始めたところへ、小四郎が上方から帰って来る。しかし、既に小四郎に新秩序の下での居場所はない。そこで小四郎は奉行所、即ち、国家権力という権威に裁きを願い出る。奉行所の役目は秩序の維持である。たまたま小四郎と誤認された死人は神谷町の有名な小間物の大店である若狭屋の主だった。しかも、巨額の身代と若くて美しい未亡人がついている。奉行は小四郎に亡くなった若狭屋の主の身代わりになることを提案、小四郎が同意して一件落着となる。事実誤認を是認するという判断だ。しかし、それで物事が丸く収まるなら、つまり既存の秩序が維持されるなら、あるいは、既存の状況を是認するという合意が関係者の間で交わされるなら、誤認は誤認ではなくなるのである。
「橋場の雪」は夢と現実とが混然とする滑稽を語ったものである。これも、何が夢で何が現実かというのがわかりにくい話にすることで、現実だと思っていることの儚さを語っていると思う。大店の若旦那が屋敷の離れで酒を飲んで、うとうととして夢を見る。その夢の話を女房に語り、夢の中のことに女房が嫉妬して泣き、その泣き声を聞いて飛んできた大旦那が若旦那を叱り、叱られた若旦那は自分の夢のことで泣いたり怒ったりしている二人を見て笑う、という状況も興味深い。同じことが観る人の立場によって全く違って見えるということを上手く表現している。
落語として聴くと、上手い話だねぇ、ということでさらっと流してしまうのだろうが、我々が生きる社会の真実を巧に表現しているのが落語だ。そこでは、世に事実というものが存在するのではなく、事実が存在するという合意によって現実が成り立っているということが活写されている。また、我々が生きる場というものが、実はとらえどころないものだからこそ、見ようによってどのようにも見えるということも上手く表現している。その深さを座布団の上で殆どなんの道具立てもなく語って聞かせる。座布団があって、そこに人が座り、何事かを語ることでそこに世界が広がる。世の中というのは、結局は落語の舞台のように無なのだ。私は、緞帳が上がり、誰もいない舞台の上に座布団だけがあり、出囃子が鳴り出す直前の、それまでざわついていた客席が一瞬だけ静まる、その間がなんとも言えず好きだ。その虚無の静寂の空間に世の中の本質を見る思いがする。
子供は、昨日、学校の郊外学習で能を観劇してきたそうだ。私は能を観たことがないのだが、子供は友達に能を習っている人がいて、その発表会に呼ばれて出かけたりしているので、既に昨日が3回目だ。能は物語の展開などはわからないのだが、全体の雰囲気が好きなのだという。想像するに、能も落語と同じように、観る側に見立ての能力がなければ楽しむことができないのではないだろうか。能舞台という、何も無い空間で能面をつけた演じ手が一定の形式の下で物語を紡ぐ。しかし、何も無い空間であるからこそ、そこに無限の世界が広がるとも言える。今度は能を観てこようと思う。
今日の演目(開演14時 閉演16時)
きつつき 「新聞記事」
三三 「万両婿」
(仲入り)
三三 「橋場の雪」