昨日、宇都宮で小倉遊亀展も観てきた。今年、没後10年で回顧展なのだそうだ。
実はこの人の作品は観たことが無かった。濱田庄司展だけのために宇都宮まで足を運ぶというのもどうかと思い、こちらの展覧会にも足を伸ばしたのである。本展はかなり大掛かりなもので、その仕事が単に本業の日本画を描くことにとどまらず、本の挿絵や陶器の絵付け、雑誌の表紙など幅広い。陶器の絵付けは100歳を過ぎてから始めたことだそうだ。
生涯のうちに画風が変化しない画家もいれば大きく変化する人もいる。小倉は典型的に後者で、戦前戦後で違うし、戦前でも結婚前後で変化しているように見える。戦後も一見してマチスのような作品を描いている時期もあり、そこから先はなんとなく世界観が別次元の境地にはいっているかのようだ。
回顧展なので時代を追って作品が陳列されている。私は彼女70歳代の静物画が好きだ。繊細さとフォビズム風の大胆さとが微妙な緊張感を醸し出しながら調和しているような面白さを感じる。この時代よりも年齢が進むと繊細さがやや欠けてくるような印象がある。加齢に伴う身体能力の低下の所為ではないかと勝手に想像している。
静物画といえば、一般には花とか果物といったものに重点が置かれているように思うが、この作家の場合は、それらが飾られている器の表現が精緻である。しかも、絵柄が細かい九谷焼であったりする。焼き物が好きな人だったのだろう。おそらく、花や果物と器という2つの主題が一枚の絵のなかに同居していることで独特の世界が広がるという効果が出ているのではないだろうか。絵のことは何も知らないのだが、素人眼にはそのように感じられる。
90年とか100年といった長命で、しかも亡くなる直前まで作品を作り続けた作家の作品展を観ると、勿論、加齢によるある部分の衰えというようなものも感じられるのだが、年齢を重ねることでしか作ることのできないような世界というものも感じられる。このブログのなかで私はしばしば「高々100年の人生」などというようなことを書いているのだが、傍目には一瞬のように見えても生きている当事者にとっては長い時間だ。100年でできることというのは、その気になれば膨大なことであるように思う。殊に、今日の回顧展のようなものを観ると、人一人の力の大きさというものに驚嘆しないわけにはいかない。
実はこの人の作品は観たことが無かった。濱田庄司展だけのために宇都宮まで足を運ぶというのもどうかと思い、こちらの展覧会にも足を伸ばしたのである。本展はかなり大掛かりなもので、その仕事が単に本業の日本画を描くことにとどまらず、本の挿絵や陶器の絵付け、雑誌の表紙など幅広い。陶器の絵付けは100歳を過ぎてから始めたことだそうだ。
生涯のうちに画風が変化しない画家もいれば大きく変化する人もいる。小倉は典型的に後者で、戦前戦後で違うし、戦前でも結婚前後で変化しているように見える。戦後も一見してマチスのような作品を描いている時期もあり、そこから先はなんとなく世界観が別次元の境地にはいっているかのようだ。
回顧展なので時代を追って作品が陳列されている。私は彼女70歳代の静物画が好きだ。繊細さとフォビズム風の大胆さとが微妙な緊張感を醸し出しながら調和しているような面白さを感じる。この時代よりも年齢が進むと繊細さがやや欠けてくるような印象がある。加齢に伴う身体能力の低下の所為ではないかと勝手に想像している。
静物画といえば、一般には花とか果物といったものに重点が置かれているように思うが、この作家の場合は、それらが飾られている器の表現が精緻である。しかも、絵柄が細かい九谷焼であったりする。焼き物が好きな人だったのだろう。おそらく、花や果物と器という2つの主題が一枚の絵のなかに同居していることで独特の世界が広がるという効果が出ているのではないだろうか。絵のことは何も知らないのだが、素人眼にはそのように感じられる。
90年とか100年といった長命で、しかも亡くなる直前まで作品を作り続けた作家の作品展を観ると、勿論、加齢によるある部分の衰えというようなものも感じられるのだが、年齢を重ねることでしか作ることのできないような世界というものも感じられる。このブログのなかで私はしばしば「高々100年の人生」などというようなことを書いているのだが、傍目には一瞬のように見えても生きている当事者にとっては長い時間だ。100年でできることというのは、その気になれば膨大なことであるように思う。殊に、今日の回顧展のようなものを観ると、人一人の力の大きさというものに驚嘆しないわけにはいかない。