熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「川の底からこんにちは」

2010年05月21日 | Weblog
普段、台所ではタオルではなく手拭いを使っている。この映画の前売りのオマケが手拭いだったので前売り券を買ったのである。

いままで観た映画のなかで、最も面白いもののひとつだと思う。なにがどう面白いのかというのは説明するのが面倒なので、端的な例をいくつか挙げてみることにする。

予告編のなかにも出てくるシーンでの主人公の台詞である。
「あたしなんか、たいした人間じゃないからさ、だから、がんばるよ」

前半部分は諦めとかいじけた雰囲気のある、落ち込む方向にある心情を語る言葉だ。
「あたしなんか」の「なんか」とか「たいした…じゃない」というあたりにそうした否定的な文意を醸し出す作用がある。

ところが、これに「がんばるよ」という結論がつながる。前半と後半との間で心情の流れの方向が逆転するのである。こういうのを、開き直り、というのだろうが、この台詞だけではなく、作品全体の構造が、こうした転換の組み合わせのようになっている。

それが物語として成立するのは、転換に意表をつくところがあるにせよ、論理としてはおかしなところがないからだろう。「たいした人間じゃないから、がんばる」というのは、当たり前のことだろう。それが当たり前に聞こえないのは、その会話が展開する場面との組み合わせとか、その会話を聞いている側の思考の習慣といったものが影響するのだろう。

もうひとつ、予告編にはない部分の話だが、主人公の彼氏が主人公の幼馴染と一緒に主人公の前から姿を消してしまうという場面がある。先ほどの「あたしなんか、…」という予告編の台詞は、その彼氏が去ってしまった直後の主人公と父親との会話の一部なのだが、それに続く主人公と父親とのやりとりのなかで、主人公は男が去ってしまったから、その男と結婚することにする、というのである。しょうもない男だからこそ、「たいした人間じゃない」自分にふさわしいという。

確かに、個人を巡る不幸の大半は、自分のことを棚に上げて他人に対してやたらと厳しい評価を下すこと繰り返したことに起因するのではないだろうか。肥大したセルフイメージを基準に自分を取り巻くものを評価するという過誤ということだ。尺度の基準が不適切なのだから、物事が納得できる形に収まるはずがないのである。

この作品はコメディという感じに仕上げられているが、主人公の台詞や行動を通して、多くの人々が抱える不幸の本質を言い当てているように思われた。自己が多少過大に肥大していても、若いうちなら、その後の人生の積み重ねのなかで、自己と環境との調和、調和とまでいかなくとも妥協くらいはなんとか図ることができるようになり、その人なりの満足を以って人生を満了するのだろう。厄介なのは、40とか50とか人生の折り返しを過ぎてなおも自己の肥大を止めることができない人たちだ。本人もつらいだろうが、その周囲にとっても迷惑の種だ。尤も、そういう輩は第三者の立場から見れば突っ込み処満載で、ただ眺めているには楽しいものである。

他にこの作品のなかで面白かったのは景気とエコの扱いだ。主人公が勤務先の給湯室で同僚と会話しているとき、景気が悪いということが話題になる。その会話のなかでの主人公の台詞は「でも、しょうがないと思います」。確かに、しょうがないのだ。世の中では、例えばマスメディアの報道などで、景気がいかに悪いかということを熱心に取り上げている向きもあるように感じられ、そうした風潮のなかで個人の会話でも「景気が悪い」というのはもやは挨拶のようなものになっている。しかし、その悪さをいくら語ったところで、自分の置かれた状況がどうこうなるものではない。エコも同じである。主人公の彼氏が、なにかというと「エコライフ」を指向していることを語るのだが、それはまるでファッションの一部のようだ。いざ失業して主人公の実家に転がり込み、文字通りのエコライフ実践を迫られると言い訳を作って自然とのかかわりを拒否する。エコロジーのことなど何も理解していないのに、世の中の風潮がエコロジーをひとつの価値であると認知するかのような動きになると、それに盲従して得意がるのである。映画だからかなりデフォルメされた表現にはなっているが、世間の「景気」や「エコ」の語り手というのは、得てしてそういう輩が多いのではないだろうか。これもセルフイメージ形成の重要な部品なのである。自分ではなにひとつ理解していない記号を身に纏って恰好をつけたつもりでも、傍目には裸の王様のようにしか映らないということに、本人は気付かない。

少し長くなってしまうが、もうひとつ興味深いと思ったのは、一転奮起した主人公が実家のしじみ加工業を建て直すべく最初に取り組んだことが社歌の刷新と、商品パッケージの変更だったことである。たまたま先日ネットで見かけたスタンフォードかどこかのMBAプログラムで課題として5ドルを元手に起業するという記事を思い出した。期限は2週間か3週間だったと記憶しているが、パフォーマンスのよかったチームは一様に元手の5ドルには手をつけていなかったのだそうだ。つまり、コストをかけずに収入を得たのだそうで、最も多くの利益を上げたチームは600ドルだったそうだ。自分自身の人件費というものを想定する必要はあるのだが、ここではそれをゼロと置いてしまうと、その5ドルに手をつけていないのだから、投資収益率は無限大ということになる。もちろん、いくつかのチームは5ドルを摩ってしまったが、事業のためには元が必要、というのは実は幻想にすぎないということなのである。誰にでもできるわけではないのだが、商売というのは結局のところ買い手の心理を刺激することなのである。この映画のなかでは販促のコストがゼロというわけではない。しかし、商品パッケージに使ったモデルは従業員の1人と主人公の彼氏の連れ子なので、印刷費が多少多めかかっているくらいのものだろう。それに主人公が歌詞を考え従業員のなかで音楽の素養のある人がいて、その人が曲をつけて社歌兼販促ツールとすることで社歌にまつわるコストはゼロだ。それで商品の売上が倍増した、ということになっている。本当にそんなことで上手くいくとは思えないが、考え方としてはおかしなことではない。

この作品には、そうした人間とか人の営みといったものへの洞察が富んでいて、しかも、その洞察を素直に表現しているように思う。観終わって、やはり自分の好きな作品で「ウィスキー」を思い出した。これはウルグアイの映画で、おそらく日本で紹介された最初のウルグアイ作品ではないだろうか。この作品もコメディなのだが、主人公の妄想が静かに暴走して最後にサゲがある。よくできた作品というのは、冷静な人間観察に基づいて、なおかつ、その洞察の結果を作る側が面白がりながら作っているように感じられる。どのような仕事でも、楽しく仕事をしようとする姿勢のある仕事は、結果として良いものを残すように思う。

蛇足になるが、細かいところでは気になることが残らないわけでもなかった。例えば、主人公は暇さえあれば缶ビールを飲んでいる。ビールなのか発泡酒なのか、あるいは別のものなのかよくわからないのだが缶に大きな字で「麒麟」と書いてあるのはわかる。父親も酒飲みで死因は肝硬変の悪化。そのつながりはよいとして、缶ビールの消費量に対して、主人公の外見が細すぎるのではないか。私自身は酒をほとんど口にしないので、酒飲みの身体がどのようなものか実感としてはわかりかねるのだが、あれだけ飲んでいれば、例え若くて基礎代謝量が大きいとしても、もう少し不健康な肉付きになりそうなものである。350ml缶のビールの熱量は約140kcalだそうだ。熱量と糖質の量はビールと発泡酒との間に大きな差異は無いが、糖質成分を抑えた製品(キリンで言えば「淡麗グリーンラベル」や「麒麟ZERO」)やビールテイストというカテゴリー製品はビールや発泡酒の半分程度の熱量である。食事以外にこうしたものを常習的に摂取していれば、やはりそれなりの体型になるのではないだろうか。

ところが、さらに調べてみると、ビールなどのアルコールに含まれる熱量は文字通り熱として放出されてしまい、身体には蓄積されないのだそうだ。ビールの場合、アルコール以外の原料に含まれる熱量が蓄積される分なので140kcalのうち蓄積されるのは50kcal強に過ぎない。ビールをたくさん飲むから太る、ということではないのである。酒飲みがデブ、という印象があるのは、酒の熱量ではなく、肴の熱量の所為で太る人が多いためだろう。本当の酒好きで、つまみなど口にしないで酒だけ飲んでいるというような場合は、肥満にはつながらないのだそうだ。この作品のなかで、主人公は缶ビールを飲むときには、ビールだけでつまみを口にする場面は無かったので、あの体型でもおかしなところは無いのである。本当に蛇足になってしまったが、せっかくいろいろ調べてみたので、このままこの文章は残すことにする。

「川の底からこんにちは」公式サイト http://kawasoko.com/