職場の同僚で今年1月に1年間の産休から明けて職場に復帰した人がいる。この人が10月から再び産休に入ることになった。めでたいことではある。この人とは別に、今年の1月から産休に入っている同僚もいる。2人とも英国在住で在宅勤務の英国人である。その身分は英国法の下にある。日本で産休というものがどれほどの期間なのか知らないが、自分の身の回りには1年間の産休を取得したという人はいない。こちらが驚くほど早く職場に復帰している人は何人も知っているが、そうした自分の知り合いが偶然にも育児環境に恵まれた人が多かったというだけのことかもしれない。自分の子の時は、当時の配偶者は専業主婦だったので産休というものとは無縁であった。
少子化というのは国家の存亡にかかわる重大問題なのだが、そのような認識が社会において共有されているとは思えない。いますぐどうこうなる問題ではないので、選挙の票にはつながらず、政治の焦点にはならないのだろう。少子化担当大臣なるポストがあるが、何をしているのかさっぱりわからない。それこそ仕分けの対象にでもしたほうがよいのではないか。政治が動かなければ役所は動かない。官が動かないのに、民だけでどうこうできるものでもない。世の中には自分でどうにかできることと、社会としてどうにかしなければならないこととがあるが、人口問題は社会全体の問題だ。子供を持っている人もいない人も、子供を持ちたい人も持ちたくない人も、ともに考えなければならないことである。
少子化対策というと育児支援のことばかりに関心が向く傾向が強いようだが、子供を産み育てるにはその器である家庭がなければならない。必ずしも結婚という形を取る必要があるわけでもないだろうが、親が無ければ子は生まれない。家庭を持ちたいと思う人が増えるようにするにはどうしたらよいのだろうか。
「婚活」などという言葉もあるようだが、結婚が目的で、そのために相手を血眼になって探すというのは、どこか前近代的なような気がする。せっかく原則として自由に相手を選ぶことができるのだから、一緒に暮らしたいほど好きな相手ができて、その結果として結婚があるというのが自然だろう。形式ばかりを意識すると、後悔する結果になることが多いような気がする。世間で生きる限り、ある程度の形式的なことには付き合わないと人間関係が円滑に運ばないことがあるのは事実だが、たいして長くもない人生を世間に振り回されて生きるのは自分に与えられた時間の使い方として、果たしてどうなのだろう。
私の現在の職場には男性が6人、女性が5人いる。5人の女性は全員独身だ。「独身の女性」が「若い女性」と同義ではないことが、いかにも現代風である。私が大学を出て最初に就職した職場には、5人の同期の女性がいた。「大学を出て最初に就職」した人間にとっての「同期の女性」というのは、「若い女性」と同義である。この5人の女性のうち4人は既に既婚である。残る1人は婚約まではしたのだが、不幸な事情があって結婚に至らなかった。この4人のうち2人が外国人と結婚している。ひとりはアメリカ人と、もうひとりはエジプト人である。アメリカ人と結婚した人はカリフォルニア在住で、エジプト人と結婚した人はルクソール在住だ。相手がどこの国の人でもよいのだが、いずれにしても、5人とも少なくとも恋愛というものを経ている、と思う。ところが、今の職場の5人の独身女性のうち、少なくとも何人かは、おそらく恋愛というものを経験していないのではないか、というのが私の偏見に満ちた判断だ。
何が言いたいかというと、結婚しない人が増えているというのは、要するに円満な人間関係を構築するのが苦手な人が増えているということであって、不況で経済力が無いとか、自由な時間が欲しい、というのは取って付けた理由でしかないのではないかということだ。何の根拠もない想像なのだが、戦後の急速な経済発展と外国文化の上っ面だけを取り入れたことによって、それまでの日本の歴史の積み重ねの上に築かれていたはずの人と人との関係の持ち方とか個人の在りようといったものが失われてしまったのではないかと思うのである。価値観の軸を失えば、自己と他者の領域の区別などできなくなるだろうし、そうなれば適切な人間関係を構築するなど不可能だ。その結果、人は孤独に陥り、恋愛などできず、家庭も子供も生まれないということになる。
ところで、産休期間中はよほどの理由が無い限り解雇されない。1年間で社員の3割近くが整理された時期に産休で、ギリシャ問題をきっかけに不穏な空気が漂いはじめている時期に再び産休に入るというのを間近に見ていると、勿論本人にそういう意図はないのだろうが、産休が雇用確保のための武器のようにも見えてくる。
少子化というのは国家の存亡にかかわる重大問題なのだが、そのような認識が社会において共有されているとは思えない。いますぐどうこうなる問題ではないので、選挙の票にはつながらず、政治の焦点にはならないのだろう。少子化担当大臣なるポストがあるが、何をしているのかさっぱりわからない。それこそ仕分けの対象にでもしたほうがよいのではないか。政治が動かなければ役所は動かない。官が動かないのに、民だけでどうこうできるものでもない。世の中には自分でどうにかできることと、社会としてどうにかしなければならないこととがあるが、人口問題は社会全体の問題だ。子供を持っている人もいない人も、子供を持ちたい人も持ちたくない人も、ともに考えなければならないことである。
少子化対策というと育児支援のことばかりに関心が向く傾向が強いようだが、子供を産み育てるにはその器である家庭がなければならない。必ずしも結婚という形を取る必要があるわけでもないだろうが、親が無ければ子は生まれない。家庭を持ちたいと思う人が増えるようにするにはどうしたらよいのだろうか。
「婚活」などという言葉もあるようだが、結婚が目的で、そのために相手を血眼になって探すというのは、どこか前近代的なような気がする。せっかく原則として自由に相手を選ぶことができるのだから、一緒に暮らしたいほど好きな相手ができて、その結果として結婚があるというのが自然だろう。形式ばかりを意識すると、後悔する結果になることが多いような気がする。世間で生きる限り、ある程度の形式的なことには付き合わないと人間関係が円滑に運ばないことがあるのは事実だが、たいして長くもない人生を世間に振り回されて生きるのは自分に与えられた時間の使い方として、果たしてどうなのだろう。
私の現在の職場には男性が6人、女性が5人いる。5人の女性は全員独身だ。「独身の女性」が「若い女性」と同義ではないことが、いかにも現代風である。私が大学を出て最初に就職した職場には、5人の同期の女性がいた。「大学を出て最初に就職」した人間にとっての「同期の女性」というのは、「若い女性」と同義である。この5人の女性のうち4人は既に既婚である。残る1人は婚約まではしたのだが、不幸な事情があって結婚に至らなかった。この4人のうち2人が外国人と結婚している。ひとりはアメリカ人と、もうひとりはエジプト人である。アメリカ人と結婚した人はカリフォルニア在住で、エジプト人と結婚した人はルクソール在住だ。相手がどこの国の人でもよいのだが、いずれにしても、5人とも少なくとも恋愛というものを経ている、と思う。ところが、今の職場の5人の独身女性のうち、少なくとも何人かは、おそらく恋愛というものを経験していないのではないか、というのが私の偏見に満ちた判断だ。
何が言いたいかというと、結婚しない人が増えているというのは、要するに円満な人間関係を構築するのが苦手な人が増えているということであって、不況で経済力が無いとか、自由な時間が欲しい、というのは取って付けた理由でしかないのではないかということだ。何の根拠もない想像なのだが、戦後の急速な経済発展と外国文化の上っ面だけを取り入れたことによって、それまでの日本の歴史の積み重ねの上に築かれていたはずの人と人との関係の持ち方とか個人の在りようといったものが失われてしまったのではないかと思うのである。価値観の軸を失えば、自己と他者の領域の区別などできなくなるだろうし、そうなれば適切な人間関係を構築するなど不可能だ。その結果、人は孤独に陥り、恋愛などできず、家庭も子供も生まれないということになる。
ところで、産休期間中はよほどの理由が無い限り解雇されない。1年間で社員の3割近くが整理された時期に産休で、ギリシャ問題をきっかけに不穏な空気が漂いはじめている時期に再び産休に入るというのを間近に見ていると、勿論本人にそういう意図はないのだろうが、産休が雇用確保のための武器のようにも見えてくる。