器を眺めるとき、自然とその器を洗うときのことを想像してしまう。貧乏性というのか所帯じみているというのか、それも個性なのだろう。
よく、器と料理の関係を口にする人がいる。食事というものは単に空腹を満たすものではなく、見た目であるとか場の状況といった全体で旨いとかそうでもないという評価になるのだろう。日頃から旨いものを食べ慣れている人は、食べる直前の状態というものを自然に想像しながら器を眺めるのだと思う。そのような結構なことに馴染みの無い者は自然に洗い物のことなどが思い浮かぶのである。
お茶の稽古をご一緒させていただいている人から勧められて山本安朗氏の個展を観てきた。
山本氏の作品は全て焼締だ。ご本人がおられたのでいろいろお話を伺った。土は琵琶湖近くの鉄分など不純物を多く含むもので、ご自身が気に入った作家が使っている土なのだそうだ。その採取地の近くには大手陶磁器メーカーの採土地もあるという場所なのだそうだ。陶磁器メーカーのほうはより深いところにある不純物の少ない地層から採取していて、山本氏のほうは上層からということだ。焼成は年一回、手製の窯を使って8日間ほどかけて焼くという。そのための薪を集め、薪割をするのに4ヶ月ほど要するのだそうだ。窯のほかにアトリエも轆轤もご自身で作られたという。
焼締の作品というのは、いかにも焼き物らしい野趣がある。好みは大きく分かれるだろうが、私は花器には良いのではないかと思う。食器に使うとなると、少し考えてしまう。扱うのには高台はしっかりとしていたほうが間違いが少ないだろうし、飲食物が納まる内側は突起が無く、できれば平滑であるほうが、使用後の衛生管理上も都合が良いだろう。洗い終わった器を布巾で拭くときのことを考えれば、内側のみならず外側も平滑であるに越したことはない。となると、焼締よりは施釉されているもののほうが使い勝手は良いということになる。
やもめ暮らしで家事を切り盛りしていると、否が応にも動作の自然というものを考えるようになる。それは必ずしも効率第一ということではなく、自分の身体の動きとの親和性のようなものを感じさせる道具類に愛着を感じるということだ。親和性というのは、見た目も重要な要素だが、何よりも使ったときの感触に大きく左右されるものである。さらに欲を言えば、道具類はあくまで道具であるべきだと思うのである。使う人間が主で道具が従という位置関係が崩れると妙な感じになるのではなかろうか。茶道具などには、そう思って見る所為か、存在感の強いものがある。パフォーマンスとして茶会や道具類の鑑賞があるなかで、立派な道具類と向かい合うのは愉快な経験ではある。しかし、日常生活において過敏なまでに扱いに注意をしなければならないようなものがあるというのは快適なことには思われない。勿論、かといって作り手不在の安直な物に囲まれるのも荒涼とした風景だ。自分が心地よい場というものを作り上げるのは、思いの外に難しいことだと思う。
ところで山本氏の作品だが、毎月どこかしらで個展を開く予定だそうなので、何度か足を運んだ上で、ひとつふたつ自分の生活空間のなかに取り入れてみることを考えてみるかもしれない。次回は6月に鎌倉で、その次は7月に青山で個展があるそうだ。
よく、器と料理の関係を口にする人がいる。食事というものは単に空腹を満たすものではなく、見た目であるとか場の状況といった全体で旨いとかそうでもないという評価になるのだろう。日頃から旨いものを食べ慣れている人は、食べる直前の状態というものを自然に想像しながら器を眺めるのだと思う。そのような結構なことに馴染みの無い者は自然に洗い物のことなどが思い浮かぶのである。
お茶の稽古をご一緒させていただいている人から勧められて山本安朗氏の個展を観てきた。
山本氏の作品は全て焼締だ。ご本人がおられたのでいろいろお話を伺った。土は琵琶湖近くの鉄分など不純物を多く含むもので、ご自身が気に入った作家が使っている土なのだそうだ。その採取地の近くには大手陶磁器メーカーの採土地もあるという場所なのだそうだ。陶磁器メーカーのほうはより深いところにある不純物の少ない地層から採取していて、山本氏のほうは上層からということだ。焼成は年一回、手製の窯を使って8日間ほどかけて焼くという。そのための薪を集め、薪割をするのに4ヶ月ほど要するのだそうだ。窯のほかにアトリエも轆轤もご自身で作られたという。
焼締の作品というのは、いかにも焼き物らしい野趣がある。好みは大きく分かれるだろうが、私は花器には良いのではないかと思う。食器に使うとなると、少し考えてしまう。扱うのには高台はしっかりとしていたほうが間違いが少ないだろうし、飲食物が納まる内側は突起が無く、できれば平滑であるほうが、使用後の衛生管理上も都合が良いだろう。洗い終わった器を布巾で拭くときのことを考えれば、内側のみならず外側も平滑であるに越したことはない。となると、焼締よりは施釉されているもののほうが使い勝手は良いということになる。
やもめ暮らしで家事を切り盛りしていると、否が応にも動作の自然というものを考えるようになる。それは必ずしも効率第一ということではなく、自分の身体の動きとの親和性のようなものを感じさせる道具類に愛着を感じるということだ。親和性というのは、見た目も重要な要素だが、何よりも使ったときの感触に大きく左右されるものである。さらに欲を言えば、道具類はあくまで道具であるべきだと思うのである。使う人間が主で道具が従という位置関係が崩れると妙な感じになるのではなかろうか。茶道具などには、そう思って見る所為か、存在感の強いものがある。パフォーマンスとして茶会や道具類の鑑賞があるなかで、立派な道具類と向かい合うのは愉快な経験ではある。しかし、日常生活において過敏なまでに扱いに注意をしなければならないようなものがあるというのは快適なことには思われない。勿論、かといって作り手不在の安直な物に囲まれるのも荒涼とした風景だ。自分が心地よい場というものを作り上げるのは、思いの外に難しいことだと思う。
ところで山本氏の作品だが、毎月どこかしらで個展を開く予定だそうなので、何度か足を運んだ上で、ひとつふたつ自分の生活空間のなかに取り入れてみることを考えてみるかもしれない。次回は6月に鎌倉で、その次は7月に青山で個展があるそうだ。