美術展のチラシに派手な言葉が使われることはないと思っていた。国立新美術館で開催中のオルセー美術館展には1枚ペラのチラシと割引クーポンの付いた3つ折のチラシがあるが、3つ折のコピーに「モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルソー、傑作絵画115点、空前絶後」とある。この「空前絶後」というのが引っかかった。
それで観てきたのだが、なるほど「空前絶後」だと思った。今、三菱一号館美術館でモネ展を開催中で、こちらにもオルセーからそれなりの規模のコレクションが借り出されている。オルセーは大丈夫なのか、と素朴に疑問に思っていたが、現在改装工事中とのことで納得できた。
いつも日本の美術館の企画力には感心させられるのだが、今回も「ポスト印象派」と銘打っているところがミソである。チラシの表紙、チケット、図録の表紙ともにルソーの「蛇使いの女」。展示の中心はナビ派である。ナビ派の作品は、オルセーのナビ派コーナーで展示されている数の三分の一くらい来ているのではないかと思われるほど充実したものである。貸す側借りる側それぞれの事情があるのだろうが、これをそのまま「ナビ派を中心に」などとするよりも「ポスト印象派」というように日本で人気のある「印象派」という文字を入れることで、来場者数はかなり違ったものになるのは確かだろう。
印象派絵画のほうもモネでしっかりとカバーし、印象派から独自の路線へと進んだセザンヌも独立したコーナーを設け、当然のようにゴッホとゴーギャンもおさえてある。本展全体としての展示作品数が過去に日本で開催されたオルセー展とは比較にならない数ということもあり、これまでのような「つまみ食い」のようなものではなく、ひとつひとつのコーナーだけを取り出しても、それだけでちょっとした企画展ができるほどの内容だ。
今回の展示ではルソーの作品は、チラシの表紙になっている「蛇使いの女」のほかに「戦争」だけなのだが、この2点をオルセーの外で観ることができる機会というのは稀だろう。ルソーは所謂「日曜画家」で、絵画に関する専門教育は受けていないし、画家や有力画商との縁も無い。それでも、ピカソに「発見」されるまでの雌伏期が長いとは言え、力のある作品を描き続けていれば、それがきちんと評価されて、こうして世に出るということが嬉しい。自分とは縁も縁もない人だが、その作品を眺めていてとても嬉しい。たまたまかもしれないが、今日はこれらルソーの作品の前に人だかりができていたのも嬉しい。ルソーに関しては、2006年に世田谷美術館で国内収蔵品とルソーに影響されたと見られる作品を集めたルソー展が開催されていた。これも面白い企画展だったが、今回のような直球勝負的な展示は、やはり見逃せないと思った。
ゴッホとゴーギャンも自分にとっては今回の目玉のひとつだ。ゴーギャンは昨年夏に国立近代美術館で、国内に所蔵されている作品を中心にボストン美術館所蔵の作品等を加えた「ゴーギャン展」が開催されている。このときはオルセーの作品は無かったが、今回は「黄色いキリストのある自画像」を始めとして8点出品されている。ゴッホは神話のようなエピソードが作品を離れて独り歩きしている感が無きにしもあらずだが、本展の作品を観ると独り歩きしていたエピソードが作品に戻ってくるのではないだろうか。今回7点が出品されているが、「星降る夜」や「アルルのゴッホの寝室」だけでも足を運んだ甲斐があるというものだ。
個人的にはそれほど興味は無いのだが、点描画もこれだけまとめて観ると、その発想に興味を覚える。点の大きさや形といった細部に試行錯誤の跡を見て取ることができ、それは単に視覚ということを超えて世界観にまで及ぶ物事の認識の試行錯誤であるように思う。絵画に限らず、彫刻や工芸、文章も、表現という行為は、個別具体的な実体を通して表現者の世界観を語っている、という当然と言えば当然のことを改めて認識させられた。
それにしても、東京という都市はたいしたところだと思う。今の時代にこの場所で生活していることの幸運を感じる、というと大袈裟かもしれないが。
それで観てきたのだが、なるほど「空前絶後」だと思った。今、三菱一号館美術館でモネ展を開催中で、こちらにもオルセーからそれなりの規模のコレクションが借り出されている。オルセーは大丈夫なのか、と素朴に疑問に思っていたが、現在改装工事中とのことで納得できた。
いつも日本の美術館の企画力には感心させられるのだが、今回も「ポスト印象派」と銘打っているところがミソである。チラシの表紙、チケット、図録の表紙ともにルソーの「蛇使いの女」。展示の中心はナビ派である。ナビ派の作品は、オルセーのナビ派コーナーで展示されている数の三分の一くらい来ているのではないかと思われるほど充実したものである。貸す側借りる側それぞれの事情があるのだろうが、これをそのまま「ナビ派を中心に」などとするよりも「ポスト印象派」というように日本で人気のある「印象派」という文字を入れることで、来場者数はかなり違ったものになるのは確かだろう。
印象派絵画のほうもモネでしっかりとカバーし、印象派から独自の路線へと進んだセザンヌも独立したコーナーを設け、当然のようにゴッホとゴーギャンもおさえてある。本展全体としての展示作品数が過去に日本で開催されたオルセー展とは比較にならない数ということもあり、これまでのような「つまみ食い」のようなものではなく、ひとつひとつのコーナーだけを取り出しても、それだけでちょっとした企画展ができるほどの内容だ。
今回の展示ではルソーの作品は、チラシの表紙になっている「蛇使いの女」のほかに「戦争」だけなのだが、この2点をオルセーの外で観ることができる機会というのは稀だろう。ルソーは所謂「日曜画家」で、絵画に関する専門教育は受けていないし、画家や有力画商との縁も無い。それでも、ピカソに「発見」されるまでの雌伏期が長いとは言え、力のある作品を描き続けていれば、それがきちんと評価されて、こうして世に出るということが嬉しい。自分とは縁も縁もない人だが、その作品を眺めていてとても嬉しい。たまたまかもしれないが、今日はこれらルソーの作品の前に人だかりができていたのも嬉しい。ルソーに関しては、2006年に世田谷美術館で国内収蔵品とルソーに影響されたと見られる作品を集めたルソー展が開催されていた。これも面白い企画展だったが、今回のような直球勝負的な展示は、やはり見逃せないと思った。
ゴッホとゴーギャンも自分にとっては今回の目玉のひとつだ。ゴーギャンは昨年夏に国立近代美術館で、国内に所蔵されている作品を中心にボストン美術館所蔵の作品等を加えた「ゴーギャン展」が開催されている。このときはオルセーの作品は無かったが、今回は「黄色いキリストのある自画像」を始めとして8点出品されている。ゴッホは神話のようなエピソードが作品を離れて独り歩きしている感が無きにしもあらずだが、本展の作品を観ると独り歩きしていたエピソードが作品に戻ってくるのではないだろうか。今回7点が出品されているが、「星降る夜」や「アルルのゴッホの寝室」だけでも足を運んだ甲斐があるというものだ。
個人的にはそれほど興味は無いのだが、点描画もこれだけまとめて観ると、その発想に興味を覚える。点の大きさや形といった細部に試行錯誤の跡を見て取ることができ、それは単に視覚ということを超えて世界観にまで及ぶ物事の認識の試行錯誤であるように思う。絵画に限らず、彫刻や工芸、文章も、表現という行為は、個別具体的な実体を通して表現者の世界観を語っている、という当然と言えば当然のことを改めて認識させられた。
それにしても、東京という都市はたいしたところだと思う。今の時代にこの場所で生活していることの幸運を感じる、というと大袈裟かもしれないが。