「冷泉家 王朝の和歌守展」の音声ガイドで面白いことが語られていた。「私とあなたは違う」ということを詠うのが現代短歌で、「私とあなたは同じ」と詠うのが和歌だというのである。語っているのは上冷泉家の現当主冷泉為人の妻、貴実子(敬称略)。冷泉家は藤原定家の孫、冷泉為相に始まる。藤原俊成、定家親子は和歌の標準を作り上げたと言っても過言ではないだろう。その標準を今に守り伝えているのが冷泉家だ。
和歌は今でこそ趣味の領域であるかの印象が強いが、その昔は国政を担う人々の基礎的教養のひとつで、和歌の出来不出来で出世まで左右されたという。現在の皇室行事にも和歌を詠うものはあり、正月のニュースで必ずと言っていいほどに耳にする歌会始は、その最たる例だ。和歌が政治と関連していたのは、それが日本語の共通認識の標準であるからではないだろうか。政治というのは国家という巨大組織の運営である。法、行政、財務、税務など、国家運営の諸々を、それに関わる人々の間で適切に意思疎通を図りながら滞りなく執行しようとすれば、言葉というものについての共通認識を確認し続けることが必要不可欠であったということだろう。
和歌は自然の美しさを詠む。自然はかならずしも花鳥風月だけではなく、人の心も、あるいは人そのものの在りようも自然の一部である。花鳥風月と国家とは全く異質のことに感じられるかもしれないが、国家を構成しているのはひとりひとりの人間である。人の感性を言語化する作業とは、人の知性を理解しようとする試みとも言える。為政者やその配下が、自分たちが統治する人々をしらずして政治が可能であろうか。和歌が政治と結びつくのは、政治の基礎に人があるからということではないだろうか。
発想や思考は言語構造に依存する。「国民性」と呼ばれることが多いように感じるが、物事をどのように認識し理解するか、というのは結局のところ言語の問題だろう。考えるという行為は言語を使って行うのである。当然にその言語の特質が思考に反映される。誰もが和歌を解釈したり作ったりできるわけではないが、先人から綿々と積み重ねられた言語遺産の蓄積があればこそ、教育が成り立つ。教育があればこそ、文明があり、文明があるからこそ世界のなかでそれなりの地位を占めることができるのである。
個人の存在を尊重するのは、所謂「最大多数の最大幸福」という社会の理想とするところを追求する上で欠くことのできない姿勢である。しかし、治安や公共の福祉を担保しなければ、我々は安心して暮らすことができない。人の欲望は無限である。どのように個人の欲求の満足と社会の秩序の維持との均衡を図るべきなのか。そこに原理原則や哲学が求められるのであろう。
人には「私とあなたは同じ」という面もあれば「私とあなたは違う」面もある。どちらか一方だけを偏重してしまうと、世の中は住みにくくなるのではないか。「同じ」と「違う」に線引きをするということではなしに、「同じ」でもあり「違う」こともあるというところの背後に、しっかりとした哲学があるならば、「違うけれど同じ」「同じだけれど違う」諸事雑多は政治に支障のない程度の多数の人々に受け入れられるのではないだろうか。
和歌は今でこそ趣味の領域であるかの印象が強いが、その昔は国政を担う人々の基礎的教養のひとつで、和歌の出来不出来で出世まで左右されたという。現在の皇室行事にも和歌を詠うものはあり、正月のニュースで必ずと言っていいほどに耳にする歌会始は、その最たる例だ。和歌が政治と関連していたのは、それが日本語の共通認識の標準であるからではないだろうか。政治というのは国家という巨大組織の運営である。法、行政、財務、税務など、国家運営の諸々を、それに関わる人々の間で適切に意思疎通を図りながら滞りなく執行しようとすれば、言葉というものについての共通認識を確認し続けることが必要不可欠であったということだろう。
和歌は自然の美しさを詠む。自然はかならずしも花鳥風月だけではなく、人の心も、あるいは人そのものの在りようも自然の一部である。花鳥風月と国家とは全く異質のことに感じられるかもしれないが、国家を構成しているのはひとりひとりの人間である。人の感性を言語化する作業とは、人の知性を理解しようとする試みとも言える。為政者やその配下が、自分たちが統治する人々をしらずして政治が可能であろうか。和歌が政治と結びつくのは、政治の基礎に人があるからということではないだろうか。
発想や思考は言語構造に依存する。「国民性」と呼ばれることが多いように感じるが、物事をどのように認識し理解するか、というのは結局のところ言語の問題だろう。考えるという行為は言語を使って行うのである。当然にその言語の特質が思考に反映される。誰もが和歌を解釈したり作ったりできるわけではないが、先人から綿々と積み重ねられた言語遺産の蓄積があればこそ、教育が成り立つ。教育があればこそ、文明があり、文明があるからこそ世界のなかでそれなりの地位を占めることができるのである。
個人の存在を尊重するのは、所謂「最大多数の最大幸福」という社会の理想とするところを追求する上で欠くことのできない姿勢である。しかし、治安や公共の福祉を担保しなければ、我々は安心して暮らすことができない。人の欲望は無限である。どのように個人の欲求の満足と社会の秩序の維持との均衡を図るべきなのか。そこに原理原則や哲学が求められるのであろう。
人には「私とあなたは同じ」という面もあれば「私とあなたは違う」面もある。どちらか一方だけを偏重してしまうと、世の中は住みにくくなるのではないか。「同じ」と「違う」に線引きをするということではなしに、「同じ」でもあり「違う」こともあるというところの背後に、しっかりとした哲学があるならば、「違うけれど同じ」「同じだけれど違う」諸事雑多は政治に支障のない程度の多数の人々に受け入れられるのではないだろうか。