深夜、職場のあるビルの1階受付コーナーは照明も最小限に落されて人の姿は無い。他のどのフロアよりも高い天井で音が反響する。女性が泣いているような音が聞こえる。地下へ降りるエスカレーターが軋む音だ。軋んでいるのはエスカレーターだけだろうか。この音を聞くたびに、自分が生きている世界がまるごと軋んでいるような心持になる。まるごとならば逃げようがない。
子供が読んで面白いと言っていたのと、映画がたいへん評判であるので、文庫になった「告白」を読んだ。「現実は小説よりも奇なり」という言葉があるが、物語が作られ過ぎていて面白いとは思えなかった。作為が露骨に過ぎると感じられることよりも、おそらく、物語の根底にある思想を作者と共有できなかったということだろう。
人を殺すということは特別なことなのだろうか。この作品のなかに4件の殺人事件が登場する。いずれの事件も人を殺すことの明確な理由が、ややこじつけに過ぎるのではないかと思えるほどに、在る。物語の軸を成すのは、最初の事件とその遺族、「告白」の主の告白だ。その事件は、結果としては事故に近いのだが、殺意の下の事件である。その犯人2人がそれぞれに次なる殺人を重ねる。おそらく2人とも殺人の根底にある動機を満足させることはできていない。何人殺したところで満足させられるような動機ではないのだから。
犯人は2人とも所謂マザコンだ。母親を喜ばせることで自分の存在を確認する。母親の喜びが自分の喜びであり、母親の落胆は自分の絶望、という設定だ。2人とも中学生で、友人関係は希薄、母親だけが自己の存在の拠り所である。ただ、片方は母親のほうも息子の存在に自己を重ね合わせている共依存だ。もう片方は、はっきりとは書かれていないのだが、おそらく母親の意識からは捨て去られた存在だ。最初の事件の被害者であり、最後の事件の加害者でもある主人公もまた、少し極端な境遇ということになっている。しかも舞台は中学校という限定された世界であり、少しばかり極端なことが起こっても、なんとでも理屈をつけてしまうことができる状況設定だ。
あるいは、極端な世界を描くことで、日常のなかの歪みを敢えて強調したのかもしれない。しかし、殺人事件に限らず、およそ事件というものは、ごくありふれた生活に降って沸いたように起こるものなのではないだろうか。犯罪者は精神に異常をきたしている結果として犯罪を起こす、という考え方もあるようだ。痴漢や万引きといったことを繰り返す人のなかには、性欲や物欲を満足させることが目的ではないという場合が多々あることも事実だろう。ところで、正常と異常というのは区別可能だろうか。
ふと茶碗を思った。先日、「茶室に思う」を書いたときに「芸術新潮」の2008年3月号を読み返したのだが、そのなかの樂吉左衞門と川瀬敏郎との対談で樂氏がこのようなことを言っている。
「この世界はいつも軋んでいて、自分もまたそこで苦しみ、悲しみ、もがいている。そうしたなかで生れた茶碗をどこかで手にした人もまた、同じ苦しみ、悲しみを抱えているはず。僕の葛藤は茶碗を通して、きっとその誰かに伝わる。伝われば何かがかわる、何かが生れる。そう思っているからだよ。」(「芸術新潮」2008年3月号 103頁)
もうひとつ思い出したのは、須賀敦子の「ふつうの重荷」というエッセイだ。
「書店は、もう彼女にとって英雄たちの戦場ではなくて、避けるわけにはいかないだけの、だれもが人生で背負っている、ふつうの重荷になっていた。もう、しかたがないわよ。彼女はなんどもそう繰り返した。そういう彼女の表情には、哀しいあきらめというよりは、成熟がもたらす、しずかな落着きがあった。」(「ふつうの重荷」河出文庫版 須賀敦子全集第1巻 2008年2月10日 3刷 369-370頁)
「苦しみ」だの「悲しみ」という言葉を使うと、その文字面の印象もあって何か悲惨な感じが香るのだが、生きることの原動力が我であるのだから、生活の中で他者の我と衝突するのは必然である。それが無数に組み合わされているのが人生であり、人の世界なのだから、人生に「ふつうの重荷」があり「世界は軋んで」いるのである。
諦め、というのとは違うのだが、思うようにならない人生のなかで、現実と折り合うことのできる状態を正常と呼び、駄々っ子のように我を張り通す以外の方策を見出すことができない状態を異常と呼ぶことができるのではないだろうか。正常も異常も状態を指すのだから、誰もが経験することだ。
異常な人々や異常な状態だけを描くことで世界のありようが見えてくるなら、その作品は普遍性を持つということだろう。しかし、よほど筆力に優れているとか、構想が巧みに練られれているというようなことがなければ、単に異常だけを取り出して「びっくり財布」のような作品を書いてみても、それはその場限りの話題になりこそすれ、そう遠くない将来には忘れ去られてしまうのだろう。逃れようのない世界で暮らして、自分よりももっと追い詰められた人の姿を見れば、まだ自分はましなのだと安心できる心情が無いとは言えない。しかし、そこで終わってしまっては、作品世界の広がりは無い。主人公の犯人に対する復讐の、あまりに偏狭で短絡的な発想に、作者の人間に対する洞察の底の浅さのようなものが感じられ、所詮は娯楽小説の域を出ないと感じた。尤も、だからこそ売れるのだが。
子供が読んで面白いと言っていたのと、映画がたいへん評判であるので、文庫になった「告白」を読んだ。「現実は小説よりも奇なり」という言葉があるが、物語が作られ過ぎていて面白いとは思えなかった。作為が露骨に過ぎると感じられることよりも、おそらく、物語の根底にある思想を作者と共有できなかったということだろう。
人を殺すということは特別なことなのだろうか。この作品のなかに4件の殺人事件が登場する。いずれの事件も人を殺すことの明確な理由が、ややこじつけに過ぎるのではないかと思えるほどに、在る。物語の軸を成すのは、最初の事件とその遺族、「告白」の主の告白だ。その事件は、結果としては事故に近いのだが、殺意の下の事件である。その犯人2人がそれぞれに次なる殺人を重ねる。おそらく2人とも殺人の根底にある動機を満足させることはできていない。何人殺したところで満足させられるような動機ではないのだから。
犯人は2人とも所謂マザコンだ。母親を喜ばせることで自分の存在を確認する。母親の喜びが自分の喜びであり、母親の落胆は自分の絶望、という設定だ。2人とも中学生で、友人関係は希薄、母親だけが自己の存在の拠り所である。ただ、片方は母親のほうも息子の存在に自己を重ね合わせている共依存だ。もう片方は、はっきりとは書かれていないのだが、おそらく母親の意識からは捨て去られた存在だ。最初の事件の被害者であり、最後の事件の加害者でもある主人公もまた、少し極端な境遇ということになっている。しかも舞台は中学校という限定された世界であり、少しばかり極端なことが起こっても、なんとでも理屈をつけてしまうことができる状況設定だ。
あるいは、極端な世界を描くことで、日常のなかの歪みを敢えて強調したのかもしれない。しかし、殺人事件に限らず、およそ事件というものは、ごくありふれた生活に降って沸いたように起こるものなのではないだろうか。犯罪者は精神に異常をきたしている結果として犯罪を起こす、という考え方もあるようだ。痴漢や万引きといったことを繰り返す人のなかには、性欲や物欲を満足させることが目的ではないという場合が多々あることも事実だろう。ところで、正常と異常というのは区別可能だろうか。
ふと茶碗を思った。先日、「茶室に思う」を書いたときに「芸術新潮」の2008年3月号を読み返したのだが、そのなかの樂吉左衞門と川瀬敏郎との対談で樂氏がこのようなことを言っている。
「この世界はいつも軋んでいて、自分もまたそこで苦しみ、悲しみ、もがいている。そうしたなかで生れた茶碗をどこかで手にした人もまた、同じ苦しみ、悲しみを抱えているはず。僕の葛藤は茶碗を通して、きっとその誰かに伝わる。伝われば何かがかわる、何かが生れる。そう思っているからだよ。」(「芸術新潮」2008年3月号 103頁)
もうひとつ思い出したのは、須賀敦子の「ふつうの重荷」というエッセイだ。
「書店は、もう彼女にとって英雄たちの戦場ではなくて、避けるわけにはいかないだけの、だれもが人生で背負っている、ふつうの重荷になっていた。もう、しかたがないわよ。彼女はなんどもそう繰り返した。そういう彼女の表情には、哀しいあきらめというよりは、成熟がもたらす、しずかな落着きがあった。」(「ふつうの重荷」河出文庫版 須賀敦子全集第1巻 2008年2月10日 3刷 369-370頁)
「苦しみ」だの「悲しみ」という言葉を使うと、その文字面の印象もあって何か悲惨な感じが香るのだが、生きることの原動力が我であるのだから、生活の中で他者の我と衝突するのは必然である。それが無数に組み合わされているのが人生であり、人の世界なのだから、人生に「ふつうの重荷」があり「世界は軋んで」いるのである。
諦め、というのとは違うのだが、思うようにならない人生のなかで、現実と折り合うことのできる状態を正常と呼び、駄々っ子のように我を張り通す以外の方策を見出すことができない状態を異常と呼ぶことができるのではないだろうか。正常も異常も状態を指すのだから、誰もが経験することだ。
異常な人々や異常な状態だけを描くことで世界のありようが見えてくるなら、その作品は普遍性を持つということだろう。しかし、よほど筆力に優れているとか、構想が巧みに練られれているというようなことがなければ、単に異常だけを取り出して「びっくり財布」のような作品を書いてみても、それはその場限りの話題になりこそすれ、そう遠くない将来には忘れ去られてしまうのだろう。逃れようのない世界で暮らして、自分よりももっと追い詰められた人の姿を見れば、まだ自分はましなのだと安心できる心情が無いとは言えない。しかし、そこで終わってしまっては、作品世界の広がりは無い。主人公の犯人に対する復讐の、あまりに偏狭で短絡的な発想に、作者の人間に対する洞察の底の浅さのようなものが感じられ、所詮は娯楽小説の域を出ないと感じた。尤も、だからこそ売れるのだが。