日本民藝館で開催中の朝鮮陶磁展を観てきた。民藝というのは手仕事によって作られた普段使いの道具類を指す言葉で、最初は匠とか芸術家の作品に対する「下手物(げてもの)」という呼称であったのが、言葉の響きがよくなくて、また、誤解を与えやすいとの配慮から「民藝」に改められたという話を聞いたことがある。美術館の陳列ケースのなかに収まれば芸術品だろうが下手物だろうが、自分の生活を超えたところのもののように感じられてしまう。しかし、それは多くの人に見てもらうための便宜であり、観る側としてはケースのなかのものを自分が使うことを想像しながら眺めることで、発見や感じることがあるものだ。
この企画展は芸術新潮の6月号にも紹介されており、そこでは白磁の長頸瓶や文房具の小物類が取り上げられている。その記事にも書かれているが、展示されている陶磁品から受ける印象は「心地よい揺らぎ」である。私は自ら正真正銘の下手物陶器を製作しているので、同じ下手物仲間が美術館という上品な場所に納まっていると、我がことのように嬉しい、ということは考えない。おそらく作り手は完成度の高さを目指して作ったのだろうが、結果として微妙に中心がずれてしまったり歪んでしまったのだろう。普段使いのものならば、多少歪みがあっても使用に差し支えはない。むしろ、歪みがあったほうが使いやすいというようなこともあったかもしれない。そうして生活のなかに溶け込んだ道具というのは、年季が入って力強さとか貫禄のようなものを得るのかもしれない。言い換えれば、そうした力強さの源は、小さな故障を気にせずに使うおおらかさではないだろうか。
さらに言うなら、道具の細かな歪みを気にしないのは、使い手である人間の身体が歪んでいるからではないか。我々の身体はほぼ対称だが厳密に対称ではないのは誰もが経験として知っていることだ。自分自身が不完全なのだから、相手に対しても多少のことは大目に見るという公平さが、自分と相手とを総合したときの収まりの良さとして感じられる、というのは言いすぎだろうか。あるいはそのような理屈っぽいことではなしに、自分の歪みと相手の歪みとが共鳴する心地よさがある、というようなことではないだろうか。
ほかに考えたのは、例えば西洋の文化というのは、細部を完成させ、完成された細部を積み上げることで全体を構成し、その完成された全体が意味を成すというような造りになっているように思う。都市も建物も家具も道具も、計算された幾何学模様のような構造だ。その幾何学の秩序こそが文明であり、その秩序の間尺に合わないことは力づくで合わせようとする。また、そうすることが正義なのである。西洋の道具類も建物も都市も国家も、社会も自然との向かい合い方も、計算可能性や説明可能性ということが基礎にあり、その論理では受け止めることができないことを宗教によってまとめているように感じられる。たいへん大雑把な認識の仕方であることは承知しているが、敢えて自分自身の頭を整理するという意味も含めてまとめている。中国大陸の文化もそういう意味では西洋的であるように思う。それに対して私が属する文化圏では、自分の身体感覚を基礎にしており、それはそれとしての論理もあれば構造もあるのだが細かいことは放っておく、というような姿勢があるように思うのである。健康であれば、身体感覚を基礎にする限りは、多少の細かな問題があっても生活は何事もなく進行する。ズレや歪みは、その何事も無く物事が進行していく力強さを強調しているようにすら見えるのである。
この企画展は芸術新潮の6月号にも紹介されており、そこでは白磁の長頸瓶や文房具の小物類が取り上げられている。その記事にも書かれているが、展示されている陶磁品から受ける印象は「心地よい揺らぎ」である。私は自ら正真正銘の下手物陶器を製作しているので、同じ下手物仲間が美術館という上品な場所に納まっていると、我がことのように嬉しい、ということは考えない。おそらく作り手は完成度の高さを目指して作ったのだろうが、結果として微妙に中心がずれてしまったり歪んでしまったのだろう。普段使いのものならば、多少歪みがあっても使用に差し支えはない。むしろ、歪みがあったほうが使いやすいというようなこともあったかもしれない。そうして生活のなかに溶け込んだ道具というのは、年季が入って力強さとか貫禄のようなものを得るのかもしれない。言い換えれば、そうした力強さの源は、小さな故障を気にせずに使うおおらかさではないだろうか。
さらに言うなら、道具の細かな歪みを気にしないのは、使い手である人間の身体が歪んでいるからではないか。我々の身体はほぼ対称だが厳密に対称ではないのは誰もが経験として知っていることだ。自分自身が不完全なのだから、相手に対しても多少のことは大目に見るという公平さが、自分と相手とを総合したときの収まりの良さとして感じられる、というのは言いすぎだろうか。あるいはそのような理屈っぽいことではなしに、自分の歪みと相手の歪みとが共鳴する心地よさがある、というようなことではないだろうか。
ほかに考えたのは、例えば西洋の文化というのは、細部を完成させ、完成された細部を積み上げることで全体を構成し、その完成された全体が意味を成すというような造りになっているように思う。都市も建物も家具も道具も、計算された幾何学模様のような構造だ。その幾何学の秩序こそが文明であり、その秩序の間尺に合わないことは力づくで合わせようとする。また、そうすることが正義なのである。西洋の道具類も建物も都市も国家も、社会も自然との向かい合い方も、計算可能性や説明可能性ということが基礎にあり、その論理では受け止めることができないことを宗教によってまとめているように感じられる。たいへん大雑把な認識の仕方であることは承知しているが、敢えて自分自身の頭を整理するという意味も含めてまとめている。中国大陸の文化もそういう意味では西洋的であるように思う。それに対して私が属する文化圏では、自分の身体感覚を基礎にしており、それはそれとしての論理もあれば構造もあるのだが細かいことは放っておく、というような姿勢があるように思うのである。健康であれば、身体感覚を基礎にする限りは、多少の細かな問題があっても生活は何事もなく進行する。ズレや歪みは、その何事も無く物事が進行していく力強さを強調しているようにすら見えるのである。