熊本熊的日常

日常生活についての雑記

顔が語る

2012年08月26日 | Weblog

子供と一緒にBunkamuraでレーピン展を観てきた。これまであまり観たことのない作家だったので、どのような作品が並んでいるのか素朴に興味があった。「船曳き」は有名だが、同じモチーフでたくさんの作品を描いたとは知らなかった。他の肖像画にも通じることだが、人の顔に強い興味を持っていた人のように感じた。もちろん、顔は人そのものの表象でもあるわけで、そこに興味を抱かない人などいないだろうが、表情の選択というか造りが並の肖像画とは違うように見えるのである。なにがどう違うということは説明できない。ただ、その一瞬の表情の向こう側に、その人の人となりとか感情といったものが透けて見えるような気分になる。

以前、何かで写真よりも画のほうが写実的だ、というようなことを読んだ記憶がある。例えば、事件の犯人を探す際に、指名手配写真というものは当然に配布されるのだが、同時に似顔絵が公表されることも少なくない。犯人逮捕のきっかけになるのは写真よりも似顔絵によって得た証言などに拠ることのほうが多いそうだ。それは、写真が文字通り一瞬のものであって、似顔絵には、本人の顔を見た人の印象が盛り込まれることになり、それが顔だけでなくその人全体の雰囲気をも醸し出すから似顔絵のほうが当事者の表現としては「写実的」なのだ、というのである。

肖像画には、作家の家族のような、それこそ描く対象の内面まで作家が了解しているものもあれば、顧客の求めに応じて機械的に描くものもあるだろう。レーピンの場合は、必ずしも交際の無い相手であっても、そこに対象の精神性を見出そうとする姿勢があるように感じられるのである。それこそ「船曳き」も、人間の集団を風景のように描いているものもあるが、集団のひとりひとりの個性を描き分けようとしているかのようなものもある。歴史上の人物を描くにしても、そこに歴史を感じさせない。無名の人も、知人のように感じられる。そんな人物像が表現されているように見えるのである。

ふと、自分の顔を考える。既にそこにあるものは今更どうしようもないじゃないなかと思う。しかし、機嫌良い時間を重ねればそういう表情が定着し、それが人格にまで及ぶのではないかとさえ思う。逆もまた真。人のセルフイメージと周囲の人々による人物評は違うのが当たり前だが、表情やしぐさといった眼に見えるものを意識しなければ、結局は自分の幻想の奥深くに埋没して世界と上手く交わることができない、ということなのかもしれない。