熊本熊的日常

日常生活についての雑記

落語会

2010年02月06日 | Weblog
厚生年金会館で開催された小朝・楽太郎・昇太の三人会を聴いてきた。ネタは小朝が「牡丹燈篭」から「お札はがし」、楽太郎は「ずっこけ」、昇太は「つぼ算」だ。

落語は好きだが、趣味と言えるほど聴くわけではない。それでも小朝は昨年1月からこれまでの間で今日を含めて4回聴いたが3回が「お札はがし」で、昇太は2回で前回と同じ「つぼ算」。落語家も売れて仕事が増えれば落語だけをしているわけでもないので、掛けるネタは自ずと限られるのは理解できる。それにしても、4回聴いて3回同じというのはどうなのだろうかと、ちょっと引っ掛かった。

そもそも落語会を開くとき、ネタはどのように決めるのだろうか。滑稽物、人情物、怪談と、いろいろ種類があるものだし、自分で創作することもあるだろう。手許に矢野誠一が書いた「新版 落語手帖」があるが、ここに収められているのが274席の古典落語である。なかには「牡丹燈篭」のようにひとつの噺をいくつかに分けて口演されるのが一般的なものもあるので、実際の噺はもっと多い。勿論、古典の場合は時代背景が現在とは大きく異なるので、そのままでは使えないものも少なくない。ただ、落語とか芝居というのは、人間の精神活動を表現するもので、その道具立てとして噺の舞台があるので、枝葉末節にこだわる必要はあまり無いように思う。それでも、今そのまま口演するのは難しい噺が多いのは確かだろう。そうしたものを除いたとしても、100以上はある噺からどれを選んで自分の持ちネタとし、さらにそこから何を基準にその日の演目を選ぶのか、ということは大いに好奇心をそそられるところである。

毎回同じ噺を聴くことになったからといって、それが不満だというのではない。何度聴いても「またこれか」と思うよりは「おっ、でた」と思うものだし、またそう思わせなければ芸とは言えまい。ただ、「今日は何かな」と楽しみにしながら同じ落語家の高座に何度も足を運ぶ客も少なくないだろうし、そういう人に対してはどのように考えているのだろうかと、少し気になるところがあるということだ。

このところ暇さえあれば枝雀のDVDを観ている。去年の春頃に「枝雀十八番」というDVD9枚組のボックスを買った。他に特典CDとDVDが付いているが、9枚のDVDには各2席ずつ収められている。ふとした瞬間に頭の中にお気に入りの音楽が流れてきたりするものだが、私の場合は噺の一場面がふと脳裏に浮かぶ。それを反芻して楽しみ、その反芻が家に帰り着いたときに残っていれば、そこでDVDを取り出して観るというようなことを、ここ最近は続けている。このボックスに収められている噺はどれも大好きなのだが、今、この瞬間は「高津の富」とか「寝床」が気に入っていて、頻繁に観ている。今日は落語会で昇太の「つぼ算」を聴いたので、帰ってから早速、枝雀の「つぼ算」を観た。何度観ても飽きるということがない。

ちなみに、今日の落語会は出だしが林家ひろ木で、この噺家は二つ目なので、形の上では前座だが、実質的には前座無しということだ。座布団を整えたりめくりをめくったりしていたのは前座の春風亭ぽっぽ。3人会で開演からはねるまで3時間と、なかなか濃密な会だった。

雪岱の時代

2010年02月04日 | Weblog
出勤前に遠回りをして埼玉県立近代美術館で開催中の雪岱展を観てきた。1月7日付のこのブログ「拠って立つところ」で鏑木清方展のことを書いたが、小村雪岱は清方とともに泉鏡花の本の装丁を担当している。意図したわけではないが、柴田是真から清方へ、そしてこの雪岱へと、人物のつながりを辿るように作品展を観てきた。ただ、是真や清方とは違って、雪岱は資生堂の社員という、いわばサラリーマンの経験もある。勿論、私のような純粋無能給与生活者ではなく、画家としての経歴を積んだ上で、資生堂から招聘される形でデザイナーとして入社している。組織人であるから今となっては彼の作品として特定可能なものは少ないのだが、それでも香水の硝子瓶の瓶形は彼のデザインであることがわかっているのだそうで、その「菊」という香水が資生堂のミュージアムグッズとして販売されているのだそうだ。彼の仕事としては、他に書籍の装幀や挿絵、舞台装置のデザイン、など幅広く、とても一言では表現できない多種多彩な作品を生み出している。

とりわけ泉鏡花の作品において、「日本橋」以降の殆どの作品の装幀を雪岱が担当している。それ以前は鏑木清方や鰭崎英朋らが手がけていた。雪岱と鏡花の出会いについては芸術新潮の最新号でも触れられているが、雪岱という雅号は鏡花がつけたものだ。それほどふたりの関係は特別なものなのである。「日本橋」以前に雪岱は書籍の装幀をしたことがない。鏡花が何を思って雪岱に自分の作品の装幀を依頼したのか、今となってはわからないが、文筆家にとって、自分の作品の装幀や挿絵を任せるというのはよほど強い信頼感がなければできないことだろう。また未経験の仕事なのに、その信頼にきっちりと応えて見せるというのも並大抵のことではないだろう。展示会場には「日本橋」のほかにも数多くの書籍が展示されているが、事前に予備知識を持たずに「日本橋」が処女作であることを言い当てるのは困難だろう。その完成度の高さに、雪岱という人の人となりとか、雪岱と鏡花との関係という、言わば行間の諸々が透けて見えるようである。

それにしても、昔の書籍のなんと豪華なことか。おそらく、本というものが特定の階層のためのものであり、誰もが当たり前のように本を買って読むというようなことはなかったのだろう。だからこそ、これほどまでに意匠を凝らした装幀を施し、おそらく愛蔵されることを前提に作られたのだろう。今の書籍は、余程の豪華本でもない限り、誰でも買うことができる。それどころか、多くの人に買ってもらわねば、出版社も作者も成りゆかない。だから、本は内容で売るものであって、装幀は味気ないものばかりである。その内容すら、どれほどの厚みがあるのか疑問のあるものばかりである。活字離れ、などと言われる時勢だが、本を読まないほうに問題があるのか、読ませるようなものを提供できない出版側に問題があるのか一概には言えたものではない。勿論、それなりの内容のものに、これほどの装幀を施せば、それなりの価格にしないと商売にならないことは理解できる。そして、そうしたものの需要が商業ベースに乗るほどにはなさそうなことも想像できる。それにしても、手許に置いておくだけで嬉しくなるような書籍を作ってみようという人はいないものなのだろうか。

書籍の装飾は装幀だけではない。挿絵も忘れてはいけない。最近の本には挿絵の無いもののほうが圧倒的に多い。下手に挿絵を入れると文章のほうが霞んでしまうからだろうか。これほど贅沢な書籍が流通した時代は、国民経済という観点からは現在とは比べ物にならないほど貧しい時代で、世界で2番目の、そしてもうすぐ3番目になるであろう、経済力を有する現代の精神生活が、その貧しかった時代よりも貧困に見えるのは何故だろう。

盗人猛々しく

2010年02月03日 | Weblog
時折、出身大学から寄付の依頼が郵送されてくる。卒業生の多くがそうした依頼を無視しているらしく、何度もくる。先日はついにメールがきて、我が学年としての目標額にあと一歩及ばないので是非協力を、とのことだった。その目標額というのは思いのほか地味な金額で、自分が寄付に応じていないのを棚に上げて、その程度の額すら集まらないのかと少々驚いた。

確かに自分たちの年代は寄付どころの状況ではない人が多いかもしれない。教育費が嵩むし、住宅ローンの返済だってあるだろうし、人によっては介護の負担もばかにならないだろう。そうした特殊事情がなくても、我々の年齢は雇用不安が付いて回る年代で、日々の生活も自然に消極的になってしまうものだ。地味な金額とはいえ、ひとりあたり数万円という不測の出費は気軽に応じることのできるものではない、という人が少なくないような気がする。

その上、大学の保有有価証券が多額の含み損を抱えた、などという報道に接するといよいよ寄付をする気が削がれてしまう。一部の報道では、大学関係者の発言として「含み損は損ではない」というようなものが伝えられた。確かに、「含み」という言葉の有無で、その内容は全く違ったものになる。しかし、運用の経験があれば感覚的に了解できるとは思うが、ひとたび抱えた「含み損」を解消するというのは容易なことではない。まして、今はかつてのような経済成長は期待できないのである。海外資産に投資すれば外国為替のリスクがついて回る。実際に外貨預金やFXをやってみるとよくわかるが、外貨のリスクというのは実感としては博打のようなものである。「含み損は損ではない」とメディアを相手に発言するからには「含み」を解消する目処が立っているのだろう。それにしても、集めた金をどのように運用し、どのように使うのか、ということについて、寄付金を集めることに勝るとも劣らないほどの熱心さで説明するのが、金を受け取る側の礼儀というものではないのだろうか。まして教育機関なのだから、大学当局が人の道というものの手本を示すくらいでなければならないと思う。もらったらものは自分たちの勝手、と言われればその通りだが、それがいつまでも通用するとは考えないほうがよいだろう。最近のトヨタやタイガー・ウッズのように、信用を築きあげるのは長い年月を要するが、それを崩壊させるのはあっという間のことなのである。

ところで寄付のほうだが、それで若い人たちの教育に多少なりとも役立つならばと思い、ささやかな金額ではあるが、協力させていただいた。

NHKの受信料

2010年02月02日 | Weblog
3ヶ月に1回くらいの割合でNHKの受信料の徴収人がやってくる。もっと頻繁に来ているのかもしれないが、平日の昼間は常時在宅しているわけではないので、どのくらいの頻度で訪ねてくるのか正確なところはわからない。毎回、「うちはテレビが無いんですけど」と言ってお引取り頂いている。

NHKは広告収入が無いので、この受信料が主たる収入となる。しかし、その徴収のためにどれほどの費用をかけているのだろうか。人海戦術で受信している人から漏れなく収入を得るというのは効率が悪いように思うのだが、どうなのだろう。放送を受信すると受信した機器を識別して自動的に課金する、というようなことは技術的には可能なような気がするのだが、どうなのだろう?あるいは、国営放送として税金のように半ば強制的に受信料、いや受信税を徴税するという途だってないわけではないだろう。

近頃は私のようにテレビを持たない世帯が増えているのだそうだ。NHKの受信料はテレビがなくとも、携帯電話のワンセグ機能やパソコンに取り付けたチューナーによる受信に対しても課金される。もちろん、なかにはそういうもので番組を視聴する人もいるだろうが、そこまでして番組をみたければテレビを購入するのではないだろうか。受信料節約のためにテレビは持たない、という世帯は割合としては限界的だろう。

テレビを持たないというのは、テレビ放送を観る動機が乏しいということだろう。なぜ乏しいかといえば、面白くないからだ。内閣府の「消費動向調査」によれば、テレビの世帯普及率は2009年3月時点で99.4%である。テレビを一度も視聴したことがないという人は無視しうる程度に少ないということだ。私も含め、今テレビを保有していない人でもテレビ放送を視聴した経験が無いというのではないのである。観た結果として、いらない、と判断しているということだ。

受信料の徴収方法に変更を加えずに受信料収入を増加させようとすれば、結局は受信したいと思わせる放送コンテンツを持つことしか手段はないのだろう。極めて困難なことだが、狭き門より入れ、という言葉もある。

しあわせ爺さん

2010年02月01日 | Weblog
AERAに2度目の登場となった。今回も「幸せ度」の話だが、対象が40代男性正社員に限定されている。登場、と言っても、今回は取材を受けたわけではなく、自分が答えたアンケートが要約されて掲載されているだけだ。それにしても、そのうち幸福感についての記事には常連になるのではないかとの期待が高まりつつある。

今回の特集は40代サラリーマンを対象にした調査に関するものなので、登場している人たちは総じて視野狭窄に陥っているような感がないわけではない。一生懸命働くのは社会で生きる上で当然のことなのだが、会社に勤めるという状況が永遠に続くわけではない。にもかかわらず、思考の軸足が職場とか「会社の」仕事にある人が多いように感じられる。20代とかせいぜい30代前半ならそれでも違和感を覚えることはないのだが、40代というのは俗に「働き盛り」と呼ばれていて、そのことはとりもなおさず、その先に盛りが終わった状態が待ち受けているということなのである。組織において、年齢ばかり食っていて、何の役にも立たないのに、本人の意識はいつまでも「働き盛り」のまま、という人は掃いて捨てるほどいるのではないか。それを、おそらく承知の上で、自分はそうはならないとの思い込みというか、無意識の無認識というようなものがあるように思える。

もちろん、今を生きているのだから、目先のことを考えるのは必要だ。しかし、今の日本の社会で40代の給与生活者が考えなければならないのは、会社組織という生活の支えを失ったときにどうするかということだろう。単なる幻想にすぎない「やりがい」だの、「職場の人間関係」だの、いまさらどうでもよいのではないだろうか。

いま、ふと「アバウト・シュミット」という映画を思い出した。主人公のシュミット氏が長年勤務した保険会社を中間管理職としてのポストを最後に定年退職したとき、彼の後任者が取った行動や態度は、映画なので多少のデフォルメはあるだろうが、世間の眼というものを活写していると思う。ジャック・ニコルソンの作品は好きなものが多く、いろいろ観ているのだが、この作品は自分の中では秀作のひとつである。映画について語り始めると長くなるので、今日は語らない。