熊本熊的日常

日常生活についての雑記

見えることの向こう側にあるもの

2012年08月07日 | Weblog

『今和次郎 採集講義』からいくつか引用。

「当時の農民は実におっとり屋なのだけれども、昔から武士にいじめられていたために秘密主義が習慣になっていてなかなか正直にはものをいわなかった。それでも柳田先生はウソはウソとして聞きとり、その間にかんじんなことがらをちゃんと聞きだしているのだった。私は先生が一服するたびにズック袋からノートをとりだしスケッチをし、家の内外をみてまわるのである。
 民家を理解するためには、理屈抜きに、ひろい心でよくみることだ。彼らの作品、彼らのくふうをていねいにたくさん収集しているうちに、自給的な世界の造型技巧の学問はおのずから生まれてくる。こういう心境であるから、どうしても旅の間じゅうスケッチをしていることになる。ほんとうに描いてみたくなるようなものをみつけて無心にスケッチする。くわしく描いているといろいろ不思議なところ、疑問なところがでてくる。それを聞きだしたり、調べたりすることがそのまま研究、学問になる。(中略)いろいろなものを実際にみ、不思議だと感じたことを細かに注意して、そして、それからいろいろなことを考えると、研究という仕事になるのである。」(34頁)

「私はつくづく、自分はいま現在のこと、人々が働き、楽しみ、いろいろくふうをこらしているさまに興味をもつ性格だったのだと思う。だからこそ震災後の焼け跡に、つぎつぎと仮小屋がたてられ、人々が焼け落ちた過去のなかから新しい生活をたてなおす姿をみて、ほんとうに感動できたのだし、考現−−−いまを考え、未来をつくることの必要を痛感したのであったと思う。」(35頁)

「たぶん、描くほうが写真より正確なんですよ。描いた絵のほうが、写真よりはるかに情報量が多いんです。変な例えですけれども、犯罪者の似顔絵は、写真よりも絵のほうがはるかに発見率が高いそうです。写真というのは、その一瞬のイメージに過ぎないので、ちょっと変わったらわからなくなってしまいます。その点、似顔絵の方が意外と本質を捉えていて、例えば髪型を変えたり、ひげを生やしたりしても、似顔絵によって見抜かれるというケースがけっこう多いんです。絵に含まれ得る情報量の多さというのは、今和次郎はデザイナーですし、完璧にわかっていたでしょうね。得意だからということではなく、そちらのほうが優れていると思ってスケッチをしていたのだと思います。」(159頁 都築響一が「今和次郎は写真とスケッチのどちらも用いていますが、圧倒的にスケッチの比重が大きいのはどうしてだと思いますか?」という問いに答えて)

近頃、行き交う情報量はやたらに増えたけれども、見えるものしか見ない人もそれ以上に増えているような印象を受けることがある。他人様のことなのでどうでもよいのだが、そんなふうな姿勢で果たして楽しいのだろうかと素朴に疑問を覚える。

今和次郎 採集講義
今 和次郎
青幻舎

次は長崎

2012年08月06日 | Weblog

今年も広島の原爆忌を迎えた。毎年のことなので、原爆というよりも酷暑の風物詩のひとつとして記憶に刻まれてきた。ただ、今年が去年までと違うのは、実際に広島を訪れて、その風景を体験した上での8月6日であるということだ。今、広島の風景のなかで原爆の痕跡を留めるのは原爆ドームくらいのものだろう。それでも実際に見た経験があるのと無いのとでは感覚としては全く異なる。何がどう異なるか、というのは言葉では表現できない。広島を訪れたのだから、長崎も訪れないことには自分のなかに何か欠落した感が残ってしまう。それで、来月は長崎を訪れることに決めた。


目眩

2012年08月05日 | Weblog

昨日は昼と夜それぞれに初対面の人と食事をした上に、連日暑いということもあり、今日は日没とともに睡魔に襲われて中途半端に寝てしまった。11時過ぎに目が覚めて、やり残した家事をする。

一人暮らしに慣れてしまうと、今更新たな人間関係を意識的に構築するというのが億劫になる。今暮らしている部屋も、誰かが遊びに来てもいいようにテーブルと椅子を4脚揃えたはずなのだが、テーブルの半分には常時何かが置いてあり、部屋も書籍類が増えて本棚からはみ出し、4脚の椅子のうち少なくともひとつは引くことができない状態になりつつある。ひとりだと何をするのも何処へ出かけるのも勝手気ままで、これほどの贅沢があるだろうかと思っている。

そんな状況下で、知らない人と食事となると、いくら自分が選んだ馴染みのある店でも、あれこれ気を遣うし、とにかく精神を消耗する。やはり自分は家庭というものに適していないのではないかとの思いを強くしている。それでも、今月はこういうのが少なくともあと2回もある。なんだか目眩がしてきた。


天下無敵

2012年08月04日 | Weblog

夏は暑くてかなわない、と思うのだが、スーパーや八百屋の店頭で桃が並んでいるのを見ると、夏はいいなあと思う。中国のことわざで「桃李不言下自成蹊」というのがあり、桃や李は人格のある人のたとえに使われている。うまいたとえだなと感心する。また、中国では不老長寿を与える食べ物ともされているそうだ。不老長寿というのは迷惑なことだが、それほど力のある果実だと思われることに何の違和感もない。桃の花の花言葉に「天下無敵」というのがあるそうだ。なぜそうなのかは知らないが、少なくとも実の旨さは天下無敵だと思う。


普遍性

2012年08月03日 | Weblog

英国のBritish Film Instituteが発行する”Sight and Sound”という雑誌に映画関係者による10年に一度の映画評価の結果が発表されたそうだ。この結果の詳細は知らないが、BBCのニュースで報じられたものには846名の配給関係者、批評家、研究者による”Sight and Sound’s Top 10”の3位、これとは別に358人の映画監督による投票で決められる”Directors’ Top 10 Films”の1位に小津安二郎監督の『東京物語』が選ばれた。この作品は1953年公開で、既に60年近くを経ているが、今なお多くの人たちに支持されるということは、それだけ普遍性を持ったものを包含しているということだろう。投票のポイントとしては必ずしも作品内容だけではなく、撮影技術や映像としての美しさといったものも評価の対象になっているようだが、内容が無ければ技術など無意味なので、やはりそれだけのものがあると言えよう。この作品が描くのは家族というものの現実だ。映画や小説には、それがつくられた時代の価値観が色濃く現れており、古い作品が評価の割に面白くないと感じられる背景に、この価値観が制作当時とは変容してしまっていることがある。『東京物語』は、少なくとも今のところは、こうした価値観の変化を超えてなおも高い評価を得るに足る内容がある、つまりそこに描かれている家族というものの姿にリアリティがあるということだ。それはおそらく人に我がある限り変わらないのではないかと思う。

小津の作品はもう版権切れになっているらしく、今は安いDVDでいくらでも観ることができる。『東京物語』以外は、取り立てて面白いと思うものはないように思うのだが、全部を観たわけではないので、お勧めがある方は是非ご教示いただきたい。


選択基準

2012年08月02日 | Weblog

半導体に象徴される電子部品類が時代を追うごとに小さくなって、電気製品も小型化軽量化がとどまるところを知らないかのようだ。小さく軽くなって便利なことも多いのだが、かつては肉眼で観察することのできる部品で構成されていたものがマイクロだとかナノだとかという想像もつかないサイズになると、不具合が生じたときに修理をするということができなくなる。殆どの場合、それが利用者の不注意によるものではなく、機材そのものに由来するなら、製品丸ごと交換ということで対応がなされているし、取り外しのできるものは当然にその部材の交換が行われる。個人的には、パソコンのバッテリーがリコールされたことがある。また、先日引退させた携帯電話は購入時のものの初期不良で丸ごと交換されたものだ。新品になるというのは喜ぶべきことなのかもしれないが、問題解決の方法として交換以外に選択肢が無い、というのは要するに使い捨てということだ。電気製品の宣伝には今や当たり前のように「エコ」だの「節電」だのという文句が踊るが、修理不能使い捨て当然というようなものについて消費電力だけを取り出して云々するという姿勢がこの社会の何事かを雄弁に語っているような気がする。

ところで、このブログを書くのにも利用しているPCは昨年7月下旬に購入したMacBookだが、今年の5月に続いて今朝、ACアダプターからの通電ができなくなった。前回はコンセントやPCとのコネクタを付けたり外したりしているうちに回復できたのだが、今朝はそういう基本動作を一通り試しても回復できなかった。PC自体はバッテリーで駆動できているので、アップルのサイトからトラブルの状況を連絡した上で、ひとまず出勤し、昼休みにサポートへ電話をした。こちらのPCの状況はサポートサイトのなかのFAQの最初のほうに書かれていたので、比較的発生頻度の高いトラブルなのだろうが、そのトラブルシューティングの画面に飛ぶといきなりコールセンターの番号が出てくるので、あるいは持ち込み修理になる可能性もあるのかと覚悟はしていた。

電話をかけてみると、簡潔かつ明快な対応方法の説明があり、それでもだめなら持ち込みとのこと。以前、別件で機材を店舗に持ち込んで解決してもらった問題もあったが、過去にアップルのサポートで不満を感じたことがない。結果として20年近く前にLC575を購入して以来、途中IBMのThink Padを数年使った以外は、自分のメインの位置をこの会社の製品が占めている。

それでPCだが、持ち込み修理に出すことなく問題は解決した。


人間の本質

2012年08月01日 | Weblog

今日の日経の夕刊に小川洋子の記事が出ていた。「人間の本質に迫るには」と題して記者がインタビューをもとにまとめた記事のようだ。小川の作品は『妊娠カレンダー』と『博士の愛した数式』しか読んだことがないが、同世代ということもあり自然と気になる作家のひとりだ。職場の片隅に置かれていた新聞を何気なく手にして見つけた記事だが、つい引き込まれてしまった。その記事のなかから気になったところを抜き書きする。

「感情によって人間の心は入り乱れているけれど、実は感情を表現する言葉はものすごく力が弱い。「寂しい」と書いたら、「寂しい」より先のところには行き着けない。」

「境界線がはっきりしているところに立つと、そこで暮らした人が見えてくるような気がする。」

「制限されるほど頭の中は遠くに行ける。」

「肉体がとじ込められるほど意識は自由になって、人間の心の奥底まで表現できるのかもしれない。」

「登場人物と境遇の重なる部分があるから共感できる、そんなレベルの小説はつまらない。」

「ツイッターなどで「僕はひとりじゃないんだ」と日々確認することが、重要なことだと私は思わない。「僕はひとりきりだけど、この物語の登場人物だけが私をわかってくれる」。それぐらいの深い共感をもたらすものが文学であって欲しいと願っている。」

面白いと思う。ところで、そもそも人間に本質というものがあるのだろうか。本質、というものを想定できるほど人間は確かな存在なのだろうか。