昭和31年生まれの私は、小学校の3年生頃(ちょうど東京オリンピックの頃)から中学を卒業するまで、プラモデル少年でした。
※高校入学と同時にオートバイや部活など、普通の高校生らしいことに興味を奪われ、プラモデルからは離れてしまいました。
私がプラモデル少年だったころの記憶をたどってみます。
断定的な書き方をしますが、全ては「記憶の世界」なので、不正確なところがあるのはご容赦ください。
では、今から約48年前、昭和39年から話を始めます・・・・
私は小学校の3年生でしたが、4歳上の兄がT-34というソビエトの戦車のプラモデル(多分タミヤの1/35ではなかったかと思います)を完成させたのを見たのが私がプラモデル少年になるきっかけでした。
兄はその後、あまりのめり込むことも無く成長していきましたが、私はそこからどんどんとのめり込んでいきました。
当時「プラモデル」という言葉が既に広まっていて、街のおもちゃ屋さんでも売っていましたが、プラモデル屋さんと呼ばれる専門の店もでき始めていました。
当時私が住んでいたエリアでは六甲模型や芦屋模型なんていうお店が繁盛していました。
大抵「〇〇模型」という店名でプラモデルと鉄道模型(当時はHOゲージが主流)を売っていました。
この頃のプラモデルブームはかなりのもので、男子小学生の半分くらいは手を出していたと思います。
スケールモデルだけではなく、アニメやサンダーバードなどのTV物、更に「レーシングカーブーム」(いわゆる電動のスロットルレーシングカー)も巻き起こったりして、私が小学校を卒業する頃にかけて、大変な盛り上がりでした。
街のおもちゃ屋さんや電気屋さんなどの店先にそれ用レーシングコース(ベニヤ板製だったと思います)が作られて、自分のレーシングカーを持った子供達が集まっては、レースで盛り上がったり、正月になるとお年玉を握りしめた子供たちがプラモデル屋さんに駆けつける光景が当たり前でした。
当然のことながら私もサンダーバードやレーシングカー(私はフェラーリとアルファロメオ、フォードGTが好きでした)にも手を出しましたが、スケール物が中心でした。
当時は国産ではニチモやイマイ、フジミ、タミヤ、ハセガワが有名どころでしたが、スケール模型としての出来は、輸入品のモノグラムやレベルには敵いませんでした。
そう言えばスケールも国産は1/50とか1/100なんてのがありましたが、輸入物は1/72、1/48やノンスケールだったりして、全然統一できていませんでした。
最初の頃は色も塗らずに、ただセメダイン(当時のプラモデルはチューブ式のセメダイン接着剤が付いていたんです。)でペタペタ組み立てて満足していましたが、モデルアートという雑誌やプラモデル屋さんのショーケースに素晴らしい塗装がされた完成品が並ぶようになって「塗装する」ということを知り、挑戦し始めました。 多分中学校に上がる頃ではないかと思います。
それまで戦車(AFVなんて言葉は当時はありません)や車、TV物などいろんなキットを作っていたのが、飛行機に集中し始めたのもこの頃です。
当時、手に入る塗料と言えば「レベルカラー」というラッカー系の塗料だけでしたから、その頃からシンナーの臭いと闘いながらの製作でした。(これは今も変わっていません)
この頃になると国産メーカーの品質も大分良くなってきて、レベルなんかのキットと比べても見劣りしなくなっていましたが、モノグラムだけは、やはり憧れでした。
当時はレベルの1/72のファイターシリーズが1個100円~150円くらい、国産の1/48や1/50のキットが数百円だったはずですが、モノグラムのキットは何千円もしていて、子供の小遣いでは全く手が出ませんでした。(うどん屋できつねうどん1杯が100円くらいだったように思います)
この頃既にエアブラシ(当時はピースコンという製品が代名詞でした)も登場していましたが、子供に手の出せるものではありませんでしたので、もっぱら「筆塗り」です。 ムラなく塗るのがとても難しく苦労したのを憶えています。 迷彩のボカシなんかは、短く切った筆で、ドライブラシの要領で叩くように表現したことを憶えています。
レシプロ機から大戦機、複葉機までいろんなキットを作りましたし、途中で失敗して完成しないままに終わったキットも沢山ありました。
当然、この当時は全部「素組み」で、ディテールアップ、ウェザリングなんてことは言葉すら知りませんでした。
その頃の作品の写真が僅かですが残っていましたので、恥を忍んでご紹介します。
やがて、中学の半ば頃になるとモデルアートや雑誌の「丸」、「航空ファン」なんかを読み始めて(と言っても半分以上は立ち読みで、たまに買うだけでした)、だんだんと、「本物はどうなっているのか?」ということに拘り始め、分厚い脚カバーを塩ビの板で薄く作りなおしたり、筋彫りを彫り足したりなんてことにも挑戦し始めました。 いわゆる「ディテールアップ」に手を出し始めたわけです。
この頃になると、一部缶スプレーなんかも使い始めました。
この頃がプラモデル少年の絶頂期です。
その頃の写真も2枚だけ残っていました。 このゼロ戦やメッサーの基本色は多分、缶スプレーでの塗装です。
この後、中学卒業と共に、プラモデルに興味を失い、約7年間居たプラモデル少年は忽然と姿を消しました。
作りかけだったキットも含めて約20個ほどのストックも、1995年1月の阪神淡路大震災まで、実家の物置の木箱の中で約25年間の永い眠りにつくことになります。