万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

逆恨みは社会の病理

2008年07月16日 16時32分16秒 | 社会
新生銀サーバーに不正アクセス=「採用されず腹立った」-元派遣インド人を逮捕(時事通信) - goo ニュース
 正当な理由で断られたり、窘められたりしたことを根に持って、相手に危害を加える行為は、”逆恨み”と呼ばれています。最近のニュースには、この”逆恨みパターン”が急増しているように思うのです。

 本日も、企業に採用を断られたことに腹を立てて不正アクセスを働いた外国人のニュースが報じられていますが、理不尽な要求をしておきながら、それが受け入れられないと暴力で脅すモンスター・ペアレントや顧客の迷惑行為などもその事例と言えそうです。さらに、個人レベルにとどまらず、国家レベルでも、教科書の解説書への竹島問題の掲載に対して、過激な手段で威圧する韓国の態度も、”逆恨み”として捉えることができます。

 現実の社会は、自分を中心に回っているわけではありませんし、自分の希望通りにゆかないことはたくさんあります。法律には従わなくてはなりませんし、相手の選ぶ自由も尊重しなくてはなりません。気に入らないことに対して、いちいち暴力や破壊で応えるとなりますと、社会は当然立ち行かなくなります。

 そこで、社会を健全に保つためには、まずは、自己を律する訓練が必要、ということなります。誰でも、断られたり、叱られたりすることは、気持のよいものではありません。それでも、相手の言い分や叱った理由に正当性があれば、それを、受け入れる度量がいるのです。そうして、もう一方の断ったり、窘めたりする側も、相手が納得するように、自らの判断や行為が正当であることを示す誠実な態度が必要となりましょう。

 日本国のみならず、どうやら”逆恨み”は、世界大の現象となっているようです。その背景には、社会を支える仕組みや相手の立場を慮ることを忘れた、精神の貧困があるのかもしれません。”逆恨み”をなくすには、心を鍛えることから始めなくては、と思う今日この頃なのです。

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自らを崖っぷちに追い詰める韓国

2008年07月15日 15時57分00秒 | アジア
「日本は大事なもの失う」 韓国大使が外務次官に抗議(共同通信) - goo ニュース
 竹島を韓国の”固有の領土”と一方的に見做している韓国は、どうしても、日本国が、教科書の解説書に竹島の領有を記載することが許せないようです。しかしながら、韓国の過激な対応は、結果として自らを追い詰めることになるのではないでしょうか。

 何故ならば、韓国は、日本国が、どうしてもこれ以上は譲れない、という線まで踏み込む方法を採ったからです。韓国の要求は、まさしく、日本国に対して竹島の放棄を迫るものであり(竹島を放棄しなければ許さない!の態度)、その返答は、Noに決まっています。相手が絶対にNoと言うに決まっている要求を突きつけることは、それだけ、自らの選択肢を狭めることにもなるのです。要求を引き下げれば、逆に、自国の外交的敗北となりますし、その一方で、相手国に対して要求を無理やり通そうとすれば、過激な方法に頼らざるを得なくなります。

 駐日大使の召還もこの過激な手段の類に入りますが、もし、武力行使に及べば、国際的な非難を浴びるのは韓国です。もちろん、国連憲章でも、加盟国に対して平和的な解決を求めているのですから、韓国は、国際秩序を乱す暴力主義国家、あるいは、日本国に対する侵略国家と見なされることになりましょう。

 駐日韓国大使の「日本は大事なものを失う」という脅しともとれる発言が伝わっていますが、韓国は、頭を冷やしませんと、自分自身が崖っぷちに立つことに思い至っていないようです。日本国政府は、無益な争いを避けるべく、司法解決に向けて、早急に韓国政府を説得する必要があると思うのです。  

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司法解決に逃げ腰の韓国

2008年07月14日 17時52分33秒 | アジア
「竹島」中学校の解説書に明記、領土巡る表現は韓国に配慮(読売新聞) - goo ニュース
 領土問題の解決方法におけるベストは何か、と言いますと、それは、司法解決であるということに異論はないはずです。

 司法解決のメリットとは、第一に、国際裁判所に判断を委ねるため、双方に対して公平であることです。当事国同士の交渉となりますと、両国間の力関係が働いたり、過度な配慮?が働いたりするために、必ずしも法に照らした公平な決着がなされるとは限りません。

 第二に、紛争を平和裏に解決できることです。一方が実効支配をしている場合、司法解決以外の方法を用いるとしますと、武力による奪還しかなくなります。不法な実効支配や占領を終了させるには、裁判に訴える方法が最も平和的なのです。

 第三に、国民感情の側面から見ましても、第三者の立場にある国際裁判所の判決は、受け入れ易いというメリットがあります。これが、一方の外交的な敗北や軍事的な敗北となりますと、両国間の相手国に対する感情は相互に悪化することになりましょう。また、自国政府に対する批判も高まることになります。

 以上の観点から考えますと、竹島問題の解決には、司法解決に優る方法はありません。この点、韓国は、竹島の自国領有は疑い無いと主張しながら、国際司法裁判所への負託を回避するという、矛盾した態度をとっているのです。もし、それ程までに自信があるならば、当然に、日本国が提案している司法解決を受け入れるべきでしょう。常々、韓国は、自己の権利は強く主張しますが、権利は、国際法のルールを通してしか保障されないことをを自覚すべきではないか、と思うのです。

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竹島問題―政府の背任行為―

2008年07月13日 16時02分35秒 | アジア
竹島「領有」表現避ける、韓国に配慮…学習指導要領解説書(読売新聞) - goo ニュース
 国家の領土は誰のもの?という問いに対して、多くの人々は、”国民みんなのもの”、と答えるはずです。そうして、自国の領土を守るのは誰の役割?、という質問についても、大半の人々は、それは、政府の役割であると答えるはずです。

 竹島問題の記述に関し、文科省は、韓国に配慮し、自国の領土であることを明記しない方針を示したそうです。この行為、政府が、自国の領土を守るという義務を放棄したことになるではないか、と思うのです。もし、領土ではなく、政治家や官僚個人所有の不動産であるならば、それは個人の問題として片付けることができましょう。しかしながら、個人の所有物ではなく、国民からの”預かりもの”を、勝手に手放したり、権利主張を怠るとなりますと、これは、預けた国民に対する背任行為となるのではないでしょうか。

 法は、たとえ正当な権利であっても、その権利を守ろうとしない者を保護しはしません。教科書の解説書とはいえ、権利の主張を怠ると、それは、相手の権利を認めたと受け取られかねないのです。これでは、国際司法裁判所に竹島問題を付託したとしても、自国に不利な判決となりかねません。

 自国の領土を守ると同時に、法による国際秩序を維持するためにも、日本国政府は、竹島の領有権を、堂々と主張する義務があると思うのです。

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社会悪を引き出す組織を潰そう

2008年07月12日 16時11分20秒 | 社会
教員採用汚職「組織的」反論できない…大分県教育長が会見(読売新聞) - goo ニュース

 個人レベルでの事件であるならば、悪事を働いたその人に罪相応の罰を受けさせることによって、悪の芽は摘まれます。しかしながら、悪しき行為が組織の慣行となりますと、個人の問題としてもはや済まされません。

 組織の内部にあっては、悪しき行為が常態化しますと、感覚が麻痺し、罪の意識を感じなくなると言います。また、良心の痛みを感じながらも、制裁や仲間外れを恐れて、組織悪に染まってゆく人もいるかもしれません。しかも、それを糺そうとする勇気のある人は、巨大な組織を相手に孤立無援で闘わなくてはならなくなるのです。そうして、誰もが、自分や身内可愛さに見て見ぬふりをしますと、その被害は、自分たちの組織を越え、負のスパイラルとなって、他の罪のない人々や社会全体に及んでしまうのです。組織が人々の心の中に悪を育て、それを引き出しているのです。

 大分県の教員採用汚職も、組織が社会悪を引き出した典型例です。社会の模範となるべき教育者が、不公正な手段で教職を売買していたのですから、腐敗もここに極まれりです。汚職は大分県に限ったことではないとの指摘もあり、最近の教員や公務員のレベル低下は、この組織悪に原因があるとも考えられます。ここまで実態が明らかになってきたのですから、すべきことは決まっています。社会悪を引き出す組織は、潰さなければならないのです。と同時に、教員や公務員の採用制度を、より透明性のある仕組みに変えてゆく必要もあります。

 もしかしますと、日本国の教育再生の第一歩とは、公平性と公正性を旨とした、教員採用制度の改革から始まるのかもしれません。

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国連頼りではサミットの自己否定

2008年07月11日 13時34分04秒 | 国際政治
「国連での交渉に弾み」 首相、排出削減など成果強調 洞爺湖サミット(産経新聞) - goo ニュース
 1975年、第一次石油ショック未だ冷めやらぬ頃、第一回サミットは、フランスのジスカール・デスタン大統領の提唱の下で、パリ近郊で開催されました。先進国首脳が集まって討議し、直面する国際問題の解決を図るというこのスタイルは、今日まで継承されいます。

 ところで、70年代におけるサミット開設の背景には、冷戦下にあり、かつ、国連が大所帯であったことから、より実行力を持つ組織の設置が求められたという事情がありました。つまり、サミットは、その出発点において、現実的な問題解決のための機関として構想されたのです。

 しかしながら、福田総理の発言のように、国連に問題解決の手綱を預けるとなりますと、サミットの存在そのものの否定、あるいは、格下げに繋がるのではないか、と思うのです。もし、国連の方が合意に達し易いであるならば、わざわざ大仰にサミットを開催する必要性はありませんし、国連の準備機関として位置付けるにしても、もはや独自の存在意義を見いだせなくなります。

 問題解決能力を失ったサミットは、お飾りにしか過ぎなくなり、形骸化するとなりますと、緊急性を要する国際問題は、一体、誰が、どのように解決するというのでしょうか。

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移民1000万人で日本は崩壊

2008年07月10日 16時34分52秒 | 日本政治
移民1000万人構想 「職場奪われる」 与謝野氏が批判(産経新聞) - goo ニュース
 日本国民は、「移民1000万人構想」を望んでいるのでしょうか。よくよくこの構想をシミュレーションしてみますと、どうやら失敗しそうなのです。

 第一に、新自由主義者である中川秀直氏が言い出したことにしては、市場のメカニズムを無視しています。移民受け入れの最大の理由は、少子高齢化による労働力の不足であるようですが、将来における雇用の変動は正確に予測することはできません。今後、技術革新や合理化によって、労働力の省力化が起きる可能性もあるのですから、1000万人の移民は、そのまま失業者になるかもしれませんし、あるいは、与謝野氏の述べるように、日本人の1000万人が職を失うかもしれません。

 第二に、資源に乏しく、食糧自給率の低い日本国が、大量の移民を受け入れることは危険です。しかも、昨今の資源高や食糧価格の上昇傾向が今後も続くとすれば、日本国の景気は後退せざるを得ません。つまり、労働力不足どころか、自国民の雇用の喪失こそ心配しなくてはならなくなるのです。現在でも、ニートや派遣の問題もありますし、失業率も0%ではありません(労働力不足の根拠はどこに?)。

 第三に、少子高齢化による高齢者問題は、公的年金制度の改革などによって解決することも可能です。移民受け入れだけが、唯一の問題解決の手段ではなく、むしろ、移民に高齢者を扶養させようという考え方は、身勝手とも言えます。

 第四に、メリットのみを強調し、移民受け入れのコストを無視していることです。移民の人々の社会保障、子弟の教育、就業条件などは、日本人と同じにしませんと、差別的待遇として、批判を浴びることになりましょう。

 最後に、根本的な問題として、たとえ、1000万人の移民を受け入れることで、日本国が現在の経済力を維持したとしても、別の国になってしまったら意味がないのではないか、ということです。移民の社会統合が極めて難しいのは、ヨーロッパ諸国で実証済みであり、現在では、失敗策として認識されています。長野の聖火リレーで見せた中国人の人々の動員も、この懸念を裏付けています。

 文化や慣習の異なる1000万人の移民が狭い国土の日本国に押し寄せた結果、日本社会に分裂がおこり、民族間の緊張を孕むようになったとしましたら、それこそ、日本人の不幸の始まりです。多文化共生の言葉はきれいですが、実際には、細分化された文化の単なる寄せ集めとなり、自国の伝統文化さえ守れなくなるかもしれないのですから。

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北方領土問題は第二次世界大戦の総決算

2008年07月09日 16時10分47秒 | 国際政治
日露首脳、北方領土交渉の加速で一致(読売新聞) - goo ニュース
 多大な犠牲を払った第二次世界大戦を、人類にとって意味あるものとするためには、北方領土問題は、”法と正義”に適った方法で解決されなくてはなりません。もし、ロシアによる領土割譲は認めることがあれば、戦争の勝敗によって領土が切り貼りされる時代に逆戻りしてしまうからです。

 ナチスのポーランド侵攻に加担したソ連が、連合国の不拡大方針に反する行動をとり続けたことは周知の事実です。この点において、連合国側は、身内において”侵略国家”を囲ったのであり、冷戦構造が崩壊した今日において、真に取り組まねばならない課題とは、旧共産主義国の行為をも含めた第二次世界大戦の総決算ではないか、と思うのです。そうして、この総決算の重要な要の一つとなるのが、北方領土の解決なのです。

 武力による領土の一方的な併合を”侵略”とみなす国際規範が成立した今日にあって、ロシアの分が悪いことは明らかです。EUの欧州議会でも、日本の主張を支持する決議が採択されています。しかしながら、日本国の現政権は、国際社会の原則を守るために最大限の努力を払うよりも、安易な妥協を目指す傾向にあります。

 日本国が譲れるのは、ロシアが北方領土を返還する時期のみであり、領土そのものの割譲は認めてはならないと思うのです。返還の時期は、たとえ100年後であっても、日本国は、その日を忍耐強く待ち続けるべきと言えましょう。それは、日本国のためでもあり、そうして、法が支配する国際社会を築くためでもあるのです。

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洞爺湖サミット―拡大と深化は両立しない?―

2008年07月08日 15時57分33秒 | 国際政治
参加国もテーマも多過ぎ=独紙が洞爺湖サミット批判(時事通信) - goo ニュース
 ”拡大と深化は両立しない”これは、EUにおいて、加盟国の拡大と機構改革を同時に追求することが難しいことを表現する際に、しばしば用いられてきた言葉です。サミットの現状を観察しますに、ここでもまた、EUと同じ問題が立ちはだかっているように思えるのです。

 グローバルなレベルで解決しなければならない喫緊の問題が増えるにつれ、誰もが、サミットのメンバーは拡大した方がよい、と考えるものです。近年では、インドや中国といった新興諸国の経済成長著しく、これらの諸国を抜きにして問題の解決を図ることは、確かに無理な状況にもなっています。しかしながら、メンバーを増やしたところで、現実的な諸問題に対する合意が簡単に成立するのか、ということなりますと、これもまた、否定的な見解を示さざるを得ません。メンバーの増加と合意の形成は、一般的には反比例するからです。

 共産主義国家である中国に至っては、政治的な価値さえ共有しておらず、もし当国が正式なメンバーとして参加すれば、分裂要因はさらに増えることになります。最悪の場合には、何も決定できず、結局、サミット自体が形骸化してしまう可能性も否定できないのです。サミットに解決能力を持たせるためにはどうしたらよいのか、この問題こそ、サミット最大の問題なのかもしれません。

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チベット問題が炙り出す中国の自己矛盾

2008年07月07日 17時28分21秒 | 国際政治
中国主席、盧溝橋事件の日に来日 反日世論刺激も(朝日新聞) - goo ニュース
 日中戦争の発端となった盧溝橋事件は、70年以上を経た今日において、中国に対して重い課題を付きつけているように思われます。この重い課題とは、侵略の定義と自己矛盾という問題です。

 中国共産党は、建国以来、日中戦争は日本軍によって仕掛けられた侵略戦争であると説明し、盧溝橋事件も、関東軍による謀略と決め付けてきました。どちらが仕掛けたのか、という問題については、中国側の発砲や共産軍などの陰謀とする説もあり、今なお、両国間で見解の一致は見ていません(大杉一雄『日中戦争への道』講談社学術文庫、2007年など)。しかしながら、この”どちらが先に手を出したのか”、という問題はさて置くとしても、中国政府は、少なくとも、自国領土内における他国の軍事力の行使を以って、”侵略”の認定基準としていることは確かなようなのです。

 それでは、この侵略の基準を、中国は自らのチベット占領に適用することができるのでしょうか。チベットの占領に際して、人民解放軍が派兵されたことは明らかな事実ですので、日本国への侵略批判は、そのまま自国にブーメランの如くに返ってくるはずです。しかも、領域内における軍事力の行使に留まらず、中国政府は、チベットという国家そのものを奪い、自らの支配下に置いています。この行為は、日中戦争における日本国の行為よりも、さらに強い侵略性を伴っていたと言えましょう。

 果たして、中国は、チベット問題とどのように向き合うのでしょうか。中国が、自らの侵略性を自覚した時、どのような態度を示すかによって、人類の将来は大きく変わってくると思うのです。

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頑張った不合格者が救われない

2008年07月06日 13時54分20秒 | 社会
県教委元幹部、10人挙げ「合格」指示 教員採用汚職(朝日新聞) - goo ニュース
 ”教育者たる者、これだけは守るべし”、という道徳律の中で、まっ先に挙げられるのは、”すべての生徒さんに対して公平であること”です。生徒さんの先生に対する悪口の一番は、”えこ贔屓”ですし、不公平な態度をとる教員は、生徒さんからの信頼も失うものです。

 そうして、もうひとつ、教育者が守るべき態度とは、”生徒さんの個々の能力や実力をその通りに評価する”ということです。能力や資質には個人差がありますので、それに見合った評価をしませんと、これもまた、不公平になってしまうのです。

 教育の場では、均等平等と比例平等とを上手に組み合わせ、公平な”教室”を実現しなくてはならないのですが、大分県の教員採用をめぐる汚職事件を見てみますと、全く逆の状況が生じているようです。何故ならば、教員自らが、身内を贔屓し、実力が不足しているにもかかわらず、試験に合格させたのですから。

 これでは、一生懸命に頑張って、教員試験のための勉強をし、実力がありながら不合格となった受験者の方々が可哀想でなりません。もし、組織的な”つて”と”賄賂”がなくては採用されない、となりますと、誰も、教員試験を受けようとはしなくなり、延いては、教員の質も低下の一途を辿ることになりましょう。しかも、先に述べた道徳律を無視してきた側の人々が、人を教える立場に立つのですから、社会的害悪となること、この上ありません。

 組織的な不正に対しては厳しく対処し、公平な社会の仕組みをつくるよう、不断の努力を続けませんと、いつの間にか、日本の社会は、活力を失い沈滞し、腐敗してしまうのではないか、と心配になるのです。

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日本外交は無原則主義からの脱却を

2008年07月05日 15時58分19秒 | 日本政治
「行方不明の日本」英紙フィナンシャル・タイムズ サミット控え辛口批評(産経新聞) - goo ニュース

日本の影が薄くなった理由、それは、福田政権が、無原則な外交を繰り返していることにも原因がありそうです。無原則な外交とは、何の原則も持たず、国家としての戦略もなく、長期的な展望にも欠ける外交のことです。これは、”友好”を旗印に掲げた近隣諸国との全方位外交に通じるものであり、短期的な”友好”を演出しさえすれば、場当たり的な妥協がまかり通ってしまうのです。

 ところが、この場当たり外交ほど、後世に禍をもたらすものはありません。何故ならば、国際社会の秩序を支えている原則やルールさえ、無視されてしまうからです。例えば、主権平等の原則や国際法遵守の姿勢よりも、覇権国との一時的な妥協と合意を優先しますと、それは、将来において、さらなる覇権主義国への従属という結果を招くことになります。あくまでも、原則を守った上での合意を追及しませんと、長期的には、自国の立場をさらに悪化させてしまうかもしれません。しかも、そのマイナス影響は、自国を超え、原則やルールからの逸脱の悪しき前例として、国際秩序全体に及んでしまうのです。

 このように考えますと、日本国の21世紀の外交方針は、自ずと見えてきます。それは、国際社会の原則と国際の安全を守るために、覇権主義国や無法国家に対する強力な抑止力となることです。日本国は、第二次世界大戦において敗北はしましたが、この戦争を契機として、戦後、世界大に国民国家体系が成立したことも確かです。敗北を礎に、侵略行為や原則違反をものともしない国家に対して、主権平等、民族自決、侵略の否定といった数々の原則と、それらによって支えられている国際秩序を守ることこそ、これからの日本国が果たすべき務めなのではないか、と思うのです。

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支援だけでは解決しない食糧問題

2008年07月04日 14時03分41秒 | 国際政治
暮らしとエコロジーを考える“ゴミ捨て人生”にさようなら 10年後にエネルギー経済は一変する エコロジスト、レスター・ブラウン氏に聞く(日経ビジネスオンライン) - goo ニュース

 穀物価格が異常な値上がりを見せている中、日本国政府の途上国に対する食糧支援の表明を含めて、各国とも、補助金の給付といった財政的な手段で解決を図ろうとしているようです。しかしながら、長期的な観点から見ますと、こうした支援政策には、限界があるように思うのです。

 原因はともかくとして、地球温暖化や気候変動が農地や収穫量を減少させているとしますと、まずは、農地の保全と増産を目指すことが重要となります。EUは、既に減反政策の転換を表明していますが、日本国も、減反路線を見直し、国内の利用できる農地は最大限に活かすべきと言えましょう。また、品種改良や土壌改良に繋がる技術開発も増産のための重要な仕事となります。

 第2に、途上国に対しても、自給率を高めるように、農業技術を伝授したり、先端的な知識の普及に努めることも肝要です。少なくとも主食の自給率が高ければ、食糧不足の問題は解消されるはずです。

 第3に、言い尽くされた観はありますが、穀物市場や原油市場(肥料の高騰の原因・・・)における投機を規制することも必要となりそうです。金融市場のルールとしての規制が困難であるならば、課税を強化することも考えられます。

 第4に、言いだしにくいことなのですが、人口の増加を抑えるということも、食糧問題の解決手段となります。安い価格で大量に穀物を入手できた時代が去りつつある中で、人類が生き残るためには、人口爆発の問題も真剣に考える必要があります。

 以上に述べてきましたように、人類の生活環境を良好に保ち、かつ、食糧問題を解決するためには、人類は、無駄を省くことも含めて、まだまだ努力を続けていかなくてはならないのかもしれません。

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ソ連の負の遺産―連合国は不拡大主義を貫けるのか―

2008年07月03日 16時36分17秒 | 国際政治
ロシア大統領会見、領土「解決にチャンス」 路線修正も(朝日新聞) - goo ニュース
 第二次世界大戦にあって、連合国側は、枢軸国側を侵略国家とみなし、この大戦を、悪しき侵略国に対する正義の戦いと定義しました。この戦争観は、連合国側が相次いで発した大西洋憲章やカイロ宣言などに見ることができます。そうして、それを保障する行動原則として、”不拡大主義”が打ち出されることになったのです。

 不拡大主義とは、たとえ戦争に勝ったとしても、自らは、領土の拡張や領土割譲を求めない、という原則です。当然に、連合国側で戦ったソ連邦もまた、この原則に従うべきであったのでしょうが、北方領土の占領に見られるように、ソ連邦は、この原則を無視することになりました。ソ連にとっては、第二次世界大戦は、古典的な領土争奪戦に過ぎなかったようなのです。連合国の正義の戦いは、身内において、その根拠を崩されているのです。

 第二次世界大戦を正義の戦い、あるいは、少なくとも侵略を否定する戦いとして人類史に位置づけるためには、ソ連邦の領土拡張主義はあってはならず、これを認めますと、侵略戦争を”悪”とする今日の国際秩序の前提も崩壊してしまいます。ソ連邦からロシアに衣替えしても、この側面は変わりませんし、自らを連合国側と位置付ける中国もまた、チベット侵略という大罪を犯しています。果たして、ロシアは、そうして、中国は、連合国の一員として不拡大主義を貫けのでしょうか?両国の態度は、人類の行方にも大きくかかわっているのです。

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落書き事件に見る”懺悔の国”と”けじめの国”

2008年07月02日 16時24分27秒 | 社会
監督解任厳しさ指摘 伊紙が落書き問題で特集(共同通信) - goo ニュース
 フィレンツェの大聖堂に落書きをした野球部監督を解任したことに対し、舞台となったイタリアでは、行き過ぎた非情な処分との批判があるようです。日本国では、この処分を当然のことと受け取られていますので、両国の物事の捉え方には、相当の違いがあるようです。それでは、何故、同じ行為に対して、こうも両国での反応は違ってしまうのでしょうか。

 おそらく、その背景には、伝統的な宗教観や国民性があるようです。イタリアは、カトリックの総本山バチカンのおひざ元にあり、ヨーロッパの中でも、とりわけカトリック色の強い国です。カトリックの教会では、信者に対して”懺悔”を奨励し、神の前で自らの罪を正直に告白し、反省の態度を示した者にたいして、神は、許しを与えるという教えを説いています。教会に、懺悔室が設けられていることは、よく知られていることです。

 一方、日本国の場合には、罪を犯した者が取るべき態度は、潔く自らの身を処することです。”ハラキリ”で世界に知られる”切腹”も、この文脈で理解できるのであり、特に、当人が責任ある立場にあればあるほど、この要求が高くなるのです。イタリア式に、”本人も反省していることですので、許してあげましょう”ということになりますと、教育者なのに、けじめを付けていない、とか、手ぬるいとか、手厳しい批判を浴びてしまうのです。責任ある者は、罪を犯した場合、潔く自らを処する、これこそ、日本古来の美徳に他なりません。

 落書き事件から、両国の国民性や精神文化の違いが垣間見られ、興味深いところです。そうして、日本社会に、”けじめ”の文化が根付いていることを、改めて感じ入る出来事であったと言えるかもしれません。

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