万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

グローバリズムは日本国にとって‘無謀な戦争’では?

2020年07月16日 12時30分13秒 | 国際政治

 日本国は、第二次世界大戦において手痛い敗北を喫しています。同戦争への反省から、しばしば、‘勝てない戦争はしてはいけない’とする歴史の教訓としても語られています。対米開戦の前夜にあって総力戦研究所がシミュレーションを行い、およそ‘短期戦では一時的に優位な戦局を得るものの、長期戦では敗北する’とする‘必敗’の予測が報告されながら、真珠湾攻撃を以って戦いの火蓋を自ら切って落としたからです。戦争の大義は別としても(戦前の国際社会は植民地支配もあり、必ずしもフェアではない…)、当時の日米間の工業生産力を含む国力の差を冷静、かつ、客観的に分析すれば、‘無謀な戦争’であったと評されても致し方がない側面がありました。

 

 こうした経緯もあり、戦後の日本国にあっては、戦前の日本国の中枢部に対して向けられた視線は冷たく、とりわけマスメディアや左翼の論壇では‘愚かな戦争’を遂行したとして侮蔑する向きもありました。そして、経済優先路線を宣言した吉田ドクトリンもあって、日本国政府もまた、先の大戦は過ちとして捉える傾向にあったのです。しかしながら、経済を優先すれば、日本国の未来永劫にわたって安泰なのでしょうか。今日、中国がグローバリズムの波に乗って経済的に急成長を遂げるのみならず、軍事的脅威として立ち現れる中、経済優先路線もまた‘無謀な戦争’になりかねないリスクがあるように思えます。

 

 第二次世界大戦における日本国の敗因として挙げられるのは、情報収集能力や情報分析力の低さとされていますが、上述したように開戦時における予測は比較的正確であり、実際に、戦争が長期化したために敗戦を帰結しています。ですから、情報収集力や分析力の欠如の問題と言うよりも、報告書の提言を却下した当時の中枢部による判断の是非が問題となるのでしょうが、今日もまた、日本国政府がグローバル時代における日本国の勝利を夢見ているとしますと、過去の誤りを繰り返しとなるのかもしれません。

 

 何故ならば、グローバリズムとは、国家間ではないものの、世界規模において企業間競争が繰り広げられるという意味において、経済分野における‘世界大戦’の一種でもあるからです。日本国の政治家は、与党野党問わずに‘開国’を以って日本国発展のチャンスと主張し、労働市場を含めて積極的に日本市場を海外に開放すると共に、国境をできる限り低くするための自由化政策を推進しています。しかしながら、グローバル時代とは、規模の違いに拘わらず、全ての企業が競争の荒海に投げ出される世界です。政府の自国企業に対する保護機能は‘違反行為’と見なされる、いわば弱肉強食を是とする野獣的な世界なのです。

 

 グローバル市場において勝利条件を備えているのは、規模に優る企業であることは言うまでもありません。そしてそれは、ホームとなる国の人口規模が企業競争力を支えていることを意味するのです。つまり、グローバル時代において有利となるのは、現状では、中国企業、米国企業、そしてEU、否、EUを自らの‘庭’とするドイツ企業なのでしょうが、将来的には、人口増加が著しいインド、ブラジル、あるいは、ナイジェリアといった諸国の企業も台頭してくるかもしれません。そして、規模がものを言う世界では、日本国を含めた中小国家の企業が生き残ることは極めて難しくなります。自国の市場規模、すなわち、自国企業の国際競争力を考慮せずに市場を開放することは、柵で守られていた大人しい羊さんたちを巨体化した貪欲なオオカミに差し出すようなものなのです。政府もメディアも、グローバリズムへの参加は時代の必然的な流れの如くに喧伝し、その先に豊かな未来が待っているかのように語りますが、自国企業が置かれている状況を冷徹に分析すれば、‘無謀な戦争’に日本企業、並びに、日本国民を駆り立てているように見えるのです。

 

 真珠湾攻撃については、アメリカを第二次世界大戦に参加さえるための国際謀略であったとする説もあり、この説が正しければ、日本国は、戦争が始まる前から既に中枢部が国際勢力に取り込まれていたこととなります。そして、今日もまた、日本国政府や政界は、今般の‘世界大戦’において自国が‘必敗’となることを知っているのかもしれません。それでも戦前は、総力戦研究所が設置され、若手頭脳集団による忖度なき提言がなされただけ‘まし’であり、今日にあっては、日本国内にグローバリズムにおける企業や国民の将来予測を客観性に徹して分析する機関が設けられているのかどうかも怪しい限りなのです。この状態では、国家と企業が一体化して‘総力戦’を仕掛けてくる中国企業、並びに、その他規模に優るグローバル企業にかかっては、日本国の企業も国民もひとたまりもないのではないでしょうか。


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ベーシックインカムのモデルは‘パンとサーカス’では?

2020年07月15日 13時14分13秒 | 国際政治

 コロナ対策として全国民一律10万円給付策が実施されたこともあり、一定額の給付を制度の基盤とするベーシックの導入が改めて関心を集めているようです。同制度は、デジタル時代における近未来モデルのイメージを纏っているのですが、その実、同制度の原型は古代ローマに求められるのではないかと思うのです。

 

 古代ローマ歴史とは、7つの丘に囲まれた小さな都市国家が巧みな対外戦略でイタリア半島全域を支配下に置き、やがてガリア遠征やエジプト遠征等を経て周辺諸国を属州化して、地中海を内海とするような大帝国にまで発展した壮大なる領土拡張の過程として描くことができます。その一方で、経済に注目しますと、領土拡張は、必ずしも征服者側となる古代ローマ人を豊かにしたわけではありませんでした。何故ならば、属州から安価な穀物と奴隷が大量に流入してきたからです。とりわけ、ナイル河流域が大穀倉地帯となっていたエジプトの征服は、ローマ古来の経済の在り方を一変させてしまいました。

 

 朴訥にして勇猛果敢で知られた古代ローマ人とは、その多くは中小の農地を有する自作農民でもありました。しかしながら、属州から安価な穀物が流入するようになると、ローマの自作農民たちは価格競争に負け、経営が成り立たなくなります。そして、中小の自作農が農地を手放すのと並行するかのように、征服戦争によって増大した捕虜奴隷たちを使役する大農園が各地に出現するようになるのです。かくして、土地を失った農民たちは首都ローマに流れ込み、半ば浮浪者化するのですが、こうした状況に対処するために登場してきたのが、‘パンとサーカス’と称された皇帝による慰撫政策です。‘パン’とは、生きるに最低限必要な食料を無償で配ることを意味し、‘サーカス’とは、これらの人々の不満が爆発しないように、コロッセウムで見世物に興じさせるという政策です。

 

 ‘パンとサーカス’によって、かつての質実剛健さはすっかり消えてなくなり、一般の古代ローマ人は、享楽的な烏合の衆へと堕してゆきます。西ローマ帝国が滅びる頃には古代ローマ人そのものがいなくなり、蛮族とされたゲルマン人から西ローマ帝国を護ったのもゲルマン人傭兵という有様となるのです。いわば、大帝国への道は古代ローマ人の衰滅の道でもあったのです。

 

 こうした古代ローマの興亡史に照らしますと、現在の状況が極めて当時と似通っていることに気が付かされます。ローマ帝国を今日のグローバル化した企業にたとえますと、古代ローマの自作農は、産業の空洞化によって没落の危機にある自国企業、並びに、中間層として理解されます。中小国の企業はグローバル企業が労働コストの低い国で製造する安価な輸入品に押されて淘汰される運命を辿るかもしれず、また、国内にあっても、‘捕虜奴隷’ではないにせよ、安価な移民労働力によって職を失いかねないからです。最後に生き残るのは、古代ローマ帝国の大農園ならぬ、少数の大グローバル企業となるのかもしれません。

 

ベーシックインカムが、国民の大半が失業者となる状況を想定しているとしますと、その発想は、‘パンとサーカス’と同類と言わざるを得ません。生活を維持するに必要最低限の‘パン’とは、まさに‘ベーシックインカム’に他ならないのですから。そして、テレビ、ネット、並びに、スマートフォン等を覗きますと、そこには様々な娯楽が溢れています。中国では、新型コロナウイルスによる都市封鎖の期間にあって政府が娯楽番組を国民に配信したそうですが、仕事はなくとも娯楽には事欠かない世界が既に出現しているのです。‘サーカス’もまた、今日における国民の不満解消のための有効な手段なのです。

 

そもそも、凡そ全ての国民が職に就いている状態を常態と見なすならば、ベーシックインカム論が主張されるはずもありません。グローバル化の徹底、あるいは、AIの大幅な導入等によって無職の人々の占める割合が増えることを予測するからこそ、同制度の採用が有望な解決策として提唱されるのでしょう。しかしながら、その先に何が起こるのかは、古代ローマ帝国の歴史が語っています。人々は働くことの意義を失って惰性に流れ、やがては、産業全体の衰退をももたらすことになるのかもしれません。歴史に学ぶとすれば、ベーシックインカムという滅びの道を選ぶよりも、国民の多くが自らの職を以って生き生きと経済・社会活動に参加できるような、新たなシステムの構築に努めるべきではないかと思うのです。

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香港問題―奇妙な‘恥辱の歴史を晴らす論’

2020年07月14日 11時45分55秒 | 国際政治

 香港国家安全維持法の制定により、香港の民主主義は風前の灯となりつつあります。それでも民主派の予備選での投票者数は、当初想定していた17万人を遥かに上回る61万人を数え、香港市民の民主化への強い熱意を表す結果となりました。‘民主的体制か、それとも、一党独裁体制か’の選択肢を提示された場合、自由な選択が許されれば、殆どの人々が前者を選ぶことでしょう。

 

 ところで、中国による香港国家安全維持法については、アヘン戦争時の南京条約によるイギリスへの香港割譲を持ち出し、‘恥辱の歴史を晴らす(’お腹に残った弾丸‘を取り出す?)’ための行為であり、中国人の心情を理解すれば当然である、とする擁護論も聞かれます。しかしながら、この擁護論、どこか誤魔化しがあるように思えます。

 

 同擁護論に納得できない理由の一つは、香港は、領土としては既に1997年7月1日に中国に返還されているからです。仮に、今日なおも香港がイギリス領ということであれば、あるいは、中国の言い分に耳を傾ける人々も現れたかもしれません。しかしながら、既に返還によって‘恥辱の歴史’は晴らされているのですから、今に至って植民地支配を言い出すのは詭弁のように聞こえるのです。

 

しかも、中国は、香港を割譲はしても、西欧列強によって植民地化されたわけでもありません。強いて言えば、アヘン戦争の敗北により‘イギリスの対中貿易赤字解消のために清国全土がインド産アヘンの市場にさせられた’と言った方が事実に即しているかもしれません。仮に、南京条約によって中国がイギリスの‘植民地’とされていたならば、日清戦争もあり得なかったことでしょう(日清戦争の背後には、中国市場のさらなる門戸開放を求める国際勢力も潜んでいたのでは…)。通商権に制約を課せられたものの、清国は、内政の権限はおろか、外交権や軍事権等を失っていたわけではないのです。

 

 もっとも、香港返還は、50年間の「一国二制度」の維持という条件付きであった点を以って‘不十分な返還’と主張するかもしれません。しかしながら、仮に条件付き返還が不服であれば、条約法条約に基づいてその無効を国際司法の場に訴えるべきですし、国際法上の無効要件を欠く場合には、同条約に従ってイギリスとの合意を誠実に順守すべきです。50年が経過すれば、一先ずは‘完全なる返還’となるのですから、今日の北京政府による「一国二制度」潰しは正当化することはできないのです。

 

二つ目の理由は、中国の歴史を見ますと、異民族からの支配を受けた期間が比較的長い点にあります。中国は、4千年とも称する’偉大なる歴史‘を誇りますが、その実、隋、唐、元、清等々の歴代中華帝国はいずれも異民族の征服によって建国されており、これ程長期にわたって異民族王朝が居座った国も珍しいのかもしれません。香港を割譲した清国も満州人が支配する帝国でしたので、異民族が異民族に領土を割譲した形となるのです。また、見方によりましては、現在の共産党による支配もまた、外来のイデオロギーを以って人民を支配しているのですから、異民族支配の’変種‘であるのかもしれません。

 

第3の理由として挙げられるのは、‘中国人の心情を汲むように’とする要求が一方的、かつ、傲慢である点です。それでは、‘中国人’は、自由を失う危機に直面している香港の人々の心情を汲んでいるのでしょうか。あるいは、中国からジェノサイドを受けているチベットやウイグルの人々の心情に思い至ったことはあるのでしょうか。‘恥辱の歴史’の鬱憤を晴らすとする主張が、国際法違反や人権弾圧を正当化できるならば、過去の戦争において領土を失った国や征服された国、あるいは、植民地支配を受けた全ての諸国が同様の行為を正当化できることとなりましょう(過去に‘恥辱の歴史’を持たない国は殆ど存在しないのでは…)。長い歴史を見れば、中国もまた(もっとも、この‘中国’にも異民族の帝国も含まれますが…)、他の諸国に対して恥辱を与えてきたことを忘れていますし、感情論がまかり通れば、国際法秩序は脆くも崩壊してしまいます。

 

以上の理由から見えてくることは、真に北京政府が恐れているのは、やはり、自由、民主主義、法の支配といった統治上の普遍的な諸価値であったのではないか、ということです。‘お腹の中の弾丸’とは、中国大陸における香港という土地ではなく、共産党一党独裁体制の体内にあって僅かに香港に宿っていた民主化という人々の希望であったのではないでしょうか(イギリス統治時代にも民主的制度はなく、この意味においても、今日の香港の民主化運動は香港市民の未来に向けた希望を現わしている…)。北京政府は、その希望を今や踏み潰そうとしているのです(香港市民のみならず全ての中国人の希望ででは…)。中国が恥辱の歴史を払拭することを欲するならば、それは、暴力と拝金主義が支配する現行の一党独裁体制ではなく、全ての中国国民が基本的な自由と権利を享受し、民主的で公平な国家体制を再構築するしかないのではないかと思うのです。

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国民国家体系を破壊する中国―新たなCOCOMが必要?

2020年07月13日 12時53分36秒 | 国際政治

 第二次世界大戦後にあって、日本国内では、国家の存在を否定した共産主義の影響も手伝って‘国家は悪者’と見なす傾向が強く、国際社会における国民国家体系に対しても否定的な見解が大勢を占めておりました。国家がなければ戦争もなく、平和な時代が訪れるとして…。とりわけ左翼の人々にとりましては、国家やそれによって構成される国民国家体系とは、平和実現のために‘倒すべき敵’、あるいは、‘破壊すべき目的’でもあったのです。

 

 米ソ冷戦期にあっては、ソ連邦が日本国に対して軍事的脅威を与えつつも、戦後復興やその後の急速な高度成長の陰に隠れて国民の関心は低く、左翼の欺瞞、即ち、‘ソ連邦の軍備は是であって、日本国のそれは許さない’というダブルスタンダードも見過ごされてきた嫌いがあります(ソ連という国家存在のみは認める…)。憲法第9条が定めた軍事的な制約の下で経済優先の道を選んだ日本国は、主たる海外への関心は、自国製品の輸出市場としての重要性に向けられていたと言えましょう。このため、国防の最前線にある一部の人々を除いて、米ソ間の軍事的対立はどこか他人事であり、日本国の国家としての弱体化も取り立てて安全保障上の危機としては認識されていなかったのです。

 

 ソ連邦に対する危機感の薄さの原因は、おそらく、その経済力が微々たるものであったからなのでしょう。社会・共産主義国との取引を制限するCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)の規制があったこともあり、日ソ間の経済関係も皆無に近く、また、ソ連邦は、他国に優る軍事力は備えていても、統制経済の下における貧弱な経済力故に、戦争遂行能力には欠けていたのです。冷静、かつ、客観的に分析すれば、ソ連が全世界の諸国を支配する可能性は低く、対米戦争に踏み切るだけの資源や国力を備えていないことは一目瞭然であったのです。つまり、統制経済の徹底が、ソ連邦の脅威を薄めていたとも言えましょう。

 

 しかしながら、今世紀に入ってからの中国の急速な軍事的台頭は、この状況を一変させてしまったように思えます。その第一の要因は、ソ連邦とは違い、中国は、政治的には共産主義イデオロギーの下で一党独裁体制を維持しつつ、経済分野では、改革開放路線を選択して自由主義経済のメカニズムを取り入れたことです。いまや世界第二位の経済大国に成長した中国は、ソ連邦には欠如していた戦争遂行能力を備えることとなりました。

 

 第2の要因は、中国経済の自由化にむけた改革は、改革開放路線という名称が示すように、国内の制度改革に留まらず、海外への自国市場の開放を伴った点です。国際経済への中国の参加こそグローバリズムそのものであり、労働コストや人民元の為替レート等において競争力を有する中国は、海外のグローバル企業によってサプライチェーンに組み込まれる、あるいは、自国においてグローバル企業を育成することで、世界経済の舞台の中心に躍り出たのです。グローバリズムの波に乗ることで、ソ連邦が喉から手が出るほどに欲しても得ることができなかった、自由主義国の先端的なテクノロジーや知的財産をも、M&Aをはじめ‘チャイナ・マネー’を以ってすれば容易に手にすることができたのですから、グローバリズムの最大の受益者の一人とは中国であったのかもしれません(中国の他にはIT大手…)。

 

 そして、第3の要因として挙げられる点は、以上に述べた技術力を含めた経済力を軍事力に転用したことです。将来的にはアメリカを追い越すとする予測もあり、中国は、経済大国であると同時にアメリカをも脅かす軍事大国として全世界を威圧することとなるのです。

 

ここに、共産党一党独裁国家としての顔が再び現れるのであり、軍事力とそれを支える経済力、即ち、戦争遂行能力の両者を備えた今日の中国は、かつてのソ連邦の比ではありません。そして、同体制を支える共産主義は国家の存在や国境を否定する‘世界思想’ですので、このまま中国が‘中国の夢’を追求しようとすれば、その先には、他の諸国の併呑、並びに、国民国家体系の破壊が待ち受けていることでしょう。この機に至っては、国家や国民国家体系を消滅させるべき存在と見なしてきた人々も、自らの考えを見直さざるを得なくなるのではないでしょうか。今日、人類が直面している危機とは、暴力と‘お金’が全てと考える無法国家による世界支配なのですから(国民国家体系は国際レベルにおける法の支配と最も親和性が高い…)。

 

人類が暗黒の未来を迎えないためにまずもって自由主義国がすべきは、軍事力と戦争遂行能力の両者を削ぐために、グローバリズムを逆手にとって中国経済を弱体化させることなのかもしれません。つまり、上述した3つの要因の効果を封じるために、逆方向への政策を実行するのです(新たなCOCOMが必要…)。そしてそれは、‘戦わずして勝つ’方法でもあるのではないかと思うのです。


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‘グローバリスト’には3つの種類ある?

2020年07月12日 12時58分31秒 | 国際政治

 グローバリズムの到来とともに、経済界や教育界では、早急な‘グローバリスト’の養成が目標として掲げられることとなりました。‘ガラパゴス’とも揶揄されるように独自性が強く、閉鎖的な日本国は、グローバルな視点を持たなければ時代に取り残されるのではないか、とする危機感が広がったのです。実際に、グローバル時代にあって、飛ぶ鳥を落とす勢いであった日本国の経済も振るわず、米IT大手の躍進や中国の急速な台頭を前にしてなすすべをなくして立ち尽くしている観があります。

 

 かくして日本国内では、今日に至るまで‘グローバリスト待望論’が叫ばれ続けてきたのですが、中国がグローバリズムの旗手を自認するに至った今日、‘グローバリスト’とは何か、という問題を考えてみる必要があるように思えます。‘グローバリスト’とは、一先ずは、‘グローバルな視点から物事を見る人’と定義されるのでしょうが、とりわけ経済分野にあっては、‘グローバリスト’にも3つの種類があるように思えるからです。

 

 第一の‘グローバリスト’とは、自身の国籍国とは関係なく、自らのアイデンティティーを‘グローブ(世界)’に置いている人々です。例えば、金融財閥やグローバル企業のCEO等はこの種の‘グローバリスト’であって、特定の国の国益のために活動しているわけではありません(もっとも、国籍国ではなく、ユダヤ系の人々の場合には民族的な利益追求はあるかもしれない…)。利益の最大化を目指し、全世界を俯瞰して原材料、資本、労働力、技術等の最も効率的な調達先を見つけ出し、最適に配置するのがこの種の‘グローバリスト’の行動様式なのです。このため、多額の資金を投じて経済発展を促した国があっても、他の国が有利となれば、冷徹な経営判断によってあっさりと投資先を変えてしまいます。第一の種類の‘グローバリスト’にとりまして、全世界の諸国は、利用する対象でしかないのです。

 

 それでは、第2の種類の‘グローバリスト’とは、どのような人々なのでしょうか。第2の種類の‘グローバリスト’とは、‘グローバルな視点から物事を見る人’という点においては第一の種類の人々と共通していながら、アイデンティティーを自らの国籍国に置いている人々です。この種の‘グローバリスト’は、自国の視点からのみ世界を理解しようとする国家中心主義者とは異なる一方で、第1のグローバリストとの間には、自国の立場や利益から離れない点において違いがあります。第2の種類の‘グローバリスト’とは、いわば、第1の‘グローバリスト’の視点を理解した上で、それへの対応から自らもグローバルな視点を持つに至った人々なのです。

 

 最後の第3の‘グローバリスト’とは、特定の国の国益とも、企業の私的利益とも離れた超越的な立場から、グローバル市場、あるいは、国際経済の在り方を模索しようとする人々です。国際経済秩序そのものの安定や全世界の諸国の繁栄を目指す点において、WTOの事務総長にはこの種の人物が最も相応しいと言えましょう。もっとも、超越的な視座を有する第3の種類の人物を見出すのは決して容易なことではありません。

 

 以上に‘グローバリスト’を凡そ3つの類型に分けてみましたが、この分類は、今日の国際経済の現状、並びに、日本国の今後の方向性を見極めるにも役立つように思えます。中国、並びに、IT大手を含むグローバル企業と称される企業群は、第1のタイプの‘グローバリスト’として理解されましょう。もっとも、中国は、国益と結びついていますので第2のタイプのように見えるのですが、共産主義の越境性がグローバリズムと一体化している点において、第1の側面がより強く表出しているように思えます。

 

そして、日本国の‘失われた20年’とも称される長期的な低迷もまた、同分類によって説明できるかもしれません。グローバルな時代とは、ITによって空間的な制約が取り払われたことと相まって、規模の経済(スケールメリット)がものを言う時代ですので、第1の種類の‘グローバリスト’は、製品開発や技術力において秀でながら市場規模において劣る日本経済に見切りをつけ、日本国には、高品質素材の提供地としての役割を残しつつも、中国に乗り換えたと推測されるからです。

 

日本国の衰退原因が第1の種類の‘グローバリスト’の経営方針の転換であるならば、日本国が同種の‘グローバリスト’の後追いをするには無理があります。せめて一部の日本人がグローバル企業に職を得ることぐらいしか望めないかもしれません。しかも、国際金融やグローバル企業の中核がユダヤ系や中華系でよって占められているとしますと、日本国も日本国民もその閉ざされたサークルに入ることはできず、利用されるだけの存在で終わってしまう可能性すらあります。

 

となりますと、日本国として先ず目指すべき‘グローバリスト’は、第2の種類となりましょう。この種の‘グローバリスト’は、自国の産業や雇用を含めたい国民生活を擁護しようとしますので、第1の種類の‘グローバリスト’の要求を受け入れることには躊躇するはずです。むしろ、第1の種類の‘グローバリスト’とは距離を置き、グローバル時代におけるサバイバル策を考え抜くことでしょう。その際、‘グローバリスト’でありながら保護主義者、という、一見、矛盾するような行動を見せるかもしれません。

 

そして、日本国を含めた全ての諸国に対して公平・中立的であり、かつ、中国やグローバル企業の独占的、否、支配的な行動に歯止めをかけるルールや仕組み造りという意味において、日本国が第3の種類の人材を輩出するとしますと、それこそ、日本国の国際貢献ということになりましょう。何れにしましても、‘グローバリスト’の類型を区別しませんと、日本国の未来は危ういのではないかと思うのです。

 

 


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奇妙なIT大手批判―権力の私物化への道を敷くIT大手

2020年07月11日 13時02分37秒 | 国際政治

 最近、IT大手において奇妙な動きが目立ってきているように思えます。その発端は、トランプ大統領のツイッター投稿を機に一気に表面化した現象であり、IT大手が、同投稿を放置したとして内外から受けている厳しい批判にあります。

 

  IT大手の企業内部からの批判としては、「物言う社員」の問題として報じられています。「物言う社員」とは、資本主義が社員を含むテークホルダー配慮型へと変化したことから、最近、頓に注目を集めるようになった社員たちであり、社内にあって経営に対して声を上げる存在として理解されています。一般の企業であれば、経営において社員の意見を広く聞きくことは望ましいことですし、また、社会全体に直接的な影響を与えることもありません。

 

しかしながら、IT大手の場合、その事業が社会・産業インフラでもあるプラットフォームを基盤とする公共サービスである故に、「物言う社員」の影響は、社内に留まる性質のものではありません。例えば、グーグル社のケースを見ますと、「物言う社員」の要求とは、‘差別主義者’である警察に対して、グーグル社の開発した技術提供を停止せよ、というものです。警察への協力のボイコットを要求していることとなりますが、仮に、「物言う社員」の要求を100%受け入れるとしますと、警察機能の低下による治安の悪化は当然に予測されます(GPS情報を用いた容疑者追跡も不可能に?)。つまり、売上高を伸ばす、シェアを拡大する、消費者のニーズに応えた製品を開発する、技術開発に投資する、海外における製造拠点の設置国を決める…といった一般的な経営方針に‘物申す’のではなく、公共サービス事業者としての公的義務を放棄するように物申しているのです。この結果、人種の違いに拘わらず、全てのアメリカ市民の身に危険が迫るとしますと、「物言う社員」は、あまりにも無責任と言うしかありません。

 

また、フェイスブック社につきましても、トランプ大統領の投稿を放置したことから、凡そ400社が広告の中止を表明する事態に直面しました。NAACP(全米黒人地位向上協会)からの要求を受けての措置ですが、企業による広告ボイコットを受けて、同社は外部の有識者からなる組織に「人権監査報告書」の作成を依頼しています。そして、同報告書は、フェイスブックの取り組みを不十分とし、より強い措置を求めているのです。つまり、投稿の事前削除などの検閲の実行を同社に勧めていると言えましょう。外部組織とはいえ、有識者の人選は同社が行ったのでしょうから客観的な評価とは言えず、同報告書の結論は、おそらくフェイスブックの意向に沿ったものなのではないかと推測されます。

 

以上に二つのケースを見てきましたが、何が奇妙なのかと申しますと、どちらのケースでも、極めて公共性が高く、かつ、統治権限に関わる問題でありながら、アメリカの一般市民が全く以って無視されてしまっている点です。グーグル社のケースでは社員からの圧力でしたし、フェイスブック社の場合はより手が込んでおり、NAACP、広告主の企業、外部有識者の三者の連携でした(おそらく、その背後にはフェイスブック社そのものが…)。同問題が自由かつオープンに議論され、民主的な手続きが踏まれているわけではなく、こうした一部の集団による抗議行動が、結果として治安を脅かし、IT大手に私的検閲権を与えかねない事態に至っているのです。

 

しかも、人種差別反対といった誰もが否定できないような‘正義’を掲げていることが、IT大手による権力の私物化の動きに人々が抗することを難しくしています。反対を唱えようものならば、‘差別主義者’のレッテルを張られかねないのですから。メディアや世論操作に長けたIT大手を介して自由主義国もまた、‘正義’の名の下で中国と同様の厳格な国民監視体制が敷かれ、言論の自由が失われてゆくとしますと、華々しく登場してきたIT大手のCEO達はもはや若き時代の寵児ではなく、その真の姿は老獪な魔王のように思えてくるのです。

 

 


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WTOの事務総長とは何なのか?

2020年07月10日 13時56分41秒 | 国際政治

 国際社会の水面下では、目下、WTOの事務局長の座をめぐる熾烈な争いが演じられているようです。既に8人の方々が候補者として名乗りを挙げていますが、空席期間が予測される程、紛糾しているというのです。この問題、WTOの役割確認から始めるべきではないかと思うのです。

 

 WHOとは、1995年のマラケッシュ協定によって誕生した国際機関であり、第二次世界大戦末期に締結されたブレトンウッズ協定によって発足したIMFと比較しますと、比較的新しい機関です。しかしながら、その基盤が皆無であったわけではなく、一般的な自由貿易に関するルールを定めたGATTが先行していました。つまり、同協定が発効した1948年から1995年までの凡そ半世紀にわたって、国際貿易の秩序はルールのみによって運営されていたのです。そして、GATTを基盤として設置されていた加盟国間の交渉枠組みはラウンドと称され、貿易自由化に向けたルールを上積みする、いわば、立法の場として機能しています。

 

 WTOの誕生以前の時代では、GATTの締約国によって構成されるラウンドが立法機能を果たす一方で、加盟国がそれを自国に適用するという意味において執行機能を担っていたと言えましょう。その一方で、司法機能については専門の機関が欠如しており、加盟国間で紛争が発生した場合には、基本的には当事国間で解決するしかなかったのです。この点、WTOの設立において特筆すべきは、パネル式の紛争解決手続きを定めたところにあり(小・上級委員会の設置…)、ようやく司法機能を得ることで、国際貿易体制は、とりあえず法秩序の維持に必要となる立法(加盟国の合意にもとづくWTOによるルールの制定)、執行(WTO加盟国政府によるルールの適用と運営)、司法(WTOによる紛争解決)の三拍子を揃えることができたのです。

 

 以上の流れに照らしますと、WTOの事務総長とは、一体、どのような役割を担ったポストなのでしょうか。推定されるWTO事務総長の役割とは、まずは、交渉枠組みという立法過程における議題の整理や提案、並びに、組織上の事務処理の最高責任者ということになります。WTOに新たなルールを設ける場合、通常、ラウンドの妥結を以って行われますので、事務総長には立法権はありません(もっとも、提案内容を操作することはできる…)。事務処理も、国際貿易ルールを変えるほどの影響を与えるわけではありません。

 

それでは、新設された紛争解決手続きにおける役割はどうでしょうか。上述したようにWTOの発足とともに紛争解決の手続きが整えられたのですが、同手続きにあって、事務総長は裁判官、即ち、小委員会や上級委員会のメンバーではありません。小委員会の適格要件の一つとして‘事務局において勤務したことがある者’が見受けられるものの、紛争解決手続きにあって事務総長は、訴えに対して判定(勧告の採択)する権限を有していないのです。

 

 仮に事務総長が、紛争解決の手続きに介入できるとしますと、それは、小委員会のメンバーの人選であり、事務局は、参考となるように候補者の名簿を作成することができます。もっとも、名簿に記載される候補者は加盟国によって提案されますし、選任に際しては、委員の独立性が強く求められています。常設機関である上級委員に至っては、‘いかなる政府とも関係を有してはならない’とあり、小委員会であれ、上級委員会であれ、事務局長が人事において特定の国の利益に奉仕するような行動をとれば、当然に、職務倫理違反を問われる事態となりましょう(WHOのテドロス事務総長の二の舞に…)。

 

 以上に述べたことから分かるように、実のところ、WTOの事務総長には然したる権限はなく、国際社会もマスメディアも、同ポストに対して過大評価をしているのかもしれません。韓国出身のWTO事務局長が誕生すれば、同手続きにおける判決が日本国側に不利になるのではないかとする懸念の声も聞かれますが、仮に、国際機関としての中立・公平性を損なうような行動を事務総長が採ったとすれば、同事務総長は適格性を欠いていることとなりましょう。あるいは、党の‘書記長’が事実上のトップであった社会・共産主義国の慣例が、同ポストを過大に評価する要因の一つであるのかもしれません。

 

 国際貿易ルールにつきましては保護機能なき自由化一辺倒という問題もあり(あたかも、‘ルールがないのがルール’…)、ルールの内容自体を見直す必要もあるのですが、少なくとも、事務局長のポストについては、たとえ空席となったとしても、その影響は限られているように思えます。しかしながら、事務局長の選出の難航が予測されている現状からしますと、表には見えないところで、WTO事務局長の立場の強化や権限の集中化、すなわち、改悪が計画されているのかもしれません(中国政府が、ロビー活動をしている可能性も)。アメリカはWTOからの脱退をも示唆してきましたが、国際社会は、ここで一旦立ち止まり、国際機関の役割と中立・公平性について制度面を含めた見直しを進めるべきではないかと思うのです。


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テドロスWHO事務総長の教訓―国際機関の人事はどうあるべきか?

2020年07月09日 12時36分06秒 | 国際政治

 テドロス事務総長の目に余る中国寄りの姿勢に業を煮やしたアメリカは、正式に脱退を通知し、遂にWHOから離脱することとなりました。一昔前であれば、大国の国際機関からの脱退は雨やあられの批判を浴びたのでしょうが、今日では、アメリカの決断に理解を示す国も少なくありません。日本国もその一つなのでしょうが、国際社会の厳しい視線は、アメリカの脱退の誘発したテドロス事務総長のみならず、その背後で同氏を操る中国にも向けられています。

 最近に至っても、新型コロナウイルスは空気感染するのではないか、とする問題提起があり、WHOに対して調査を依頼したとする報道がありました。本来であれば、WHOは、中国から報告を受けた時点で同感染病の特性を徹底的に調査し、全加盟国に報告する義務があったはずです。‘人から人への感染’でさえ、WHOは中国に配慮して認めようとはせず(中国は、「人から人への感染は排除できないが、そのリスクは比較的低い」と説明してきた…)、ようやくこれを認めたのは、中国が言明した1月20日を過ぎてからのことです。空気感染に至っては今日に至るまで公式に認めたことはなく(もっとも、エアロゾルは認めている…)、外部からの指摘を受けて調査を開始する顛末となったのです。近々、WHOは、同ウイルスの起源を調査するために調査団を武漢に派遣するそうですが、中国が全ての場所の立ち入りを認めたり、関連するあらゆる書類やデータの閲覧を全面的に許すとは思えません。

 空気感染が事実とすれば、各国政府共に感染防止対策を抜本的に見直さなければならなくなるのですが、こうした予防対策の基礎となる最優先で実施すべき調査さえ、中国配慮への過度の配慮からWHOは怠っていたこととなります。これでは情報隠蔽に加担したに等しく、WHOはその存在意義を疑われても致し方ありません。そして、その元凶を辿ってゆきますと、やはり、WHO、否、国際機関の人事、即ち、要職選出の手続きの問題に行き着くのです。国際社会における中国の‘買官行為’とでも言うべき国際機関のポスト掌握こそが、今日の忌々しき事態を招いているのですから。

 一旦、国際機関のトップに中国人、あるいは、親中派の人物が就任しますと、その組織は、国際機関としての中立・公平性を失い、中国の下部機関に堕してしまいます。構図として国際機関は国家の上部に位置するのですが、特定の国の配下に入ってしまいますと、その超越性は失われ、天空から落ちてきた‘堕天使’と化すのです。中国による国際機関の‘ポスト漁り’については、同国の‘ロビイング’の巧みさとして評価する意見もないわけではありませんが、如何なる国にあっても公務員に対する贈収賄はれっきとした犯罪です。従いまして、本来であれば、国際社会における公的機関に対する‘買官行為’も、国際法において禁止されると共に、公的な取り締まりの対象とすべき行為なのです。

 国家の上部に位置する国際機関は無誤謬に違いない、と信じる‘国際機関神話’もあって、これらの機関の人事については、加盟各国の紳士協定的なモラルによって支えられてきた面があります。たとえ現実には大国間の力関係によって人事が決定されていたとしても、表向きは中立・公平を装い、国際機関のトップもまた、自らの言動が行動規範から逸脱しないよう細心の注意を払ってきたのです。ところが、テドロス事務総長がこの‘仮面’をかなぐり捨てて露骨なまでに自らの後ろ盾である中国の意向を汲み、同国を擁護する盾として行動するに至り、ようやく、国際機関の要職に関する選出手続きに問題があることに、多くの人々が気付くようになったとも言えましょう。

 この意味において、新型コロナウイルスの一件は、制度改革に向けた転機ともなったのですが、まずもって認識すべきは、国際機関とは非民主的であり、かつ、腐敗に対して脆弱な組織である点です。この側面が、国際機関が一党独裁国家である中国にとりまして有利な場となった理由でもあるのですが、今般の一件を教訓とすれば、今後の国際社会の方向性としては、国際機関の中立・公平性を確保するために、(1)WHOのみならず全ての国際機関に対する加盟国の贈収賄行為を防止のための国際規範を確立すること(贈収賄による被選出者の辞職、違反国、並びに、違反組織に対する制裁などの罰則規定も盛り込む)、(2)取り締まりのための制度・組織を設けること、そして(3)、国際機関の要職の選出については、よりこれらの機関の設立目的に適した手続きを導入すること、などを挙げることができます。

(3)については、国際機関の設立目的や役割はそれぞれ異なりますので、選出手続きも画一化する必要はないのでしょうが、凡そ、二つの方向性が検討されるべきかもしれません(国際機関は政治機関なのか、行政機関なのかの議論も必要…)。その一つは、全加盟国に一国一票の投票権を与え、民主的に選出する方法です(全人類に投票権を与える方法もありますが、これでは、人口大国が常に要職を占めることに…)。もっとも、この方法でも、民主主義国家の選挙でもありがちな票の買収問題を解決する必要があり、腐敗防止の課題が付きまといます。もう一つの方法は、客観的な視点、即ち、特定の加盟国や私企業の利益から離れた立場から任務を果たせるように、合理的な判断力に徹することができる専門家から選ぶという方法です(候補者は、国際機関の専門職員、各国政府の推薦、あるいは、各国の専門家or団体での選考を経た自由立候補等…)。WHOの設立目的からしますと、あるいは、後者の方が適しているのかもしれません(テドロス氏は、WHO初の政治家出身の事務総長とも…)。もっとも、両者を組み合わせた案としては、事務総長の要件として専門知識、政治的中立性、並びに、特定の私企業との無関係性を設けた上で、総会における投票によって決定するという方法もありましょう。

何れにしましても、目下、提示されているテドロス事務総長の改革方針は、上述した方向性とは真逆であるように思えます。今後、WHOの腐敗体質がさらに深まる事態も予測されますので、日本国政府をはじめ加盟各国政府は、国際機関の人事手続きの改正に努めると共に、それが叶わなければ、アメリカと同様に国際機関との関係を抜本的に見直す必要があるのではないかと思うのです。

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深刻な二階幹事長問題-二階・中国ルートの脅威

2020年07月08日 13時21分19秒 | 国際政治

自民党政調審議会は、7月7日、ようやく習主席国賓来日中止決議を了承したそうです。中国による「香港国家安全維持法」の制定に対する非難決議なのですが、親中派で知られる二階幹事長等の強固な反対を受け、「中止を要請する」とした原案の表現は「中止を要請せざるを得ない」へとトーンダウンの方向に修正されたと報じられています。しかも、「党外交部会・外交調査会として…」の一文も加わり、自民党としての決議ではないかの如くに表現が薄められてしまったのです。

 自民党内における二階派の‘影響力’の強さを物語るのですが、この一件で明るみになったのは、同幹事長の非民主的な体質です。報道によりますと、同決議案を取りまとめた自民党の外交部会等の役員会では、原案に対して撤回や修正を求めたのは二階派の5人の議員であったそうです。同会の出席者は18人でしたので、原案に対する賛否の比率は13対5ということになり、民主的な多数決の原則に従えば、圧倒的な賛成多数で二階派の要求は却下されるはずでした。ところが、何故か、原案は修正され、少数派である二階派の意見が通ってしまっているのです。

 自民党内にあって民主主義の原則が捻じ曲げられる事態が発生したことになりますが、その背景には、中国の圧力があったことは想像に難くありません。そもそも、党内、否、日本政界おける二階幹事長のポジションは中国のバックあってのものであり、仮に、二階・中国ルートが遮断されたならば、さしもの同幹事長もその絶大なる影響力を維持することはできないことでしょう。古今東西を問わず、大国をバックとした為政者などが自国内において幅を利かせてしまう事例は枚挙にいとまがなく、アジアにあっても、冊封体制はこの構図を以って理解されます。同体制も、宗主国によって国王の地位を認められた人物が、大国の軍事力や権威を後ろ盾として全人民を支配する構図であるからです。

 習近平国家主席は再三にわたって‘中国の夢’を語っていますが、それが前近代において成立していた冊封体制の再来を意味するのであるならば、中国は、日本国をも同様の手法を以って攻略しようとすることでしょう。二階幹事長をはじめとした親中派議員や公明党等は、いわば、中国によって選ばれた、あるいは、子飼いとして育てられた現代の‘小国王’なのかもしれません。党内力学において圧倒すれば‘数’など問題ではなく、日本国の政治を内部からコントロールできると踏んでいるのでしょう。そして、上述したように、党内の多数派を押しのけて、党決議の文面の修正に成功しているのです。かくして、日本国内では、保守政党が暴力革命を是とする共産党に阿るという、異常事態が発生しているのです。

 今般の事態は、日本国の独立の危機であることは言うまでもありません。そしてそれは、独立の危機のみならず、日本国の内部から自由主義、並びに、民主主義をも揺るがしており、日本国の自由主義体制の危機とも言えましょう。二階幹事長は、不快感を露わにして「日中関係のために先人たちが紡いできた努力をなんだとおもっているのだ」と述べたとも伝わりますが、飛鳥時代にあって、聖徳太子(厩戸皇子)は、その逆に隋の冊封を拒絶したように、先人たちは、日本国の独立の維持にこそ努力を払ってきたのではないでしょうか。二階幹事長こそ先人達の努力を無にしかねず、二階幹事長問題は、日本国に対する中国による内政干渉の問題として早急に対処すべきではないかと思うのです。


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現代のグローバリズムはイエズス会と東インド会社のキメラ?

2020年07月07日 11時48分41秒 | 国際政治

 一昨日の晩(7月5日)、NHKスペシャルでは、‘世界を変えた戦国日本’と題した番組が放映されておりました。前週に続いて海外史料から戦国時代の日本国の実像を読み解く番組の第二弾であり、今回は、徳川家康とオランダ東インド会社との関係に焦点を当てていました。2週連続して放映されたこのNHKの戦国シリーズ、実のところ、今日の日本国の置かれている状況とオーバーラップして見えるのです。

同番組では、イエズス会士のスペイン国王に対する書簡を紹介しており、その中に‘日本国民をキリスト教徒に改宗することができれば、もはや国民は日本国の為政者に従うことはなくなり、家康が死去すれば、陛下(スペイン国王)に忠誠を誓うことでしょう(記憶が怪しく、正確ではないかもしれません…)’といった趣旨の記述が認められていたそうです。成功例としてフィリピンやメキシコを挙げられており、キリスト教の布教の真の目的が日本国の植民地化であることを明かしているのです。

従来、豊臣秀吉や江戸幕府によるキリシタン弾圧は、日本国の歴史における汚点と見なされ、国際的にも日本国のイメージを損ねてきました。しかしながら、近年の内外の研究により、当時のイエズス会の活動が詳らかになるにつれ、この固定概念は見直されるかもしれません。そして、ここに、宗教団体によって植民地化の精神的な道具としてキリスト教が利用され、世俗における征服事業を精神面からサポートしていた実態が浮かび上がるのです。

 それでは、何故、国民のキリスト教への改宗が、スペインによる植民地化を招くのでしょうか。先ずもって、イエズス会は、日本人のキリスト教徒達を自らの組織に組み入れることができます。つまり、日本人信者のアイデンティティーを日本国からキリスト教共同体(イエズス会)に移すことで、実質的に日本人をイエズス会の動員可能な下部団体として組織することができるのです。その数が多数派となれば、上述した書簡にあって期待されていたように、徳川幕府を倒すことも夢ではありません。キリスト教を禁教とした家康を‘ゼウス様の敵’に認定すれば、信者たちは、全知全能、かつ、至高善なる存在としての神の名の下で、神に仇する幕府を倒すべく戦うことでしょうし、武力を行使しなくとも、徳川家康その人、あるいは、その子孫の改宗に成功すれば、自発的に日本国をキリスト教の最大の擁護者であるスペイン国王に進呈する、あるいは、スペイン国王、並びに、イエズス会の事実上の‘代理人’として働くかもしれません(スペインは、佐渡銀山で採掘された銀の半分を引き渡すことを条件に、高度な技術を有する自国の鉱山技師の派遣を家康に申し出て断られている…)。高山右近をはじめとしたキリシタン大名達のように…。 

前回の番組にあって、イエズス会士は、信長に対して‘日本国民の魂を盗みに来た’と説明していましたが、精神面における国民の意識や思想の変化は国家の枠組みそのものを揺るがす重大な影響力を及ぼします。とりわけ、普遍性を備えた宗教や思想は、軽々と国境を越えて広がりますし、その宗教組織が特定の国家と強固に結び付きますと、他国の征服や侵略までをも正当化してしまうのです。

この側面に注目しますと、イエズス会士から期待されていたキリスト教の役割は、近現代のコミュニズム(共産主義思想)やグローバリズムの役割に近いかもしれません。共産主義思想はソ連邦や中国と結びつくことで周辺諸国を侵略するにとどまらず、全世界の支配を目論みましたし、グローバリズムもまた国家の枠組みの融解を促しているからです。

しかしながら、‘太陽の沈まぬ帝国’とも称されたスペインが武力による領域拡大を伴う面的な世界帝国建設を目指した時代は過ぎ、近代史においてグローバリズムの最後の勝者となったのは、ネットワーク型の貿易網を世界大に張り巡らした東インド会社でした。同番組の最後にあって、ナレーターもまた、オランダ東インド会社をして‘グローバルな時代の勝者とは、最もそれを効率的に利用した者である(こちらも記憶が怪しく、正確ではないかもしれません…)’とし、今日的な問題をも提起しておりました。

国王から独占的な貿易権を付与された勅許会社とはいえ、世界初の株式会社がオランダ東インド会社であったように、東インド会社は私企業です。私的な利益を求める私企業・私的団体でありながら、英蘭東インド会社は、条約締結権、要塞建設権、貨幣発行権など含む統治権限をも得ていたのです。今日、フェイスブックがリブラ構想を打ち出し、米中のIT大手が競うようにして世界大にネットワーク型のプラットフォームを構築している現状を見ますと、どこか、かつての東インド会社を思い起こさせるのです。江戸時代にあって、グローバリズムの視点を持つオランダ東インド会社が日本国を最大限に利用して莫大な利益を得たように(大量の銀が流出…)、そして、明治維新の影にも英蘭の東インド会社があったように、今日もまた、日本国は、グローバリズムに‘利用される’かもしれません。

しかも、今日のグローバリズムには、精神面での偽善的な戦略も潜んでいるように思えます。自由主義国のIT大手が自由、民主主義、法の支配等の普遍的諸価値を掲げつつ、その実、中国IT大手と同様に全体主義体制や権威主義体制との間に高い親和性を示している現状は、本来は善なる宗教であったキリスト教を悪用し、植民地支配の道具としたイエズス会の手法をも彷彿させるのです(もっとも、イエズス会士にはユダヤ人が多く、また、創始者であるイグナティウス・ロヨラもユダヤ人であって、密かに黒マリアを信仰していたとも…)。IT大手は言論空間において事実上の検閲権を行使していますし、その先進的な技術力は、全人類を完全監視下に置く勢いです。あたかも、イエズス会と東インド会社が合体したキメラのような様相を呈しているのです。これまで、日本国内ではグローバリズム礼賛一辺倒の傾向にありましたが、過去の歴史から学ぶことは多いように思えるのです。


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中国の脅迫体質―今なら間に合う‘命’をめぐる選択

2020年07月06日 12時35分51秒 | 国際政治

 報道によりますと、目下、自民党内では、習近平国家主席の訪日中止要請を含む香港国家安全維持法への非難決議が模索されているものの、二階幹事長の強硬な反対に遭って足踏み状態にあるそうです。この一件は、既に各方面から指摘されていた通り、同幹事長が中国によって日本国内に密かに設けられた‘内政干渉ルート’であったことを示しているのですが、中国に媚びて日本国内から非難決議の一つも発せられないようでは、既に、日本国の独立性も危うい状況にあると言えましょう。

 そして、とりわけ中国に対して警戒すべきは、中国共産党は、その本質において暴力主義である点です。中華人民共和国の成立は、プロレタリアートによる革命を説く共産主義理論を装いながらも、その実、国民党との内戦に勝利した人民解放軍による国家権力の武力奪取によってもたらされています(政党とは、本来、軍隊を持たず、政党間対決の場も平和的な選挙であるはず…)。平和的手段が存在しない状況下で民主主義体制の樹立を目指す民主化革命でもありませんので、暴力主義を体制内に残したままで中国という国は建国されているのです。このため、中国が自国の目的を達成するために訴える究極的な手段は、やはり‘暴力’となりましょう。

 今般の香港における香港国家安全維持法の制定あっても、この中国の本性が如実に顕れております。香港の自治権を認めた「一国二制度」の下で香港市民による民主化運動を封じ込めることは困難と見た北京政府は、結局は、香港市民に対して‘命’と‘民主主義’との選択を迫ることとなりました(他者の命や身体は暴力なくして奪うことはできない…)。同法の制定を受けて民主化運動からの離脱を表明した学生リーダーの周庭さんは、活動団体の解散を表明したツイッターの最後の一文を「…生きてさえいれば、希望があります。」と結んでいます。黄之峰さんも「香港で民主化運動をすると、命に関わる」と述べたと伝わります。同法の最高刑は無期懲役と定められてはいるものの、香港から本土への送還は実質的には‘死’を意味しているのでしょう(あるいは中国共産党政権が密かに組織している‘部隊’の暗殺対象となる?)。北京政府は、‘民主主義を選択すれば命を奪うぞ’と脅迫しているのです。

 香港において押し付けられた‘命’か‘民主主義’かの選択は、近い将来、中国は、日本国に対しても迫ってくることでしょう。その布石が着々と敷かれていることは、与党内の親中勢力とされる自民党の二階幹事長や公明党等の動きからも推察されます。先日、本ブログでは、‘命’の選択について‘他者の命’と‘自分の命’とに分け、仮に、‘お金’との間で二者択一を迫られた場合、前者との選択では非情にも‘お金’を選択した人でも、後者、即ち、‘自分の命’との間での選択と化した場合、‘自分の命’を選ぶのではないかとする記事を書きました。もっとも、この選択をし得るのは、選択肢が‘自分の命’と‘お金’の二者である期間に限定されます。

 北京政府による香港国家安全維持法の制定によって、香港では、この選択可能な期間は凡そ強制的に終了させられてしまいました。選択肢は、‘自分の命’と‘お金’の二つから、突然に、‘自分の命’と‘民主主義’に移行してしまったのです。この二つの間での選択であれば、‘自分の命’を選ぶ人が多数出現してもおかしくはありません。とりわけ、‘他者の命’と‘お金’との二者択一において後者を選択したような人々は、何らの躊躇もなく‘自分の命’を選ぶことでしょう。‘民主主義’とは、他者の自由や権利をも尊重する精神に基づいていますので、‘自分の命’が護られさえすれば、他者の運命、即ち、国家や国民の運命については無関心かもしれないからです。

 中国からこの選択を迫られた場合、日本国民の多くは、‘自分の命’のために‘民主主義’を選択するのでしょうか。もっとも、‘民主主義’を捨てて‘自分の命’を選んだ人々も、暫くすれば、自らの選択を後悔するかもしれません。日本国の民主主義を葬り去り、日本国を自国の支配下に組み入れた途端、中国は、全日本国民の‘命’を暴力で脅かしつつ、経済的な搾取をも始めることでしょう。結局は、‘自分の命’を選択した人々も、狡猾な中国にかかってはその選択も反故にされてしまうのです。

 今の時点であれば、日本国は、‘自分の命’か‘民主主義’かの二者択一に至ってはおらず、かろうじて‘自分の命’か‘お金’かの段階にあります。この二つの選択肢にあっては、たとえ利己的な人であっても前者を選ぶでしょうから、中国による支配を阻止することができます。‘自分の命’か‘民主主義’かの選択に追い込まれてからでは遅いのです。残された時間は僅かかもしれず、日本国政府も日本国民も、自国の自由かつ民主的な政体を護るために、今、何を為すべきかを真剣に考える時期に至っているように思えるのです。

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中国こそ現代の植民地主義国では?-‘歴史戦’を仕掛ける中国

2020年07月05日 11時08分51秒 | 国際政治

 先日、6月30日、国連人権委員会では、香港国家安全維持法の制定に対して53か国もの諸国が中国支持を表明したと報じられております。対中批判の共同声明への参加国が日本国を含む27か国ですので、擁護派が多勢のようにも見えるのですが、その背景として、‘チャイナ・マネー’のみならず、過去の西欧列強による植民地支配を挙げる意見も聞かれます。

 この説によれば、中国を支持した53か国は、(1)香港はかつてイギリスの植民地であった、(2)今般の民主化運動の背景にはイギリスをはじめとした欧米列強が潜んでいる、(3)香港の‘再植民地化’を止めた中国は植民地解放のリーダーである、という論法の下で行動したようです。多くの諸国が賛同したように、一見、説得力がありそうに見えながら、この論法、悪しき三段論法の典型のようにも思えます。何故ならば、この狡猾な論理展開に従えば、‘近代’に植民地支配を経験した国は、‘現代’の植民地主義、即ち、中国の覇権主義の擁護に行き着いてしまうからです。

  その’からくり’とは、人類の発展プロセスを無視するところにあります。‘近代’とは、米欧諸国が自国にあって国民国家体系の下で自由、民主主義、法の支配といった普遍的な諸価値を制度化し、自由で民主的な体制を確立していった時代であると同時に、植民地化したアジア・アフリカ諸国に対しては、こうした国際体系や原則を適用せず、植民地主義、あるいは、帝国主義を押し広めた時代でもありました。つまり、‘近代’と言う時代を縦に切り取れば、地球上には、民主的体制と非民主的体制が混在していたのです。

  その後、二度の世界大戦を経て国民国家体系が全世界に拡大し、植民地主義も終焉を迎えるのですが、欧米諸国から独立した諸国の多くは、民主的体制の下で再出発を果たしています。植民地時代とは、資源の搾取や現地の住民に対する残虐な扱いもあり、決して誉められたものではないのですが、それでも、独立後の各国の憲法典に明記されているように、アジア・アフリカ諸国の多くが自由、民主主義、法の支配といった普遍的諸価値を基礎とした国家体制を樹立し得たことは、人類の望ましい発展プロセスとして理解されましょう。植民地支配にも影のみならず光の部分があるとするならば、それは、独立後においてこそその輝きを放ったとも言えるかもしれません。

  ところが、地球を見渡しますと、全世界の諸国が自由化、並びに、民主化されたわけではなく、とりわけソ連邦や中国などの共産化した国家にあっては、非民主的な一党独裁体制が敷かれることとなります。現代に至っても地球上の国家体制は‘まだら’であり、しかも今日、軍事・経済大国として君臨する中国は、自国の非民主的なモデルのアジア・アフリカ諸国への拡大を試みているのです。

  そして、民主的体制を葬り去るために中国が採用した戦術こそ、‘歴史戦’であるのかもしれません。ここで言う‘歴史戦’とは、近代にあって民主主義体制の生誕地であり、かつ、宗主国でもあった米欧諸国の過去の植民地支配を断罪することで、自由、民主主義、法の支配といった諸価値までをも歴史諸共に潰そうとする戦術です(過去と現在のクロス戦術であり、現在、アメリカで起きている過去断罪の動きとも関連するかもしれない…)。上述した論理展開で言えば、(2)の「今般の民主化運動の背景にはイギリスをはじめとした欧米列強が潜んでいる」の部分において、‘現代’の民主化運動と、既に過去となっている‘近代’の欧米による植民地支配を巧みに結び付けて同一視させ、民主化と植民地化がまったく違う性質の運動であることを誤魔化すことで(3)の「香港の‘再植民地化’を止めた中国は植民地解放のリーダーである」という詐欺的な結論に導いているのです。これは、人類の発展プロセスを逆戻りさせる詭弁というものです。

  迂闊にこの悪しき三段論法を信じてしまいますと、現代の植民地主義の権化とも言える中国が、植民地解放者として颯爽と登場するという、唖然とさせられるような結果となります。また、長きにわたる歴史にあって中国は純粋に被害国とも言い難く、周辺諸国を侵略しつつ広大な版図の帝国を築き、今でも、チベットやウイグルを過酷な支配の下に置いています。また、近代の植民地主義の時代を見ても、特にアジア諸国にあっては、現地の中国系住民は宗主国側の協力者でもあったとされます。中国への支持を表明した53か国は、現代という時代にあって真の植民地化の脅威の元凶がどこにあるのか、冷静に見極める必要があるのではないでしょうか。反米欧感情や‘チャイナ・マネー’に流されますと、中国によって、再度、植民地化されないとも限らないのですから。


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‘お金’より‘命’を選択するのでは?-中国問題

2020年07月04日 13時06分55秒 | 国際政治

 「香港国家安全維持法」の制定に対して、日本国を含む自由主義国27か国は、国連人権委にあって共同で批判声明を公表しております。その一方で、中国を擁護する諸国も少なくなく、同委員会では、キューバを代表とする53か国もの諸国が中国支持の声明に名を連ねたそうです。もっとも、国連人権高等弁務官事務所のルパート・コルビル報道官は、同法は基本的人権を侵害する怖れがあるとして懸念を表明しており、同法をめぐる国際社会の反応は一様ではないようです。

 数字からすれば27対53ですので、中国支持の諸国の方が多数派のようにも見えます。しかしながら、中国に賛意を示した諸国は、中国から多額の経済支援を受けている国が多数を占め、いわば、潤沢な‘チャイナ・マネー’による‘買収’の結果とも言えましょう。新型コロナウイルスのパンデミック化を機にWHOのテドロス事務総長の中国傾斜が表面化したように、中国の腐敗体質は既に国際社会全体を蝕んでおります。お金のために中国に靡く国は珍しくないのです。あるいは、内政干渉を根拠としたところからしますと、欧米列強によって植民地とされたこれらの諸国の過去の記憶が、ことさら香港に対する冷たい対応をもたらしているのかもしれません。中国こそ、今日の‘帝国主義者’であることを忘れて…(これらの諸国は、中国によって外交権を牛耳られているとすれば、既に、事実上、属国化、あるいは、植民地化されているのかもしれない…)。

 何れにしましても、中国支持を表明した53か国の諸国は、‘命’よりも‘お金’を選択したこととなるのですが、この現象を以って、‘命’より‘お金’が優ると見なしてもよいのでしょうか。ここで考えるべきは、‘命’という場合、それは、‘他者の命’と‘自分の命’を区別する必要があるということです。今般、中国を支持した諸国が天秤にかけたのは、香港の人々の命、即ち、‘他者の命’と‘お金’であり、決して‘自分の命’と‘お金’ではありません(同法の最高刑は無期懲役ですので、生命体として‘命’ではないものの、社会的な抹殺を意味している…)。否、どちらかの二者択一ではなく、中国の要請に応じて‘他者の命’を見捨てれば‘お金’は増え、逆に‘他者の命’を選択すれば‘お金’は減るのです。こうした信賞必罰的な仕組みを作ることにかけては、中国に右に出る国はないかもしれません。

 そして、この他者の命とお金との間の選択を迫る手法が、道徳や倫理に反していることは言うまでもありません。他者の命を犠牲にして、自らは利益を得ていることになるのですから。今般の国連人権委での出来事は、人間という存在の悪しき一面、即ち、利己心や欲望が他者を犠牲にするという人間の弱さを抉り出しているのであり、どこか人の心を重くするのです。

 こうした側面は、実のところ、日本国を含む自由主義国においても見られないわけではありません。巨大な中国市場における経済的利益は、香港のみならず、チベットやウイグルの人々の‘命’を見捨てている側面があるからです。中国がIT先進国となった今では、中国の一般国民もまた、当局の厳しい監視体制の下に置かれています。こうした状況に、多くの人々が良心の痛みを感じているのではないでしょうか。

 しかしながら、武漢発の新型コロナウイルスがパンデミック化し、香港国家安全維持法が全人類に適用され、かつ、先端兵器の開発を急ぎ、南シナ海や尖閣諸島周辺海域における軍事活動を活発化させるにつれ、‘命’と‘お金’との間の選択にも変化が生じるかもしれません。何故ならば、もはや選択の対象は‘他者の命’ではなく‘自分の命’に変わりつつあるからです。‘他者の命’を犠牲にすることには良心の呵責を感じない人、あるいは、心ならずも利益を優先してきた人でも、‘自分の命’ともなりますと、その態度を変えるかもしれません。‘自分の命’を犠牲にして‘お金’を選択したとしても、もはや無意味となるのですから。

中国は、今後とも、国際社会を舞台として‘チャイナ・マネー’の力を存分に発揮し、自らの勢力拡大を図ろうとすることでしょう。しかしながら、中国は、既に他の諸国の人々に‘自分の命’と‘お金’との選択を迫る段階に至っているのではないでしょうか。この二者の間の選択あれば、たとえ‘他者の命’には目を瞑ってきた人々でも、前者を選択せざるを得なくなるのではないかと思うのです。


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香港国家安全法は日本国にも適用されているのでは?

2020年07月03日 12時56分21秒 | 国際政治

 香港国家安全法の制定は、香港に約束された一国二制度を葬り去るのみならず、全人類に対する恐るべき挑戦状でもあるようにも思えます。その理由は、同法の適用範囲にあります。同法の第38条には、「不具有香港特別行政區永久性居民身份的人在香港特別行政區以外針對香港特別行政區實施本法規定的犯罪的, 適用本法」、即ち、邦訳では「香港特別行政区の永住者の資格を有しない者が、香港特別行政区の外でこの法律に基づく罪を犯した場合に適用される(なお‘對香港特別行政區’については邦訳が分かれている…)」と明記されているというのですから。

 この一文には、北京政府の狡猾さが滲み出ております。何故ならば、敢えて‘香港特別区の永住資格を有しない者’と表現することで、中国国民のみならず、日本国民を含む全ての人類を同法の適用対象に含めてしまったからです。日本国民はもちろん、世界中の人々の殆ど全員が香港の永住権を有しはいません。また、‘香港特別行政区の外’という表現も同様であり、この表記により、中国の領域のみならず、全世界に同法の適用範囲を広げております。北京政府は、一国二制度を逆手にとって、全世界に対して自国の法律の域外適用を宣言しているのです。

 この法律の施行により、香港国家安全法を批判する全ての人は、筆者を含め、北京政府によって、一方的に犯罪行為を行った‘政治犯’とされてしまいます(中国では司法は独立してもいない…)。香港の人々の自由を護り、同地の民主化を提唱する行為が‘犯罪’とされるのですから、北京側の善悪は倒錯していると言わざるを得ません。権力と富を独占し、国民の基本的な自由や権利を不当に奪っている共産党の行為こそ、ジェノサイドにも当たる人類に対する犯罪であるのですが、体制の維持、即ち、自己保身しか頭にない共産主義者にとりましては、自らの地位や利権を脅かす存在は、全て‘犯罪者’に映るのでしょう。中国は、自らの‘犯罪’こそ、深く自覚すべきなのです。

 もっとも、たとえ同法が全世界に適用されたとしても、海外に居住していれば、中国当局によって調査、捜査、並びに拘留されることはないかもしれません。しかしながら、起訴されることはあり得ますし、ネット上には、中国側が外国に潜入させた工作員による拉致や暗殺を懸念する声も上がっています。仮にこうした行為に及べば、即、戦争ともなりかねないのですが、先ずもって警戒すべきは、中国当局の全世界を網羅し得る‘サイバー警察部隊’の海外活動です(中国では、2017年6月に民間企業に対しても情報提供を義務付けた「国家情報法」も制定されている…)。

 中国のIT技術は今やトップクラスであり、同国によるサイバー攻撃は、アメリカをはじめ各国の安全保障上の脅威として認識されています。加えて、中国IT大手は急速に海外にビジネスを広げており、日本国内でも、アリババやTikTok等の進出が続いています。ファウェイ、シャオミ、OPPOといった中国企業製のスマートフォンも未だに販売中ですし、何よりも、本ブログ記事をはじめ、自由主義国のネット上は、対中批判の記事で溢れています(中国擁護の記事を見つける方が難しい…)。中国当局は、ネットで検索すれば労せずして海外居住の‘政治犯’を簡単に見つけ出すことができるのです。そして、‘政治犯’を見つけ次第、中国当局は、高度なサイバー技術や先端的なITを用いる、あるいは、情報・通信サービス事業者等を懐柔するなど、ありとあらゆる手段を駆使して対中批判を封じ込めるための妨害工作を実行することでしょう。同法の名の下で。

 日本国政府は、政治犯を定めている香港国家安全法の域外適用に対して、どのように対処するのでしょうか。アメリカ、既に対中政策を表明しておりますが、同法は、日本国の言論空間の自由に対する重大な脅威となりますし、一般の日本国民が中国当局の情報統制下に置かれることを意味しかねません。中国との間には犯罪人引き渡し条約が締結されておりませんが、今後、中国政府から‘政治犯’の引き渡しを要求された場合、日本国民を護ろうともせず、中国に媚びて素直に応じるような事態ともなれば、日本国民の失望は計り知れないことでしょう。日本国政府は、自由、民主主義、そして法の支配を基盤とする自らの国家体制を堅持するためにも、日本国内の言論空間における中国当局の活動を取り締まると共に、アメリカや他の自由主義国と共に対中制裁に踏み出すべきではないかと思うのです。全世界の人々を中国共産党政権の魔の手から救うためにこそ、国際協力が必要なのではないでしょうか。


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香港を救うには中国の民主化が必要では?

2020年07月02日 13時32分48秒 | 国際政治

 6月30日に施行された香港国家安全維持法により、香港では、既に370人余りの人々が逮捕されたと報じられております(当初は7月1日に施行されると報じられていましたが、施行日は、可決即日の6月30日であったらしい…)。北京政府は、取り締まりの対象となるのは‘少数’の活動家であるかのように説明しておりしたが、370人にも上った大量逮捕は、香港の民主化運動に対する断固たる北京側の姿勢の現れなのでしょう(もっとも、同法違反としての逮捕は10名らしい…)。香港は、今や恐怖が支配する政治犯用の監獄都市と化したかのようです。

 香港では、天安門事件はおろか、自由や民主主義という言葉そのものも北京政府によって消されてしまいそうなのですが、中国の本土の一般国民も、香港と然程には変わらない状況に置かれています。違いがあるとすれば、中国本土で暮らす少なくない国民が、皆が平等に貧しい毛沢東時代の経験からすれば今日の中国の状況ははるかに‘まし’と考えている一方で、自由な空気の中で精神的にも物質的にも豊かな生活を送ってきた香港市民にとりましては、北京政府による電撃的な‘共産化’は言い知れない絶望となるという点にあるのかもしれません。

香港の状況を見ますと、今日、戦闘的な遊牧民族の王朝であった北朝が豊かな文明の地であった南朝を征服してきた中国の歴史が繰り返されているかのようです。共産主義の経済モデルも、北方から騎馬を駆って襲来した征服王朝が南方の農耕民を支配するための制度でもあった均田制に酷似しています。この時も、南部の住民たちは圧倒的な武力の前に屈し、自由はもとより命も身体も、そして財産も奪い去られています(奴隷として北方に連行されてしまった人々も…)。習近平国家主席が唱える‘中国の夢’が統一中華帝国の復興であるならば、現代にあっても、暴力こそ相手に有無を言わせない絶対的な強制力を有する‘征服手段’と見なしていることでしょう。そして、近い将来、北京政府は、香港に次いで台湾に対しても牙を剥くかもしれないのです(台湾の次には、日本国を含む周辺諸国へのドミノ倒し的な侵略が開始されるかもしれない…)。

それでは、予測されるえる中国による暴力支配を防ぐことはできるのでしょうか。仮に中国国民に一縷の望みを繋ぐならば、それは、改革開放路線に転じる以前の中国を体験していない、比較的若い世代の意識変化にあります。天安門事件が発生した当時、民主化運動に身を投じた学生たちは、現在、50代に差し掛かっております。少なくともこの世代の多くは、たとえ中国当局が情報統制によって過去を消し去ろうとしても、同世代による自由化、並びに、民主化運動を記憶しているはずです。

それでは、天安門事件以降に生まれた若者世代はどうなのでしょうか。中国政府は、国民が天安門事件を忘れ、かつ、経済的な不満が民主化運動へと向かわないよう、国民が生活の豊かさを実感し得るように経済発展を優先してきました。国民が日々の暮らしに満足し、生活水準の向上を実感すれば、一党独裁体制に疑問を抱くことはないと考えたのでしょう。しかしながら、現実は必ずしも中国政府側の思惑通りとはならなかったようです。中国の経済が成長するにつれ、ネットやSNS上では、体制や政権を批判する‘国民の生の声’が散見されるようになったからです。そこで、中国政府は、人々を自由にするはずの情報・通信技術の発展を逆手に取り、スマートフォンといった端末を国民に携帯させ、かつ、顔認証システムや監視カメラを全国に張り巡らすことにより、国民を完全なる監視下に置いてしまいました。先端的なITは、民主化への流れを逆転させてしまったといえましょう。そして、体制側による情報統制、並びに、国民監視体制の強化こそ、中国国民が、その本心において自由化と民主化を求めている証とも言えましょう。国民が心から共産党による一党独裁体制を受け入れているならば、情報統制も国民の徹底的監視も必要するはずもないのですから。

中国の若者層は、自由や民主主義という言葉を知らなくとも、香港と同様の豊かさを知っています。また、若年層は、海外の教育機関への留学や海外生活等を通して、自由主義国の文化や民主主義を含めた価値観にも親しんでもいます。こうした世代もまた、中国の国内状況がより厳しさを増せば、体制を揺るがすに足る民主化勢力に成長する可能性を秘めていると言えましょう。この意味において、現在の中国の若年たちは、本土の高齢世代よりも、今日の香港の人々に近い存在であるのかもしれません。

このように考えますと、中国の共産党一党独裁体制が崩壊し、中国全土が民主化する可能性も見えてきます。中国は、目下、新型コロナウイルス禍をも利用して国民監視体制の強化に努めていますが、状況次第では、中国共産党が描くものとは違う未来が到来するかもしれないのです。となりますと、自由主義諸国は、まずは中国との経済的な関係を断ち、自らが中国の属国になる事態を回避すると共に、中国の自由化、並びに、民主化を促す、つまり、中国国内を民主化に適した状況に変えるのが、最も望ましい政策のように思えます。かのジョージ・オーウェルのディストピア、『1984年』も、過ぎ去った忌まわしき時代を振り返るという視点から、過去形で書かれているところに救いがあるとする指摘もあるのですから。


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