日本国は、第二次世界大戦において手痛い敗北を喫しています。同戦争への反省から、しばしば、‘勝てない戦争はしてはいけない’とする歴史の教訓としても語られています。対米開戦の前夜にあって総力戦研究所がシミュレーションを行い、およそ‘短期戦では一時的に優位な戦局を得るものの、長期戦では敗北する’とする‘必敗’の予測が報告されながら、真珠湾攻撃を以って戦いの火蓋を自ら切って落としたからです。戦争の大義は別としても(戦前の国際社会は植民地支配もあり、必ずしもフェアではない…)、当時の日米間の工業生産力を含む国力の差を冷静、かつ、客観的に分析すれば、‘無謀な戦争’であったと評されても致し方がない側面がありました。
こうした経緯もあり、戦後の日本国にあっては、戦前の日本国の中枢部に対して向けられた視線は冷たく、とりわけマスメディアや左翼の論壇では‘愚かな戦争’を遂行したとして侮蔑する向きもありました。そして、経済優先路線を宣言した吉田ドクトリンもあって、日本国政府もまた、先の大戦は過ちとして捉える傾向にあったのです。しかしながら、経済を優先すれば、日本国の未来永劫にわたって安泰なのでしょうか。今日、中国がグローバリズムの波に乗って経済的に急成長を遂げるのみならず、軍事的脅威として立ち現れる中、経済優先路線もまた‘無謀な戦争’になりかねないリスクがあるように思えます。
第二次世界大戦における日本国の敗因として挙げられるのは、情報収集能力や情報分析力の低さとされていますが、上述したように開戦時における予測は比較的正確であり、実際に、戦争が長期化したために敗戦を帰結しています。ですから、情報収集力や分析力の欠如の問題と言うよりも、報告書の提言を却下した当時の中枢部による判断の是非が問題となるのでしょうが、今日もまた、日本国政府がグローバル時代における日本国の勝利を夢見ているとしますと、過去の誤りを繰り返しとなるのかもしれません。
何故ならば、グローバリズムとは、国家間ではないものの、世界規模において企業間競争が繰り広げられるという意味において、経済分野における‘世界大戦’の一種でもあるからです。日本国の政治家は、与党野党問わずに‘開国’を以って日本国発展のチャンスと主張し、労働市場を含めて積極的に日本市場を海外に開放すると共に、国境をできる限り低くするための自由化政策を推進しています。しかしながら、グローバル時代とは、規模の違いに拘わらず、全ての企業が競争の荒海に投げ出される世界です。政府の自国企業に対する保護機能は‘違反行為’と見なされる、いわば弱肉強食を是とする野獣的な世界なのです。
グローバル市場において勝利条件を備えているのは、規模に優る企業であることは言うまでもありません。そしてそれは、ホームとなる国の人口規模が企業競争力を支えていることを意味するのです。つまり、グローバル時代において有利となるのは、現状では、中国企業、米国企業、そしてEU、否、EUを自らの‘庭’とするドイツ企業なのでしょうが、将来的には、人口増加が著しいインド、ブラジル、あるいは、ナイジェリアといった諸国の企業も台頭してくるかもしれません。そして、規模がものを言う世界では、日本国を含めた中小国家の企業が生き残ることは極めて難しくなります。自国の市場規模、すなわち、自国企業の国際競争力を考慮せずに市場を開放することは、柵で守られていた大人しい羊さんたちを巨体化した貪欲なオオカミに差し出すようなものなのです。政府もメディアも、グローバリズムへの参加は時代の必然的な流れの如くに喧伝し、その先に豊かな未来が待っているかのように語りますが、自国企業が置かれている状況を冷徹に分析すれば、‘無謀な戦争’に日本企業、並びに、日本国民を駆り立てているように見えるのです。
真珠湾攻撃については、アメリカを第二次世界大戦に参加さえるための国際謀略であったとする説もあり、この説が正しければ、日本国は、戦争が始まる前から既に中枢部が国際勢力に取り込まれていたこととなります。そして、今日もまた、日本国政府や政界は、今般の‘世界大戦’において自国が‘必敗’となることを知っているのかもしれません。それでも戦前は、総力戦研究所が設置され、若手頭脳集団による忖度なき提言がなされただけ‘まし’であり、今日にあっては、日本国内にグローバリズムにおける企業や国民の将来予測を客観性に徹して分析する機関が設けられているのかどうかも怪しい限りなのです。この状態では、国家と企業が一体化して‘総力戦’を仕掛けてくる中国企業、並びに、その他規模に優るグローバル企業にかかっては、日本国の企業も国民もひとたまりもないのではないでしょうか。