風の遊子(ゆうし)の楽がきノート

旅人を意味する遊子(ゆうし)のように、気ままに歩き、自己満足の域を出ない水彩画を描いたり、ちょっといい話を綴れたら・・・

楽書き雑記「満開になった岡崎市奥山田のしだれ桜」

2014-03-31 20:24:21 | 日記・エッセイ・コラム

    
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ネットで近郊の桜の開花状況を調べていて、岡崎市奥山田の「枝垂れ桜」が満開になったのを知り、すぐさま現地へ。今朝更新したばかりのブログを再び更新して、その枝垂れ桜をご覧いただきます。

幹周り3・22m、根回り3・25m、樹高12・5m。品種はエドヒガン。約1300年前、持統天皇がお手植えしたとの伝承があり、岡崎市の指定文化財になっています。
この古木のそばに若木も植えてあり、ともに淡紅白色から満開時の特徴である白色が多くなって、時おり吹くやや強めの風に枝を大きく広げていました。

1000本のソメイヨシノが咲きそろう岡崎公園の3月31日現在の開花状況は「5~7分咲き」となっていました。

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 (強い風に枝が広がります)

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楽書き雑記「総理の功績を顕彰した銅像だったはずなのに・・・」

2014-03-31 07:47:48 | 日記・エッセイ・コラム

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             (総理大臣の銅像も今は台座だけ)
 

開園から105年の歴史がある名古屋の都市公園・鶴舞公園。面積23・7haの広い園内には、存在やいわれが意外と知られていないモノも少なくありません。正門から入って奥の方へ歩き、竜ケ池の近くにある元総理大臣の銅像が載っかっていた大きな台座もそのひとつです。花見や緑の散策の折に訪ねてみるのも一興です。


加藤高明(1860~1926)。愛知県出身で1924年6月から亡くなる26年1月まで総理大臣を務め、普通選挙法、治安維持法の成立や日ソ基本条約を締結させたといわれています。

銅像は1928年に建てられました。しかし、太平洋戦争時の金属供出で外され、現在は台座のみとなっているのです。地上から銅像のてっぺんまでの高さが12.7m、銅像の部分は4.8mほどあったそうです。

昨年12月の日本経済新聞の文化欄に「銅像はつらいよ十選」というコラムが連載され、顕彰するために建てたはずなのに、忘れ去られ、予想もしなかった運命をたどった像が紹介されていました。


例えば初代だけでなく第5、第7、第10代と4代もの総理大臣を務めた伊藤博文の像。1904年、神戸の湊川神社に建設されましたが、翌年、日露戦争の講和条約に反発した民衆に引き倒され、船の中に匿われました。

その後、神戸の別の場所に新たに建てられたものの、これも加藤高明の像と同様に戦時中に金属供出。船に匿われていた像は故郷の山口県萩市で再建されましたが、これも供出に。旧宅横に改めて建つ像は、この地の名産・萩焼でできた「陶像」だということです。

鶴舞公園の正門ゲートを兼ねたJR中央線ガードに掲げられている「鶴舞公園」の看板も、金属供出の憂き目にあっています。

公園が開園した1909年当時の総理大臣・桂太郎の筆によるもので、当時は青銅板でしたが、供出されて一時はコンクリート製に。現在の看板は1966年に復元されたものです。

         
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(桂太郎の筆「鶴舞公園」)      

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(花見の宴で賑わう鶴舞公園)
 


楽書き雑記「数奇な歴史を語る寺や城址巡る=水彩画教室のスケッチ会」

2014-03-27 17:24:42 | アート・文化

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  数奇な歴史を持つ長母寺 


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 矢田川河川敷

 

僕が通う水彩画教室のスケッチ会が27日、名古屋市の東・守山両区境の矢田川河畔でありました。講師で昨年「名古屋力 妖怪篇」と題する本を出版した山田疆一先生が、少年時代を過ごし妖怪の世界にはまるきっかけになった舞台のひとつ。妖怪にはあまり興味のない僕ですが、数奇な歴史を物語る寺院や城跡、そして春真っ盛りの景色を楽しんできました。

名鉄瀬戸線矢田駅に集合したあと、東区側と守山区側を歩くコース。まず長母寺(東区矢田)を訪ねました。

長母寺は1179年に地元の領主が母親の供養のために建立、天台宗の寺として開基したといわれます。しかし消失。1263年の再建後には臨済宗の住職を迎えて、名称も桃尾寺から長母寺と改められたそうです。

この寺は、所在地が自然の猛威によって、守山区側から東区側に移ったという歴史もあります。寺ごと吹き飛ばされたなんてことではありません。地域の境界線である矢田川が1767年の大洪水で大きく流路が変わり、右岸である守山区側だった長母寺の所在地は左岸の東区側に位置することになったのです。

川の流路が氾濫によって大きく変わった例は無数にありますが、改めて自然のすごさを感じます。
また、長母寺は信長から寄進を受ける一方で、秀吉からは検地によって寺領を没収されるという、政権交代に伴う盛衰も経験しました。濃尾地震(1891年)では本堂が倒壊。「尾張万歳の発祥地」という歴史も持っているそうです。

矢田川橋を渡り、守山区側に入って足を止めたのが、信長、秀吉、家康が覇権争いの主役になる以前の名残といえる守山城址と宝勝寺。守山城は平野の丘陵に建てられた平山城(ひらやまじろ)で、築城・廃城の年は定かではありませんが、宝勝寺の脇に堀や土塁などの遺構があります。

この城では、歴史の「if」として語られる出来事がありました。

世に言う「守山崩れ(森山崩れ)」です。

1535年12月、三河一帯を統一して有力な戦国武将に躍り出た岡崎城主の松平清康(徳川家康の祖父)が、織田信秀(信長の父)の支配する尾張に勢力を広げようと織田家の出城になっていた守山城を、圧倒的な力で攻め落とします。ところが、世は疑心暗鬼が渦巻く戦国時代です。

清康軍内で謀反を企てている家臣がいる、との噂が広がっていました。

そして、清康軍が守山城を制圧した夜、陣内で馬が暴れる騒ぎに謀反が起きたと勘違いした清康の側近たちが噂の家臣を殺害。陣内でそれを知った家臣の嫡男が、親の仇討として清康を討ったのです。

宝勝寺は清康のために建立されたと言われています。

もし、勘違いが起きなければ、天下取りの歴史はどうなっていたでしょう。「if」の所以です。

こうした歴史物語とは別に楽しかったのは、公園や矢田川河川敷ウォーキング。

開花宣言が出て間もないサクラは、まだ「咲き始め」といったところでしたが、春の光を浴びたモクレンやコブシ、ユキヤナギ、ツバキ、そして矢田川の水面などを欲深くカメラに収めてきました。


※矢田川が洪水で流路を変化させ、長母寺の所在地が変わった経緯がネットに分かりやすく掲載された「元守山村・長母寺」と題するページがありました。

www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris52.htm?



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サクラは「咲き始め」でしたが、コブシやモクレンなどは満開でした

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            矢作川に架かる名鉄瀬戸線の鉄橋

 


(楽書き雑記「ギネスもの!!3ヶ月間咲き続けた1輪のミニバラ」)

2014-03-24 09:11:11 | 日記・エッセイ・コラム


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わが家の軒下に置いた鉢で、寒波と大雪の冬を乗り切ってきた1輪のミニバラ(3月6日更新の記事で紹介)は、とうとうこんな姿になりました。すっかり色あせ、大きさも半分ほどに。周りの小枝には新しい葉が広がり、小さな蕾を内包した赤い新芽も次々に吹き出しています。

昨年12月の剪定の際に見つけ、切り落とさずに残しておいた1個の蕾。クリスマス前後に開いた1輪の花は、鉢を守るかのように3ヶ月間も咲き続けたわけです。本来なら冬眠期のはずなのに・・・。
開いた花の命はさまざまです。1日限りで萎んだり、サクラのように数日後に散ってってしまうのもあれば、かなり長~く開いている花も少なくありません。正月前に庭植えしたパンジーの買った時に咲いていた花は、雪を被っても長い間咲き続けていますよね。


ミニバラについて、咲いてから枯れ落ちるまでの標準的な期間がどのくらいなのかは知りません。でも、僕はこのミニバラを「ギネスもの」と褒めてやりたい思いです。

実はわが家の軒下ではもうひと鉢、これまでは果たせなかった冬越しをクリアした花の苗が成長しています。開花したら紹介したいと思います。


楽描き風景水彩画「サクラの絵を早出しで」

2014-03-22 09:55:33 | アート・文化

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冬型の気圧配置も緩んで、きょう22日は朝から春の日差しがいっぱい。サクラ前線も一気に北上するでしょう。
名古屋の開花宣言もあと数日で出そうです。昨日出かけた市内の大高緑地で見かけた古桜のつぼみの中にも、赤ちゃんの指先ぐらいに膨らみ、がく片が今にも開きそうなのがありました。

そこで、これまでの花見で撮っておいた写真の一枚を絵にしてみました。場所は名古屋の山崎川堤防。橋も入れた絵葉書的な作品ですが、あと1週間余もすればこんな景色が期待できそうです。


楽描き風景水彩画「貨物車と水田の轍(わだち)=稲沢操車場スケッチから②」

2014-03-19 08:36:28 | アート・文化

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先の稲沢操車場(愛知県稲沢市)スケッチ会で描いた4枚のうち、残っていた2枚を掲載しました。



一枚目は屋根のついた有蓋貨車。高架道路下の線路にぽつんと止められていました。雨に煙る背後に立つのは、セメント工場のプラントです。いずれも10号大で描きました。
画用紙は初めて使った用紙。2月20日更新の稲沢スケッチ①で掲載した「機関車」を描いた紙よりもさらに暗い黄土色で、薄いうえに所々に小さなシミのような模様が不規則に散らばっています。絵の具ののりも難しいようです。こうした紙の特徴をどう生かすかを考えつつ彩色しましたが、ちょっと不気味な作品になりました。


もう一枚は線路際にある水田で見かけたトラクターのものらしい轍(わだち)の跡です。かなり前にできたらしくタイヤの溝の模様は残っていませんが、田んぼの黒い土が雨に濡れて、これまた妖しげに光っていました。

楽書き雑記「お陰さまで、ブログ開設1周年」

2014-03-16 09:09:27 | 日記・エッセイ・コラム

ページを開いていただき、ありがとうございます。

今日3月16日は「何の日」でしょう。

大げさすぎますが、実はこのブログ「風の遊子(ゆうし)の楽がきノート」の誕生日なのです。満1歳になりました。


「高齢者としての日々の楽しみになれば・・・」「趣味の街歩きなどで目にしたことを書けないか」「5年ほど前から始めた水彩画の愚作を見てもらえないか」がブログ開設の動機でした。僕は典型的なメカ音痴。でも、いつまでも息子任せにしてはダメと、プロバイダのブログガイドと格闘しながら数日がかりで立ち上げたのを思い出します。
更新に追われ、数ヶ月で音(ね)を上げることも覚悟してのスタートでしたが「無理をしない」をモットーにこなしてきました。それでも、これを書くために更新歴を調べてみると100回を超えており、我ながら驚いています。

プロバイダから届くアクセス解析によると、予想していた以上の閲覧者数・閲覧回数があること、時間をかけて読んでくださっている方々も少なくないことに、心から感謝しています。
もちろん「もっとマシなことを書けないのか」「絵も相変わらず上達しないね」のご指摘もあると思います。レイアウトの工夫など、課題も多々あるでしょう。

それにしても、僕自身はブログを始めてから、行動範囲だけでなくモノを見る気持ちや姿勢、資料やデータを調べる億劫さからの脱却など、このトシになって「成長したな」と感じています。
展覧会の鑑賞ひとつをとっても、漫然と見ることは少なくなり、出展者の姿を見つけると創作の動機や過程を取材していることがあります。
「ボケ防止にはなるだろうな」。現役時代の同僚たちのからかいですが、その通りかなと思っています。


楽書き雑記「枝垂れ梅、やっと満開」

2014-03-14 19:40:51 | 日記・エッセイ・コラム

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繰り返される気温の上下に戸惑っているようだった名古屋市農業センターの枝垂れ梅が、やっと満開と言えるようになりました。「しだれ梅まつり」が開催中の園内は、700本の紅白の彩りと甘い香りに包まれています。

寒波の南下による冷え込みで、祭りが始まった先月25日は数本が3分咲きぐらいの花をつけていただけ。先週末は7分ほどの開花状況でしたが、12日からの気温の上昇で残っていた蕾が一気に開いたようです。
14日に訪ねました。

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楽書き雑記「満開。サクラ! ウメ?」

2014-03-13 14:08:03 | 日記・エッセイ・コラム


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(バスの車窓からはこのように見えたのです)

名古屋・瑞穂区の新瑞橋バスセンターを発車直後、車窓から目にした風景に驚き、戸惑いました。淡いピンクの花が広がる木は、サクラのようです。そこは700本のソメイヨシノの古木が並び「日本さくら名所100選」に選ばれたこともあるという山崎川堤防。僕も何度か花見をしたことがあります。

「名古屋のサクラの開花予想は、まだ2週間ほど先の3月26日ごろのはず・・・」と思いながら、車内の「あれは早咲きのサクラだよ」の会話に納得しました。

でも、家人の「ウメじゃないの?」の言葉がひっかかりました。「早咲きサクラでもいい。この春初のサクラ見物をしてこよう」「たとえ、ウメであっても、サクラの名所に堂々と咲くなんておもしろい」。翌13日朝、雨の中を出かけました。


「この姿はやっぱりサクラだ。すごい。あとで管理している市の土木事務所に品種などを問い合わせよう」。ほぼ満開に近い巨木を離れたり、近づいたり、角度を変えて何枚かカメラに収めているうち、木の脇の柵に掛けられた看板が目にとまりました。

そこには、こうありました。
「豊後梅(ぶんごうめ)。バラ科。中国原産。奈良時代に渡来し、鑑賞や梅干、梅酒、梅ジュースなどに利用され、全国に分布。名古屋市内では最大級の豊後梅です」(瑞穂土木事務所)

正解は、ウメだったのですね。
花に近づいて写した時、花弁の数や雄しべ・雌しべの形に「?」がよぎったのですが、サクラだと思いたい気持ちが強かったせいか、看板を読むまでウメとは思いませんでした。僕のように勘違いしたり迷う人が少なくないので、土木事務所も看板を掛けてくれたのでしょう。

「サクラだと思ったのだけどなあ」と内心つぶやく僕。「サクラが一輪ぐらい咲いているんじゃないだろうか」。ソメイヨシノの並木を見上げつつ、しばらく堤防を散策してきました。

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(手前の木は蕾のかたいソメイヨシノ。

後ろに豊後梅。黄色いのは夏ミカンです


楽書き雑記「考え、覚醒された作品――愛知県立芸術大学の卒業・修了制作展から」

2014-03-09 11:37:54 | アート・文化

若いってすごいなあ。陳腐な表現ですが、愛知県立芸術大学の卒業・修了制作展、(3月4日~3月9日、愛知県美術館・県芸大芸術資料館)を見ての感想です。2会場のうち県美術館だけの鑑賞でしたが、けれん味がなく個性的な作品の数々に、これからの実り多い「制作人生」を期待したいものです。

日本画、油画、彫刻、デザイン、陶磁、芸術学の各部門の作品が、8階フロアの10部屋に並びます。まず注目したのは日本画部門でした。
このブログ「日本画界の新星と85歳の新入生」(昨年12月19日更新)で取り上げた「新星」が愛知県芸大卒の若い作家たちだったこと、さらに芸術関係の月刊誌で松村公嗣学長(日本美術院同人理事)が「今年の院展の入選者270人のうち54人が愛知芸大だった」と話されているのを読み、「ついに、あの東京芸大を抜いたのだ」と強い関心をもったからです。

他の部門と同様、日本画も僕のような素人では作品の出来、不出来を述べることなどできませんが、18点の展示作品は個性的で大胆なモチーフ、彩色はさすがです。

それとは別に、僕は2人の学生が取り組んだ復元模写に興味を持ちました。
復元模写は、日本の絵画教育ではあまり重視されてこなかったように思います。でも、名古屋城本丸御殿の障壁画の復元模写を例にとるまでもなく、先人が遺した文化遺産を後世に伝える極めて大切なことですね。
以前、ある美術館で出会った若い女性学芸員が「いまのままではダメになってしまう重文級の絵画の復元に取り込みたい」と、イタリアのフィレンツェなどで復元技術を学んだことを振り返りながら、熱っぽく話してくれたのを思い出します。
どのような素材と技法が使われたのか。描かれた時代背景や絵師の感性は・・・。古文書を読んだり、化学的知識も欠かせません。拡大鏡や断層写真など各種装置を使っての研究・分析も必要でしょう。
復元模写がいかに大変で意義あることかを、2人の復元模写作品の前に置かれたリポートに目を通しながら考えました。


デザインの部門でも「山のしごと」と題した印象に残る作品に出会いました。

スギやヒノキの山林や伐採した木の搬出道路などの写真と、手作り作品らしい木製の椅子とテーブルに3冊の本が置かれているという、見過ごしてしまいかねないコーナーでしたが、本を手にして引き込まれたのです。

そこには、日本の国土は7割が森林であること、世代を超え100年後を見据え植林・伐採して守り育ててきた人たちがいること、いまの自然や緑豊かな山はこうした先人たちの試行と知恵を積み重ねてきたから存在することを強調。そのうえで、江戸時代から受け継がれてきた三重県の林業家のもとに生まれた作者が、家族や山仕事に携わる人たちの語る思いなどを紹介しつつ、林業の一端を書いています。

正直言って「これがデザイン作品?」と思った自分が覚醒されました。

          
      
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楽書き雑記「寒波・大雪を乗り切って一輪のミニバラ」

2014-03-06 09:10:03 | 日記・エッセイ・コラム

                           
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                   (前夜からの強風も乗り切って微笑むミニバラ)


大寒波、記録的大雪。名古屋でもこんな言葉が飛び交ったこの冬。それを乗り切った一輪のミニバラが、わが家の軒下に置いた鉢で咲いています。開花して2ヶ月余、感動と驚きで見守っています。

昨年の12月中ごろ、残っていた枯れた花ガラを取り除きながら剪定していて、蕾が1個だけ残っているのに気づき、その枝だけ切り落とさなかったのです。ミニバラは毎年植え替えた方が良いそうですが、わが家では2、3年おきにしか植え替えていません。水は冬のあいだも数日おきに少しだけやっています。

花が開いているのに気づいたのは、クリスマスごろだったと思います。ふだんの花よりもやや大きめです。残しておいて良かったとの思いが、やがて驚きに変わりました。
年が明け、1月が過ぎ、寒波と雪の2月も咲き続けました。
そして、3月の今朝(6日朝)。前夜来からの強い風を心配しつつ鉢に近づくと、ニコッと微笑んでくれました。周りの枝には赤茶色の新しい芽が吹き出しています。

ミニバラについて詳しいことは知りませんが、開花期は11月半ばまでで、冬は「冬眠期」のはずです。
僕なりに推測すれば、軒下なので雨や雪を避けることができたことが第一の要因でしょう。もう一つ、ミニバラは日光を好むようですが軒下は日差しが少ないので、休眠状態のまま花を付けてきたのではないでしょうか。
要因がどうあろうと「ミニバラさんありがとう」です。


楽書き雑記=後輩が歴史小説「根来僧兵奮戦の地」をネットで発表

2014-03-02 11:23:32 | 日記・エッセイ・コラム


現役時代の仕事仲間で今も嘱託として働く後輩のKさんが、戦国時代の勢力争いに巻き込まれた僧兵をテーマにした歴史小説を、インターネットで発表しました。「根来僧兵奮戦の地」。信長、秀吉、家康ら有力大名にスポットをあてた読み物に比べれば、組織と武力を持ち戦国大名の手駒的存在として生きた彼らを主役にした作品は少なく、興味深く読ませてもらいました。

「かなり前に祖母から『うちの祖先は、根来の僧兵だった』と聞いて興味を持ったのが始まりです。仕事が休みの日に、国会図書館や関連する城、寺院などを回って古文書を読み、少しずつ文章にしてきました。そろそろ子供たちにも残しておいてやろうと発表に踏み切ったのです」とKさん。

原稿用紙で20枚ほどありそうな章が、91章もある大作を一気に掲載。読むにはかなりの時間を要しましたが、さすが調査力、取材力、文章力に定評のあった彼ならでは、と感心しました。

戦国時代、野心を持つ大名を軸に荘園領主や寺院・神社、有力商人、水軍、それに情報収集能力を売り物にする忍者組ら、宗教勢力や権益組織、地域勢力などの武装集団が「あっちにつき、こっちにつき」合従連衡して国取りの戦いを繰り広げました。この小説の「根来衆=ねごろしゅう」もその一つです。

根来衆は、和歌山県北部の岩出市にある根来寺を中心に、宗門の寺院の行人(ぎょうにん=僧)、信徒らで構成されていました。
根来衆の強みは銃で武装していたこと。ポルトガル人からの鉄砲伝来を知った根来衆のひとりが種子島に渡って鉄砲と銃弾、火薬の製法を持ち帰り、国産初の銃を手にしました。
量産化する一方で、僧兵たちが鉄砲で武装して戦闘訓練。戦国大名たちも無視できない存在になり、根来衆も彼らとの戦略的同盟に盛衰を賭けたのです。

小説は、農民から志願して根来寺の行人(僧)となった2人の男たちを主人公にして、国取りを争う信長、秀吉、家康らと根来衆の関わりを軸に、根来滅亡までを描いています。

僕は歴史小説に詳しいわけではなく、大河ドラマも近年はあまり関心がありません。戦国時代の勢力図や系図、名の知られた戦いについても同様です。それでも興味深く読めたのは、彼の調査資料の蓄積と表現力の結果でしょう

例えば、石屋、経木屋、仏具屋の店や仕事場が並ぶ門前町の描写。作業に精出す塗師や弓師、法衣の僧、鉄砲を担いだ行人らの動きが、騒音や土埃、匂いとともに伝わってきます。それを導入口に根来衆の鉄砲製造へと話を展開する。小説の常道とはいえ、その丁寧さと豊かな表現に引き込まれました。
僧兵たちの部隊の編成、鉄砲や槍の訓練。ひとつ一つに、資料収集を重ねた努力を感じます。往時を見ていたかのような描写や表現は巧みです。でも、それを素直に読めるのは説得力があり、読み手を引き付けるのでしょう。

なぜヒトは戦争を繰り返すのか。武装集団である僧兵や武士がどのようにして誕生したのか。荘園とはどのようなものだったのか。それらを、モノ知りの老人に語らせる手法を使うなどで克明に書いています。
秀吉が茶や能、謠に興じる場面でも筆者の知識に驚きました。茶室の様子や茶の湯の所作が長々と書かれていますが、退屈どころか僕の乏しい教養が補われる思いで読むことができました。

地理に明るく、寺院や城の構造、置物、道具といったものが詳しく書かれているのは、職業柄でしょう。農村の暮らしや風景。彼は素足で畦道を歩き田植えをした経験があるのでは、と思わせます。
僕も、文章を書く時、文献や今ではネットも活用して調べますが、小説の中で活かすのは容易ではなかったと推察します。文献やネットで元々間違っていたデータをそのまま引用したらしいものに出くわすことがありますから。

2人の主人公は無名の兵卒。登場回数も少なく存在感が薄いのですが、何が何でも主人公を中心に展開しなければならないとは思いません。

「いずれ自費出版もしたいですね」とKさん。

いいですね。その際は、できれば難解な用語には章の末尾に注釈を。写真、地図、系図、勢力図、イラストの挿入や、お得意のレイアウトも生かしてください。期待しています。

※僕はネットに熟知していないので、「根来僧兵奮戦の地」を開くのには手間取りました。

Kさんによれば、

グーグルやヤフーだと

http://www.ne.jp/asahi/katagi/home/negorosenseki.htmlを入れるか

negorosensekiの文字で検索すれば開けるようです。


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※秀吉・家康の両軍が激突した「小牧長久手の戦い」の中で、帰すうを決する戦いの舞台となった「岩崎城」(愛知県日進市)と城下の今