名古屋の学生たちが編み出し「よさこい・ソーラン」をモチーフに踊りまくる「第16回にっぽんど真ん中祭り(愛称・どまつり)」が、29日から31日まで、名古屋の栄や名古屋駅前など19会場を舞台に繰り広げられました。
参加したのは、地元東海地方だけでなく、鹿児島から「よさこい」のルーツ・高知、ソーランの本拠・北海道まで、全国各地から200余チーム。大学、地域、町内会、商工会、職場、保育園の子供たちなどを単位に編成した「踊り大好きっ子」たちが鳴子(なるこ)を両手に集結しました。
音響機材を積み込み、ボリュウムいっぱいに上げた地方車(じかたしゃ)と呼ばれる車を先頭に、それぞれチーム編成地の祭や見どころ、民謡を織り込むなど、趣向を凝らした曲や歌、振り付け、カラフルな衣装でエネルギッシュな踊りを披露。沿道や公園を埋めた市民からの拍手と歓声に包まれていました。
カメラに収めた何枚かを掲載します。
水彩画教室のスケッチ会で名古屋市中村区の「中村公園」、さらに足を延ばして旧中村遊郭街を歩いてきました。
中村公園は、この地の生んだ豊臣秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)が1885年(明治18年)に建立されたのに併せて開設されました。園内には秀吉の身内や同じくこの地出身の武将・加藤清正らにまつわる寺社も並んでいます。
秀吉を祀った豊国神社は京都や大阪、福岡など縁のあった各地にありますが、名古屋は生誕地であること(ここから800メートルほど離れたところ、などの説もあるようです)や何かと豪華で派手な秀吉のイメージからすれば、神社の建物は質素な印象です。
豊国神社を囲むように、加藤清正が名古屋城築城の際に余った材木で建てたという妙行寺、清正が出陣の際に必勝を祈願したと伝えられる八幡社、戦国時代や戦国武将の姿などを文書や絵画でたどる記念館なども。また、石畳や藤棚の古木、それに秀吉の馬印にちなんで植えられた瓢箪もカメラに収めながらの散策でした。
中村公園のあと、歩いて20分ほどの旧中村遊郭跡へ。
1923年に約10万5000平方メートルの用地を整備してできたとされる中村遊郭は、140軒ほどの娼家があり、約2000人の娼妓がいたといわれています。
1958年(昭和33年)、売春防止法によって廃業、転業。跡地にはマンションや病院、スーパーなどが建ち並び一変しました。街路の人通りは少なく、閉じられた飲食店や商店も目立ちます。
でも、ところどころに往時を偲ばせる建物や看板などが点在。うち、4軒は名古屋市の都市景観重要建築物に指定され、この日も我々だけでなく懐かしい風景をカメラに収める人が見受けられました。
その1軒である稲本。赤いべんがら塗りの塀、反り返った屋根の門が異国の風景を思わせます。
転業後は料亭として営業。夜だけでなくランチを楽しめる時代もありました。
ごく数少ない機会でしたが、料理だけでなく豪華で華麗な座敷の造り、年代物の装飾や置物、さらには日本庭園の見事さを味わったものです。
現在は他の建物とともに高齢者向けのデイサービス施設へと生まれ変わり、地域社会に貢献しています。
稲本の庭園のある風景を歌手・女優で版画作家でもあるジュディオングが創作した木版画「紅楼依緑」が2005年の日展で特選に。作品を目にした僕も、その素晴らしさに魅せられた記憶がよみがえりました。
いかつい顔。頭には角。そして体を覆う分厚い鎧〈よろい〉。皮膚が盛り上がって出来たブツブツがあちこちにあって、その姿からインドサイは「ヨロイサイ」とも呼ばれています。突進力もありそうです。
思わず、後退りしそうになりますね。
でも、落ちついて見ると、すごくユーモラスです。
耳や尾の先端以外は体毛がなく、その巨体とはうらはらに小さな目。愛らしささえ感じます。
性格もおとなしいとあって、客の人気も高いようです。そういえば、先にあった東山動物園のイベント「ナイトZOO」のポスターも、主役はサイ君でした。
僕も描いているうちに親しみが沸いてきました。
湿原や草原、森林に暮らし、食べ物は草や果実、木の枝など。水浴びをするか、昼寝をするか、食べるかで一日を費やしています。
で、僕はこんな想像をしてみました。
「もしインドサイが肉食だったら・・・」
ライオンに与えられている「百獣の王」の称号は、間違いなくこちらのものになるだろうな。
ふだんの動きはゆったりですが、驚いたり興奮するとかなりの速度で走るそうです。
㊤の絵は、突然、頭を突き出すようにして小走りに駆け始めたところです。何事かと驚きましたが、走る先にいた仲間に近づくと、体をこすり合わせるようにして会話を楽しんでいるようでした。
㊦は正面から。いかついけど憎めない顔でしょ。
角を漢方薬にするための乱獲、密猟などによって生息数が減り、絶滅危惧種に指定されています。
「若き日の挑戦と情熱の息吹」。
このようなテーマを掲げた、現代美術作家で僕が通う水彩画教室の講師でもある山田彊一さんの個展が19日、名古屋の名古屋画廊〈中区栄1-12―10〉で始まりました。8月30日(土)まで。日曜は休館。
教室の生徒らを率いて、昨年はメキシコ、今年はニューヨークへと出かけ、「今度はニューヨークで妖怪展をやってやろう」と、75歳とは思えぬエネルギッシュな活動を続ける山田さん。「こんな僕の原点はここにあります」という20歳代の作品が並んでいます。
山田さんは名古屋生まれ、名古屋育ち、名古屋暮らし。いわば生粋の名古屋っ子です。
絵かきを目指し、愛知学芸大(現愛知教育大)に進んだ山田さんは、具象画から半具象、そして抽象画へと画風を変えて行きました。「僕も水彩画で風景画などを描いていたけど、写実的な絵では満足できなくなった」と現代美術に転向したころを振り返ります。
20歳代前半はインドのバラモン教をヒントにした「婆羅門シリーズ」を発表。20歳後半には「装飾画を捨て、自分の内面を描こう」と、小学5年生ごろから心の奥にあった自分の死を見つめて創作したという「現代餓鬼草子シリーズ」で美術界に頭角を現し、受賞を重ねました。
今回の個展には、この2つのシリーズの作品を20点余り展示しています。
1960年代の若き日のこのような活動が、山田さんのその後の創作やパフォーマンスの原点、というわけです。
しかし、現代美術が歩んだ道と同様、山田さんや仲間の活動も平坦ではなかったようです。理解されない、評価されない、さらには発表の場から門前払いを食らう・・・。
「僕の創作人生は既存の美術や、公募団体を中心とした中央画壇の組織や権威主義に対する反発と挑戦の日々だった」
「中央以上に僕が打ち破りたかったのは、名古屋の美術界の保守的思考です」
「でも、そうしたことが僕の活動のエネルギーにもなった」
山田さんが教室での話や著書の中で繰り返している言葉です。
今回、名古屋画廊が改装オープン記念として山田さんの個展を企画したことについて、同画廊の中山真一社長は話します。
「今の美術界は行き詰まり、展覧会の多くは集客重視。そんな状況を打ち破るためにも将来性のある若い作家の発掘や、埋もれていた作家や作品に日を当てて行こうと考えています」
「同時に、現代美術で新しい時代を切り開いてきた山田先生のような作家の原点を知り、美術界の活性化につなげていくことも、我々ギャラリーの役割だと思っています」
名古屋画廊は、地下鉄伏見駅6番口から御園座方向へ向かい、御園座からさらに50メートルほど進んで信号を渡った角にあります。
※写真は左クリックすると、大きくなります。
名古屋・東山動物園で17日(日)まで開催している「ナイトZOO」に孫と行ってきました。前半の初日、2日目が台風11号の接近で中止されたとあって、後半がスタートした14日に出かけた園内は日中でも見られないヒト、ヒト、ヒトの波。その光景には、動物たちもさぞ驚いたことでしょう。
東山動物園の「ナイトZOO」は3年ぶりの再開。園舎の一部や噴水がライトアップされ、イルミネーションや明かりの動物アートなどもあって演出十分です。
インド象のさくらちゃん親子、ライオン家族、冷たいミスト(霧)を浴びるペンギンたち、高いところに吊るされた草を食べるキリンなどの園舎の周りはカメラを手にした分厚い観客のかたまりができていました。
ただ、フラッシュ、ストロボの使用は当然のことながら禁止で、僕の持っていった感度不足のカメラでは十分に撮影できませんでした。ここに掲載したうちの何枚かは日暮れ直後までに写したもので、いずれ水彩画にしてこのブログの「東山動物園の仲間たち」にも掲載したいと思っています。
また、大きな上池では足こぎボートに孫と初めて乗ることができ、真夏の思い出の1ページになりました。
「真夏のいま、どうかな」とのお言葉を受けるかもしれませんが、今回はペンギンたちに登場してもらいました。
「暑い、暑い」と言いながら、ペンギンたちも頑張っているのです。「これが仕事だから」と言わんばかりに。
もちろん、動物園では冷たいミスト(霧)を吹きかけたり、冷房で応援しています。
絵は3羽のペンギンたちが、このように並んでいたところをカメラに収め、描きました。
まるで大相撲の横綱の土俵入りみたいですね。それとも2人の子どもを見守るお母さんかお父さん、あるいはよその子にも優しく声をかけてくれる近所のおばちゃんかな。
実は3羽とも大人のペンギンです。それぞれ種類が違うのです。
東山動物園のペンギン舎にいる3種類のペンギンが偶然、1羽ずつ並んで立っていたのです。
〈オウサマペンギン〉
右上の大きなペンギンです。ペンギンの中でも有名なコウテイペンギンに次ぐ2番目に大きい種類だそうです。
卵を温めるための巣は作りません。
テレビの動物番組などでご覧になった方が多いとと思いますが、コウテイペンギンと同様、立ったままの姿勢で卵を足の上に乗せて股に挟み込むようにし、下腹の皮膚で包み込んで温めるのです。
〈イワトビペンギン〉
手前のペンギンです。頭に冠羽というフサフサした羽をつけ、目の上からは飾り羽という黄色い羽が数本伸びています。
名前の通り岩の上をピョンピョン跳んで移動します。気が強くて喧嘩好きだそうです。
〈フンボルトペンギン〉
左上のペンギンです。暑さに強くて、夏でも冷房装置は必要ないそうで、動物園や水族館でよく見かける種類です。
でも、近年の自然環境の変化やエサとなる魚が減少したことによって減り続け、現在では1万羽を切るほどとか。絶滅危惧種に指定されています。
ホットリップス(チェリーセージ)
ゼラニウム アジサイ
ブログで、園芸のプロのアドバイスやマニアの体験談を読みながら、挿し木を試みました。写真はその成果です。
挿し木はこれまでにも経験はあります。
でもそれは、枝や茎を剪定バサミで適当に切って、庭にそのまま突き刺すか、庭土に鹿沼土などを混ぜてポットに入れ挿すだけでした。狭い庭なので2,3本でも成功すればいいや、ということもありましたが、それにしても乱暴でアバウトなやりかたですね。
今回は違いました。
挿し木の基本・方法をブログで学んで試みたのです。
①挿し穂を切り取る際は、切り口を潰してしまいがちな剪定バサミではなくカッターナイフを使う
②挿し穂に残す葉は4枚前後。大きな葉は半分ほど切り取っておく
③植物活力剤を入れた水に挿し穂を浸けておいてから挿す。草花は5~15分。アジサイなどは1時間ほど。
④用土はバーミキュライト、鹿沼土、ピートモスなど、栄養分のないものをつかう
⑤挿し穂の切り口を傷めないために、ポットの中央に割り箸で穴を開けてから挿す
⑥明るい日陰に置き、乾燥させないよう水をこまめにやる。発根段階の散水は、水圧で穂を倒してしまわないようジョウロでおこなう
6月末。選んだ挿し穂は、庭に咲いていたホットリップス(チェリーセージ)、このところ新芽の出が悪くなっていた吊り鉢のゼラニウム、花がまだ盛りだったアジサイの3種。
どれも、挿し木が比較的簡単といわれる草木なので、多少実験もしようと挿し穂の葉を6枚ほど残したのや蕾を残したもの、用土もバーミキュライトだけのもの、鹿沼土の混ぜ具合をいろいろ変えてみたりしました。
弱っているなと見ると、ジョウロの水に活力剤を加えたりもしました。
根付いたあとは液体肥料をやっています。
今のところ、散水の際にジョウロが発根期の穂に触れて倒してしまった数本以外は根付いたようです。
ゼラニウムの挿し穂に残してあった蕾が開き、ホットリップス(チェリーセージ)に新しく伸びた枝の先には蕾ができています。
秋口になったら今度は何を――。
ひところに比べて花数が減ったテッセン、芽吹きや樹勢が弱くなったアメジストセージ(メキシカンセージ)などを物色しています。
高知市内のザ・クラウンパレス新阪急高知で8月2日夜に催された、母校・高知学芸高校の第52回同窓会総会に出席してきました。
ニュースでもご存知の通り、台風12号の余波は四国全県、とりわけ高知県に記録的豪雨をもたらしました。高知市内全域に避難勧告が出され、JR土讃線や高知自動車道がほぼ全面運休や通行止めになるなかで、総会が滞りなく行われたのは奇跡といえるかもしれません。
母校の同窓会の企画・運営は、ちょうど50歳になった同窓生が担うことにしています。ことし卒業したばかりの会員から僕のように半世紀以上たった会員まで、幅広い世代で構成する同窓会だけに、ほぼ真ん中の50歳に任せれば双方への気配りも行き届くし、この方式なら毎年面倒な幹事団づくりをする必要もない、というわけです。
総会では事業報告とともに関東や関西などの支部活動の報告。中部支部の僕からは、同窓生が講師になり、同窓生が聴講する内輪だけの文化講演会を開催しており、「トヨタ・ハイブリッドのなかみ」「土佐の生んだ詩人たち」といったテーマで実施したことを報告しました。
懇親会では吹奏楽部OBらによる演奏などもありましたが、僕が注目したのは、同窓生による「特別授業」。中部支部同窓会の文化講演会と同様「自前授業」です。
講師は京都大学理学研究科地球熱学研究施設・助教の川本竜彦さん=写真。川本さんもちょうど50歳です。
川本さんは「火山の噴火は、地球深くにあるマグマに溶け込んでいた水が大きな気圧によって溶け込めなくなり、水蒸気になって体積が急に増えることから起きるのです」と切り出し、「マグマに溶け込んでいる水は、100キロの深さにある海洋プレートから運ばれ、これがプレートの上にあるマントルに加わることでマグマができるから」と続けました。
川本さんらは、上昇するマグマに引っ掛てきたマントルの岩石を調べたところ、炭酸ガスを含んだ塩水を発見したそうです。水は塩水だったのです。
また、フィリピンのピナツボ火山で採取したマントルの岩石の中にあった水の詰まったカプセルを冷やしたり、温めたりして氷を作ってみた結果、氷が溶ける温度はマイナス3度、水の塩濃度は地球表面の海水の平均塩濃度3・5%を上回る5%だったそうです。
日本列島のようなプレートの沈み込み帯で地震や温泉、火山などの地学現象があるのは、海洋プレートの水が原因。その水は海水であり、海があることで地震、温泉、火山がある、と結びました。
みなさん、分かりましたか?僕には難解でした。なにせ、最初にテーマを見たときは「川か海の水の話だろう」と思ったくらいですから。
それでも、会場の2カ所に取り付けた大型スクリーンの映像による説明もあって何とか理解できた気になり、鹿児島県口永良部島の新岳が3日に噴火したニュースも、新しい知識で見ることができました。
冒頭に書いたように記録的豪雨に見舞われた四国路はマヒ状態。僕が高知へ向かうため岡山から乗った特急「南風」は徳島県の阿波池田で運転停止。でも、代行バスで高知へ向かうことができ、同窓会にも間に合いました。
翌3日は高知市内全域に避難勧告が出て、市内を走る路面電車も運休。デパートも午前中で営業を中止。僕はホテルに閉じ込もるしかありませんでした。
4日もほぼ同じ状態。結局、陸路をあきらめて高知龍馬空港に向かいました。
ちょっと疲れましたが、子どものころから慣れ親しんだ「台風銀座」ともいわれる高知の自然との関わりを、改めて思い起こしたりしました。
今週末からは「高知よさこい祭り」。台風11号の動向が気がかりです。
まもなく「終戦の日」(8月15日)。同じ過ちを繰り返すまいと、ことしも平和を語る集いや戦争遺跡巡り、戦争関連の資料展などが各地で企画されています。
僕も、戦地に散った兵士たちの遺品などが常時展示されている「愛知平和記念館」(名古屋市中区3の丸1丁目)を訪ね、平和への誓いを新たにしてきました。
「愛知平和記念館」は、愛知県護国神社そばの桜華会館3、4階にあります。4階の展示室はさして広くありませんが、戦没者の遺族から寄せられた遺品や、サイパンやレイテ島での遺骨収集で発掘した品などが並び、戦争の悲惨さを生々しく伝えてくれます。
日本軍が玉砕したフィリピン・レイテ島で使われた92式重機関銃、船首部分に爆薬を装填して敵艦に体当たりした水上特攻艇「震洋」の模型、弾丸が貫通した穴の空いたヘルメット、軍刀、銃剣、拳銃、防毒マスク、手榴弾、鉄兜、軍靴、カメラ等々。
大本営が連合艦隊に対して、1941年12月8日にハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃することを命令した暗号電報「新高山登レ 一二〇八」(にいたかやまのぼれ ひとふたまるはち)や、奇襲作戦が成功したことを報告する略号電報「トラ・トラ・トラ」のコピーも展示されています。
展示物の一つひとつを厳粛な思いで見て回りましたが、中でも重く受け止めたのは戦死した兵士たちが戦線で身につけていた遺品です。
腕時計、軍隊手帳、万年筆、水筒、茶碗、飯盒(はんごう)、軍服、軍帽、腰巻、数珠、それに奥さんや肉親、友人たちからの武運長久を祈る日の丸や寄せ書き、慰問袋など。遺品のいくつかは、いまだ消えない血で染まっています。
遺品のそばには、それらの持ち主だった兵士の戦死通知が。辞世の歌も胸を打ちます。
指先でつまめそうな金属片らしいものがありました。説明書きによれば、軍旗の竿頭に付いていたもので、玉砕戦の中でも「部隊の命」は守り通した証(あかし)というわけです。
ここに展示品の写真を掲載することはできません。
戦争遺品の写真は、これまでに僕も何度か目にしたことがあるので「撮影禁止」の文字に一瞬がっかりしましたが、すぐ納得しました。
展示品のひとつ一つを絵画展の作品などを見るよりも、はるかにじっくり見ている自分に気づいたのです。沖縄、長崎、広島などの資料館でも実感した「実物を目にすることのすごさ」を改めて知った次第です。
また、ここでは展示品の説明なども基本的なデータだけで、過大な文章などは見当たりません。
これも納得です。遺品そのものから平和への訴えが伝わってくるからです。
大空襲や戦後の生活困窮など戦争被害を思い起こすことと同様、遠い戦地に散った兵士たちの命に思いを馳せることは、極めて大切なことだと改めて思いました。
愛知平和記念館のある名古屋市中区3の丸地区は名古屋城などに近く、強い日差しから守ってくれる緑も豊かです。
入館料は無料。土曜・日曜・祝日は休みです。