風の遊子(ゆうし)の楽がきノート

旅人を意味する遊子(ゆうし)のように、気ままに歩き、自己満足の域を出ない水彩画を描いたり、ちょっといい話を綴れたら・・・

楽書き雑記「名古屋で『どまつり』。鳴子両手に踊りまくるよさこい・ソーラン」

2015-08-29 17:23:30 | 日記・エッセイ・コラム





  

        

名古屋の暑い夏を締めくくる「にっぽんど真ん中祭り」(どまつり)。

前夜祭の28日、本祭の29・30両日の3日間、空模様を気にしながらの日程になりましたが、名古屋・栄の大通りをはじめ愛知県内21会場で賑やかに、華やかに踊りまくります。

どまつりは学生たちが編み出し、ことしで17回目。大学や地域、職場などで構成した踊り部隊が、地元東海地方や台湾など国内外から
約200チーム、2万3000人が参加。
29日に栄や天白区平針商店街の会場をのぞくと、それぞれ
「よさこい・ソーラン」をモチーフに趣向をこらした曲と歌、振り付け、衣装で「鳴子」を手にした踊り子たちが次々に登場。音響機材を積んだ地方車(じかたしゃ)を先頭にエネルギッシュな踊りを披露してくれました。

沿道ではカメラを手に大勢の市民が拍手と喝采で迎え、平針会場では踊り子たちを冷たいお茶でもてなす光景も。よさこいのふるさと・高知の出身である僕も胸弾ませてカメラに収めてきました。
 
  

 

 

  

   

             

                 お疲れ様でした。冷たいお茶をどうぞ=平針会場で
  




 

 

 

 




楽描き水彩画「スイレンの池を泳ぐ『恋仲』の鯉=また明日ね」

2015-08-25 07:21:59 | アート・文化

      

公園の池や沼、古い町並みの流れで目にし、カメラに収めながらも、その優雅で華麗な姿と動き、水面や水中をどのようにして表現するかに迷い敬遠してきた鯉を描きました。

鯉の絵でよく見かける滝のぼりの鯉は難しそうなので、多少ストーリー性のある姿を描こうと選んだのが、このシーンでした。名古屋の東山植物園にあるスイレンの浮かぶ池を泳ぐ2匹の鯉です。

群れから離れて、何やら会話を交わしているような2匹の鯉。
カメラ向けた瞬間でした。互いに尾ひれで水をはじくようにして回転、波紋を残して左右に離れていきました。「じゃまが入った」というわけでしょう。「また明日ね」
2匹の鯉の関係は? そりゃ「恋仲」でしょ。

オヤジギャルはさておき、もうひとつの課題である浮かぶスイレンと水面の描き方は、モネから教えてもらいました
訪れたことのあるフランス・ジベルニーの「モネの家と庭園」や、高知県北川村の「モネの庭」を思い浮かべ、画集を開いて色や塗り方を見ながら描きました。
スイレンの花の色はピンクがいいかな、と思いましたが、東山植物園の池に咲いていた通り白い花に。

            
           東山植物園の白いスイレンが咲く池

         

    人が近づくとエサを期待して集まってくる鯉












楽描き水彩画・東山動物園の仲間たち「可愛い舌で放水を舐めるインドサイ」

2015-08-21 18:06:12 | アート・文化

   
     放水を可愛い舌でチョロッ、ペロッとインドサイ  

んな動物でも、すごく可愛らしくチャーミングな仕草を見せてくれます。
この絵はサイが放水を舐めるところです。

例年以上の猛暑。インドサイは庭の一角に造られた水たまりに下半身を浸け、気持ちよさそうに放水を浴びるのが日課でした。
時おり、この絵のように舌をチョロッ、ペロッ。水を飲んでいるというより、舐めているようです。

巨体に似合わぬ小さな眼もそうですが、いかつい顔からは想像できないユーモラスな仕草に思わずカメラに収め、絵にしました。

インドサイは別名をヨロイサイと呼ばれる通り、全身を覆う無数のブツブツ、幾重にも飛び出し、伸びる分厚い皮膚は、鎧を身に着けているようです。そしてこの顔。
多分、描くのが最も描くのが難しい動物と思いますが、なぜか親しみが湧いてきて筆が進みました。


ところでインドサイって、インド北東部やネパールが生息地とあって、結構暑がり屋で、逆に寒さには強いようですね。
下に掲載した写真は、名古屋で積雪20センチという記録的大雪となった昨年12月18日朝、東山動物園(この日のブログにも掲載)に出かけると、多くの動物が室内に入っている中でインドサイは庭に出て、立木の枝の葉に積もった雪を口にしていた姿です。

    
     
大雪の朝。木の枝の雪を舐めるインドサイ













楽書き雑記「若さあふれる創造力『アートフェスタ 愛知県高等学校総合文化祭』が開幕」)

2015-08-18 18:22:38 | アート・文化

             

         

       

                           

愛知県高等学校総合文化祭が、名古屋・栄の県芸術文化センターのアートスペースや芸術劇場を舞台に開幕しました。今回のテーマは「轟音~GO ON~」。生徒たちの実行委員会が企画した、若さあふれる創造力に圧倒されます。


舞台、パネル、文芸、展示の4部門(いずれも入場無料)。日程もさまざま(愛知県のホームページに掲載されています)。僕は18日から23日まで芸文センター―のアートスペースで開催の展示部門(美術・工芸、立体作品、書道、写真)に出かけてきました。

児童・生徒の絵画展や造形展などを見るたびに思うのは、素直でけれんみのない発想と表現力です。
夕方のコンビニ、観覧車のある風景を大胆に描いた絵・・・。
児童たちの話し込む様子や表情をとらえ「いたずらかいぎ」と題する写真や、「肉食女子」と題するソーセージを食いちぎる女の子を撮った写真・・・。

伸びやかで力強い墨跡が魅力の書道。セミの幼虫から脱皮して立ち上がる女性を形にした「十七年と七日」と題する立体作品には、驚きました。17歳。飛び立つときですね。

生徒たちが今後、アートの道に進むのかどうかは分かりませんが、大胆で柔軟性のある発想と創造性は失わないで欲しいものです。
        
 



    

                         



 

 

 

 

 

 



 


楽書き雑記「画家たちと戦争~彼らはいかにして生き抜いたのか」展を見て

2015-08-15 17:31:45 | アート・文化

                        
                         展覧会パンフ 絵は松本竣介「立てる像」

     
       藤田嗣治「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)

            
             香月泰男「涅槃」

                  
       北川民次「鉛の兵隊 銃後の少女」
                             (いずれも展覧会のパンフレットから)


名古屋・伏見の名古屋市美術館で開催中の「画家たちの戦争」展を見てきました。サブタイトルは「彼らはいかにして生きぬいたのか」。僕には、このサブタイトルの答えを十分にはつかめませんでしたが、どの作家も例外なく戦争に振り回されたことは理解できました。展覧会は9月23日(水・祝)まで。

展示されているのは藤田嗣治、北川民次、松本竣介、香月泰男ら14人(一部が8月23日までの前期と8月25日からの後期で入れ替え)。それぞれ太平洋戦争前と戦中、戦後の作品を合わせて9~11点ずつ展示しています。


シベリア抑留の強制労働を描いた作品で有名な香月泰男。後に「戦争がなくシベリアに行かなかったら人生の後半は無に等しかっただろう」と語ったそうですが、展示されている黄色やオレンジ、緑など多彩な色で描かれた戦前の風景画を見ると、戦争・抑留の体験が香月の人生観や画風をいかに変えたかが、うなずけます。

「戦争画家」の代表的存在にあげられる藤田嗣治の作品は、代表作の1枚とされる148×300センチの「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」。パリから帰り、戦意高揚のため従軍画家のリーダーとなった藤田が、渾身の力を込めて創作したことが存分に伝わってきます。
戦後「戦争協力者」のレッテルを貼られ、失意と共に日本を捨ててパリに戻った藤田。戦場の大作を挟んで展示された静物画や裸婦画を見ると、藤田もまた戦争にほんろうされたアーティストだったといえますね。

金ボタンが並ぶ作業服、握りしめた左手、素足にサンダル、両足を少し開いて立つ青年。遠くを見る目には、強い意志が感じられます。上に掲載した展覧会のパンフレットを飾る「立てる像」(162×130.5センチ)は、松本竣介が戦争真っただ中の1942年に描いた作品です。
松本は軍部への協力に抵抗を示した数少ない画家の1人とされています。数多くの建物を描き、展示コーナーに掲示された松本についての説明書きには「(建物は)立っているということが最も大きな魅力」と語ったとありますが、僕はこの青年も立っていることが魅力だと思いました。

メキシコ壁画などで知られる北川民次も、戦争に突き進む時代を憂えていた1人だったようです。開戦2年前の1939年の作品「鉛の兵隊 銃後の少女」。少女が小さな鉛の兵隊や戦車をつまんなさそうに見ています。

北川の展示コーナーの最初に掲げた説明によると、この絵のモデルは北川の娘で、背負っているのは青い目の人形。つまり、子供たちが口ずさむ童謡「青い目をした お人形は アメリカ生まれの セルロイド・・・」を加えることで、軍部などの動きや意向とは関わりのない庶民の様子を描こうとしたのでしょうね。

冒頭に書いたサブタイトルの答えを十分につかめなかったのは、僕の予備知識が不足していて作品を見るだけでは難しいからです。
絵画を国民の戦意高揚の手段にしたい軍部からの呼びかけを、画家たちは個々人としてどうとらえ、対応したのか。

栄誉と考え積極的に応じたのか、時流の流れに乗るのが得策と考えたのか、家族らのためか・・・。

画家として、国民として、さまざまな葛藤があったことでしょう。

各画家のコーナーの最初に掲示された画家の解説は助けられましたが、各作品に説明を付けるなどして、もう少しエピソードやデータがあれば、と思いました。

戦争企画が殺到するこの時期に無理なことでしょうが、シベリア抑留シリーズ(これも2,3枚だけというのは無理でしょう)など、あったらいいなと思う作品も。また、少数ながら戦争への協力を拒否した画家たちもいたことでしょう。次回の企画では期待したいものです。

いいね、と思ったのは、中高年だけでなく若い世代の観覧者が多く目についたこと。ノートを手に作品に見入る中高生らしい姿も何人か目にしました。










楽書き雑記「被爆70年広島・長崎原爆絵画展と21世紀の主役達展」

2015-08-11 16:09:20 | 日記・エッセイ・コラム


名古屋・栄の市民ギャラリーで開催中の2つの展覧会を見てきました。
「被爆70周年 広島・長崎原爆絵画展」と「21世紀の主役達」と題する子供たちの絵画や造形の作品展。戦争のおろかさを改めて考え、平和の素晴らしさを思うひと時でした。いずれも16日(日)まで。

≪被爆70周年 広島・長崎原爆絵画展≫
名古屋市原爆被爆者の会(被名協)が毎年開いている催し。同会によると現在、全国の被爆者数は18万3519人、愛知県内では2207人、名古屋市内では888人。全国では年間約1万人ずつ減っており、平均年齢は80歳だそうです。

展覧会場には、広島・長崎の被爆体験者が描いた体験絵画がびっしり。
原爆投下直後の街を逃げ惑う人々、子供をかばうほぼ全裸の母親、病院前にできたたくさんの列、強烈な閃光と熱風・・・。
10日夜、NHKテレビで被爆3日後の広島で路面電車を走らせたドラマが放送されましたが、展示された絵にも広島と長崎の市電が描かれています。


岡山放送局から広島へ救援に駆けつけた故牧野俊介さんが描き、名古屋市に寄贈されたという体験絵画20枚も、目をくぎ付けにします。
広島駅前で焼けたトタン板に並べられた爆死体、黒焦げの遺体が並ぶ陸軍病院内、川に浮かんだ遺体の引き上げ作業、積み上げた遺体に油をかけての焼却作業等々。

1952年8月6日発行の「アサヒグラフ」も。ここには特別増刷「原爆被害の初公開」と銘打って悲惨な写真と記事が特集されており、「伏せられていたやっと被害が明らかになった貴重な記録」としてコピーを展示しています。

名古屋市原爆被爆者の会の会長で、名古屋から広島の工場に転勤して働いていて被爆した堀三郎さんは「核の悲劇を絶対に繰り返さないために、原爆を風化させ、埋もれさせてはならない。こうした催しを通して、ひとりでも多くの人たちに事実を語り継ぐことが私たち被爆者の使命です」と話しました。

   
  
  

                   

        

                                


≪21世紀の主役達展
名古屋近郊の愛知県長久手市で加藤裕美さんが、3歳から小学6年生までの子供たちを対象に開いている美術・造形教室の17回目の作品展。
油絵、水彩画、切り絵、版画など、好き好きの絵具で仕上げた絵画。竹や割り箸、アイスクリームのスティックなどを使って思い思いに造った「ワールド」、粘土などで造った動物や可愛い妖怪たち、自分だけでなく友だちにもあげたいカラフルな帽子やリボンが並んでいます。

夢や目標も。「テレビに出てかつやくする」「ピアニストになれますように」「折り紙でギネスに」「がかになりたい」
手作り絵本も並んでいます。新幹線、家族旅行、友だちなどのタイトルで、ページをめくるたびに楽しさが伝わってきます。

裕美さんの夫で、会場で子どもたちと当番をしていた養護学校教師の浩二さんは言いました。
「作品には名前だけで、年齢や学年などは入れてありません。だって、みんなアーティストですから」
「原爆など悲惨な70年前があって、今の子供たちの世界がある。繋がっているのですね。子供たちには、造形などを通して豊かな感受性を養うことで、物事をきちんととらえ、考えることができ、行動ができる21世紀の主役になって欲しいですね」

             

            

            




 


 






楽書き雑記「今年も行ってきました。東山動植物園の『ナイトZOO&GARDEN』

2015-08-09 08:03:17 | 日記・エッセイ・コラム

      

           

   
    ナイトZOOを楽しむ人の列
                 
                     夜のお散歩を楽しむ「サクラちゃん母子」
                           
          高さ5メートルの給餌カゴからムシャムシャ
              
                                       
開園時間を夜8時半まで延長する、名古屋・東山動植物園の「ナイトZOO&GARDEN」。水彩画で時おり「東山動物園の仲間たち」を描いている僕も早速、動物園に出かけてきました。
掲載したパンフレットにあるように、前半、後半合わせて7日間の日程です。

昼間の暑さも和らいだ動物園内は、親子連れの家族はもちろん、若者、そして中高年のカップルでいっぱい。2歳半になったアジアゾウ「サクラちゃん母子」が夜のお散歩を楽しむ姿や、ナイトZOOの定番といえるキリンの食事風景などに、大きな人垣ができました。

フラッシュ禁止とあって僕のカメラで動物の動きを撮影するのは難しいですが、日没前には珍しい光景をいくつかキャッチ。インドサイが治療を受ける様子や、ダチョウとキリンのツーショットなども収めました。
           

                      
                         ダチョウとキリンのツーショット

              
            分厚い皮膚に薬を塗ってもらうインドサイ      
















楽書き雑記「生命力の美しさに共感=古希の女性の日本画個展を拝見」

2015-08-05 19:48:56 | アート・文化

      
          
     
 
   
 

「古希を迎え念願の個展を決意しました。私が美しいと感じた思いを共感して戴けたら・・・」。こんな案内はがきを手に、名古屋市東区東桜にある東桜会館1階のギャラリーへ出向いてきました。
日本画を描く後藤決美(きわみ)さん=名古屋市名東区在住。これまで後藤さんとは面識がなく、お名前も知りませんでしたが、作品からあふれる生命力の美しさに僕も共感しました。個展は9日(日)まで。

「私がお絵かきを好きになったきっかけは、小学校で初めて描いた絵でした」「すべり台から滑ろうしている子の足を描いた絵が、先生から『すごいね』とほめられたのです」と後藤さん。
なるほど、僕もすごいモチーフと構図だと思います。それにしても、先生のひとことって大切ですね。

高校時代を美術部で過ごし、家庭を持ってからも水彩画を趣味に。子育てがひと段落し、ご主人からゴルフ仲間の日本画家を紹介されて日本画の道へ入りました。ご主人は決美さんの日本画作品を見ないまま亡くなられましたが、高齢者施設でヘルパーなどをして絵の創作を続け、施設へ贈るなどしてきたそうです。
(余談ですが、ここまで後藤さんを取材した段階で、冒頭の案内はがきが高齢の絵仲間から[なぜ届いたのか」の謎が解けました。絵仲間は現在、この施設で現在リハビリ中なのです)

後藤さんは数年前、濱田樹里画家と出会ったことで、自分なりに大胆な表現で描けるようになり、描くことがより楽しくなったそうです。

濱田画家は豊かな色彩感覚と生命力に富んだ大作で知られ、第5回東山魁夷記念日経日本画大賞展で大賞を得るなどし、名古屋造形大や愛知県立芸大で教壇に立っています。


後藤さんが個展に出している作品は「森羅万象」と題する7枚のF50号シリーズなど約30点。ここに掲載した写真でもお分かりの通り、大胆で迫力のある絵が目立ちます。
「楽しさは増したのですが、70歳になって体力的にも大きな作品を続けられるかどうか少し不安に。だから、個展をひと区切りの場にと思って。でも描くことはやめませんよ」と後藤さん。
そりゃあ、そうですよ。作品の持つ力強さとみずみずしさは、とても枯れそうにはありませんから。

  

                    

      

      

 

 

 

 

 

 

 


楽書き雑記「大震災などに備えたライフライン『公衆電話』を考える

2015-08-04 13:27:05 | 日記・エッセイ・コラム

     

       

                     

最初の写真は、名古屋の金山総合駅コンコースに並ぶ「緑の公衆電話」です。10台ほどあります。ところが、この駅を毎日のように乗り降りする人の中にも「知らなかった」方が少なくないようです。

人間って、自分に必要のないものや関心が薄れたりすると、身近に存在していても目に入らなくなるものですね。僕もこのコンコースを結構歩いていますが、ブログで公衆電話を取り上げてみようと意識して初めて気づいたのです。

NTT東西などのデータによれば、携帯電話の普及によって全国の公衆電話はこの30年ほどの間に5分の1ぐらいになりました。でも、それが20万台ほどと知ると「結構あるな」と思いませんか。

これは大震災が起きた場合に備えてです。
大地震が発生すれば電気、ガス、水道だけでなく、携帯電話も通信の輻輳や通信規制、電池切れなどで使えなくなることも。パニックの呼び水になりかねません。
まさにライフラインである通信手段を少しでも確保しようというのが、大震災の場合でも比較的つながりやすいとされる公衆電話というわけです。

駅や役所、公園、公共建物、病院、大通り沿いの歩道、ホテルなど不特定多数の人々が集まるところに設置されています。かつてはいたずら防止のため設置場所は非公開でしたが、現在はネットでも公開されています。

ふだんから「公衆電話という助っ人もある」ということを周知しておかないと意味がない、との考えからです。

意識して街を歩くと、地下鉄のホームや公園などで結構目にします。名古屋の繁華街のひとつ、今池周辺の大通りを少し歩いただけで、交差点付近を中心にたちまち6,7か所の電話ボックスを見つけました。

ただ、地下鉄駅の電話の中には、硬貨の投入口が詰まっているのも。大通りでは電話機が取り外されたボックスもありました。
公衆電話の管理やメンテナンスの体制については知りませんが、大きな災害や事故のあとにしばしば目や耳にする「体制が十分でなかった。これからは・・・」なんてことは避けたいですね。

わずかですが「使用中」の光景にも出会いました。
それを見ていて思いついたことをひとつ。
携帯時代になったいま、当然ながら公衆電話の使い方を知らない世代が急速に増えているはずです。
大地震に備えた避難訓練では、小中高生らを中心に若い世代に対する公衆電話の使用訓練も必要になってきたのではないでしょうか。