風の遊子(ゆうし)の楽がきノート

旅人を意味する遊子(ゆうし)のように、気ままに歩き、自己満足の域を出ない水彩画を描いたり、ちょっといい話を綴れたら・・・

「楽書き雑記「白鳥への旅②=石徹白(いとしろ)の神社や阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)へも」

2017-08-30 06:46:52 | 日記・エッセイ・コラム

 

白鳥神社の碑と拝殿


白山中居(ちゅうきょ)神社の大杉と拝殿


白山信仰の里・岐阜県奥美濃の郡上市白鳥の「白鳥おどり」を楽しんだ同窓会仲間の我々は、前夜の踊り疲れを見せることなく福井県境の石徹白(いとしろ)まで足を延ばし、神社や滝などを回ってきました。
飛び石観光でしたが、白鳥おどりに対する認識を深める一方、郡上一揆の史料にも接することができました。

白鳥の中心部にあって養老年間(717年~724)の創建という白鳥神社。
「白鳥おどり 発祥の地」の碑があり、説明板には「約280年前の文献によれば、白鳥おどりは庄屋や名主(みょうしゅ)の庭先や寺の境内で踊られていた。それが現在の拝殿踊りにつながっている」とあります。
商店街通りで和楽器も使って賑やかに踊るのではなく、古式豊かに歌を口ずさみながら踊りを奉納する拝殿踊り。こちらも魅力的ですね。

福井県境の石徹白の白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)。石徹白へは現役時代に仕事などで2回訪れていますが、神社に詣でるのは初めてでした。
「白雲がたなびくのを見た大神が『これ いと しろし』と申され、これにより『石徹白』という」の記述を読んで境内に入ると、参道ではスギの巨木が何本も林立して迎えてくれます。

「石徹白は天領とされ、藩政時代も神に仕える村として苗字帯刀を許された」「住民は白山参詣の巡礼者を手助けする役割があった」といった観光情報などを思い起こしつつ、石徹白の誇りである本殿や拝殿踊りの舞台を見て回りました。

郡上といえば、教科書でも学んだ江戸時代の「郡上一揆」を連想する方が少なくないでしょう。
宝暦4年(1754年)、郡上藩による農民に対する年貢の課税方法の変更に農民が反発。庄屋から農民、郡全体へと広がり、約5年にわたる幕府も巻き込んでの大騒動です。

農民や村々が意志表明の手段としたのは、有名な「傘連判状(からかされんぱんじょう)」による直訴です。運動の代表者や首謀者が分からないようにするため、傘を広げたように円環状に直訴人や村の署名を書き入れたもので、立ち寄った白山文化博物館でそれを見ることができました。

白山信仰の修験者たちの修行の場であり「日本の滝100選」にもなった阿弥陀ヶ滝へも。
長良川の源流のひとつで落差60m。僕にとってはこの夏、富士山麓の白糸の滝、三重県名張市の赤目四十八滝に次ぐ3カ所目の滝見物でしたが、阿弥陀ヶ滝の瀑布や巨岩を洗う流れ、大小の石を敷いた散策道もなかなかのもの。
この夏を締めくくるにふさわしいひとときでした。

傘連判状

阿弥陀ヶ滝

白鳥神社に咲くキツネノカミソリ

民家の庭先で見かけたコスモスやサギソウ





楽書き雑記「踊りまくる『白鳥おどり』=白山信仰の里・岐阜県奥美濃の白鳥を訪ねました」)

2017-08-28 06:56:09 | 日記・エッセイ・コラム

テンポの速い笛、太鼓、三味線の響きと唄、囃子言葉(掛け声)、それに呼応する動き豊かな踊り。賑やかな手拍子と下駄の音。
山里の夏の夜、息つく間もなく夜更けまで続きます――。

岐阜県奥美濃の伝統文化のひとつ、郡上市白鳥の「白鳥おどり」。僕が卒業した高知学芸高校同窓会の後輩会員で、この地の白鳥病院で医師として働く味元宏道さんの誘いを受けて、週末に同窓会の仲間やその孫らと出かけてきました。

僕にとって、踊りは絵と並んで子供のころから大の苦手。あえて定年後の趣味に選んだ絵の方は何とか楽しめるまでになってきたものの、踊りは無理。でも見るのは好きだし、山深い奥美濃の晩夏に身を置いてみたいと訪れたのです。

奥美濃は富士山、立山と並んで日本三霊山とされる白山(2702m)を水源とする長良川流域の一角。開山1300年を迎えた今も、九頭竜川流域の福井県、手取川流域の石川県一帯には白山信仰の伝統文化が色濃く残っています。

白鳥おどりや、同じ郡上市内の郡上おどりも白山信仰から生まれました。
ともに夏の間の一大イベント。今年の白鳥おどりは7月9日から9月24日までの間に、前夜祭を合わせ4日間の徹夜踊りを含めて計23日間の日程で、各町持ち回りの踊りや長滝白山神社などに奉納する拝殿踊りが繰り広げられます。

発祥年代は定かではありませんが、文献などから400年ほど前には踊られていたようだとか。
伝承されてきた曲は10数曲あるそうですが、現在よく踊られているのは源助さん、シッチョイ、神代、猫の子など8曲。

この地の集落や神社、寺院、山や滝などの名前を織り交ぜて、男女の恋物語や栄華にふける藩主と年貢に苦しむ農民らの生活、田植え、山仕事などが歌われ、それぞれ踊り方が違います。

1947年に保存会ができ、2004年には拝殿踊りが国の選択無形民俗文化財に指定されました。
今回誘ってくれた僕よりひと周り以上後輩の味元さんは保存会員。「こちらに着任した当時は見るだけでしたが、町の人たちが踊りを心から楽しむ元気な姿に魅せられて、とりこになりました」と味元さん。

我々はまず町の施設で1時間半ほど特訓。手ほどきをしてくれたのは保存会のリーダー的存在である中林千代子さん。まもなく傘寿(80歳)とは思えぬ動きで、歌の解説を交えながら教えてもらいました。

夜のとばりが下り始めた7時過ぎ。商店街通りに設けた櫓と切子灯篭(きりこ・どうろう)を囲むように観光客も加わった輪ができ、次第に楕円形に。
浴衣に下駄を履き、踊りモードいっぱいの味元さんら後輩たちも、待ちかねたように輪の中へ飛び込んでいきました。

櫓からの唄と囃子言葉に、踊り子たちの輪が回ります。それもゆっくり動いていたかと思うと、駆けるような速さに。曲が終われば、すぐ次の曲に。息つく暇もありません。
下駄を鳴らし、勢いよく手を打つ音。とにかくテンポが速く、賑やかです。若者たちの間では白鳥踊りを「白鳥マンボ」と形容するそうですが頷けます。

他の盆踊りで見られるような、団体ごとに整然と踊る感じはありません。踊る人同士の間隔は狭まり、写真を見ると踊り方もバラバラな感じもします。教えていただいた中林さんのようなきれいな踊りもあれば、自分の世界で踊っている人もあり、といった具合です。
でも、言い換えれば踊る人たちにとってはそうした状態が楽しく、この踊りの魅力なのでしょう。

踊りの輪に新たに入っていく姿はあっても、出てくる姿はほとんどありません。
僕のような「見るだけ」や「撮るだけ」の人は極めて少数派。どこかの文句のように「踊らにゃそんそん」の状態です。

8時を回り、9時を過ぎ、10時になっても止む気配はありません。
この夜の踊りは午前0時までの予定で、孫連れの仲間は「孫は夏休みがそろそろ終わりなので、夜更かしを直さないと」と旅館へ引き上げましたが、味元さんらは行く夏を惜しむかのように踊り続けていました。

「踊ったら、マイナス10歳。」
これは白鳥へ出掛けてくる途中に目にした名古屋のおどりイベントのポスターにあったキャッチコピーですが、白鳥にやってきたご婦人たちは、古希を思わせぬ動きで「踊ったら、マイナス20歳」と言っても過言ではない踊りでした。

本番前に「白鳥おどり」の特訓を受けました


白鳥駅前などにある彫刻像。特訓してくださった若いころの中林千代子さんもモデルに。

 

 


楽描き水彩画「赤レンガ倉庫②」

2017-08-25 06:31:14 | アート・文化

先日、鍵の絵を掲載した三重県桑名市の赤レンガ倉庫の2枚目です。レンガ壁に10本ほどの竹が立て掛けられた風景が面白くて絵にしました。

倉庫の扉の表面と同様に、白い粉をふいたようなったレンガ壁が魅力的です。
「白華現象(はっかげんしょう)」といわれ、壁の内部に入った雨水などが蒸発する際、内部の石灰分が染み出て固まったと見られているようです。はっきりした原因は分かっていませんが、建造物の強度には問題がないそうです。

竹は使用済みで相当古そうです。ほとんどに割れ目が入り、これも歳月を経たレンガ壁とマッチしています。


白華現象がいっぱいです




楽描き水彩画「赤レンガ倉庫①]

2017-08-23 06:46:00 | アート・文化

先に教室でスケッチに出掛けた三重県桑名市の赤レンガ倉庫の1枚目です。

倉庫は桑名が生んだ豪商・諸戸清六(1846~1906)が、明治28年(1895年)ごろ米蔵として建設、倉庫の前に造った運河から出荷していました。棟続きで5棟あったそうですが、大戦末期の空襲で2棟が焼失、現在あるのは3棟です。

ここへは10年前のスケッチ会でも訪れていますので、その時とは違った視点で描いてみようと筆をとりました。1枚目は、倉庫の扉にかけられた鍵の部分。鍵というより、錠前(じょうまえ)、あるいは南京錠(なんきんじょう)と言った方がふさわしいでしょう。

豪商の倉庫という割には装飾のないシンプルな鍵を見ると、これまでに1度くらいは取り換えられたかもしれません。


それより魅力的だったのは、扉の表面の経年変化です。
扉の表面は金属のようですが、最初の色がどのようだったのかは分かりません。長い歳月と風や雨、錆、カビが描いた不規則な模様や色は、ちょっとしたアートです。
夏の日差しでできた影とともに一気に描きました。10号です。

赤レンガ倉庫。以前のスケッチ会(2007年2月)の撮影です。

 



楽描き水彩画「真夏日復活。恋しい木陰」

2017-08-21 06:33:52 | アート・文化

 

夏のピークは過ぎたとはいえ、名古屋でも再び最高気温が30度を超える真夏日が復活。週間天気予報は連日、真夏日になっています。
暑さを比較的苦にしなかった僕ですが、トシのせいもあるのか、近年は照りつける街を歩きながら目が木陰を探していることがしばしばです。

名古屋の鶴舞公園。市内の都市公園の中で、とりわけ樹木の多いこの公園は木陰もいっぱいです。
描いたのは、小さな流れのない谷間というより、窪みが続いているようなところ。周りの木々の影が何本も伸びています。サイズは10号です。




楽書き雑記「秋が迎えてくれました。ハギ、ススキ、オミナエシ、サギソウ=名古屋・東山植物園の散歩道」

2017-08-19 06:38:00 | 日記・エッセイ・コラム

ススキが風に揺れています

オミナエシ

ハギ

サギソウ

7000種の植物があり「いつでも何かの花が咲いている」といわれる名古屋の東山植物園。
夏のピークは過ぎたとはいえ、最高気温が30度を超える真夏日が行ったり来たりのこの時季。どんな花が咲いているのだろうと探索に出掛けると、秋の訪れを告げる草花に出会えました。

探索には勝手に条件を設定しました。
園内を縦断する万葉の散歩道をコースとすること、20分ほどで歩けるコースだが倍以上の時間をかけてじっくり見ること、林の中などには入らないこと、花壇やプランターの花は対象にしないこと――などです。

うっそうとした緑の中に赤一色のサルスベリが目に飛び込んできましたが、花の咲く樹木はこれぐらい。道端の草や低木に目をやりながら歩きます。

草むらにひとつ、ふたつと咲く小さな白い花。サギソウです。
サギソウは僕も鉢で育てたことがありますが、湿地で咲く姿を見たのは初めて。カメラのシャッターを何度も押しました。
そばにはミソハギという名前の湿地の花も。

秋の七草である黄色いオミナエシやピンクのハギの花。ススキも風になびいていました。暑い、暑いといっても、季節の歩みは着実ですね。

花ではありませんが、樹木の切り株や根の上にびっしり生えたキノコにはびっくり。1時間ほどかけ、じっくり散策した成果でしょう。


上下の2枚は切り倒した樹木の切り株や根に生えたキノコです

 

 

 


楽書き雑記「赤いヒマワリ。ツートンカラーや白いヒマワリも」

2017-08-17 06:24:49 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

 

赤いヒマワリ「ムーランルージュ」

ツートンカラーのヒマワリ「ルビーエクリプス」

白いヒマワリ「イタリアンホワイト」

 「ヒマワリの花」と聞いて浮かぶのは、やはり黄色くて大きな花ですよね。
僕も庭で以前育てたヒマワリやヨーロッパ旅行で目にした広大なひまわり畑、あるいはゴッホの作品など、いずれも黄色い花です。
ところが、真っ赤なヒマワリもあるのですね。

名古屋・鶴舞公園のバラ園の柵に沿って植えてあるヒマワリたち。全部で11品種あり、うち6品種が咲いているというので出かけてきました。

赤いヒマワリの品種名は、何とムーランルージュ。画家のロートレックらが通いつめたパリ・モンマルトルのキャバレー「赤い風車」と同じ名前に、また驚きました。

他にツートンカラーや白いヒマワリも。もちろん大きく黄色いヒマワリも咲いています。他の品種も大きな蕾を膨らませており、どんな花が開くのか楽しみになりました

 

 

 


楽書き雑記「テッポウユリ?タカサゴユリ?ヤマユリ?ニワシロユリ?それとも・・・」

2017-08-15 07:45:44 | 日記・エッセイ・コラム

 

 庭でこんな白いユリが花開きました。
6月中旬から始まった我が家のユリの季節。7月の中~下旬のオニユリで終わったはずなのに「まだ、私がいましたよ」とばかり咲いたのです。

このユリも球根を植えたり、種を蒔いた記憶はありません。
初夏になって、ジャノヒゲ(リュウノヒゲ)という草がこんもりと生えている間から、1本の茎がスルスルっと伸びているのに気づきました。

何だろうと見守っていたところ茎から細くて長い葉が左右に広がり、背丈が1・5mほどに成長。その先にできた3個の花芽が長さ15㎝にもなって開いたのがこのユリです。
少し離れたところにもう1本あったのですが、早い段階で虫に食べられたのか、てっぺんが枯れて茶色くなっています。

6月16日付ブログで掲載したクチナシの花と同様、庭に飛んできた野鳥の「土産」である糞の中の種子が芽生えたのだろうと思いますが、もっと分らないのは、ユリの品種です。

葉や花の形、開花時期などを図鑑で参照してテッポウユリ、タカサゴユリ、ヤマユリ、ニワシロユリなどが目に止まりましたが判然としません。それとも、これらの交雑種かも。
いずれにせよ、土産をくれた野鳥には感謝です。

ユリの葉はこんな姿です





楽書き雑記「雑草も植物、名前もあります=高知の牧野植物園を見てきました」

2017-08-13 06:59:39 | 日記・エッセイ・コラム

「雑草」とされがちな草にも名前プレートがあります

石垣のシダ類にも説明が


道端や田畑で見かける『雑草』にも、きちんと名前や科目が分かるプレートが立っています。
ここは、学校でも学んだ「日本の植物分類学の父」とされる牧野富太郎(1862~1957)の功績を称え、故郷の高知県が設けた高知市・五台山の牧野植物園。先に高知へ出かけた際に立ち寄り「本来の植物園が、ここにはある」との印象を持ちました。

山の起伏を生かした約6㏊の園内の植物は、約3000種とか。真夏とあって花の姿はあまり見かけませんでしたが、その分、豊かな緑に包まれました。

歩くうち、名古屋の東山植物園などこれまで出かけた植物園との違いにいくつか気づきました。
ひとつは、さほど広くないカンナやバラ、ツツジなどの園がありますが、他園で見かけるような1カ所に何百本、何百株もの花が咲く花園や庭園は存在しないことです。

広いと言っても、東山植物園の4分の1足らずの面積では致し方ないでしょう。そのかわり、小さな庭がいくつかあって、樹木と草が一体になって目を楽しませてくれます。木立のそばで草が勢いよく伸びています。

さらに決定的な違いだと思ったのは、どの草木にも名前を書いたプレートがあることです。立木や大きな草花だけでなく、根元や周りの草にもプレートがあります。

とりわけ、正門から続く「土佐の植物生態園」。いわゆる『雑草』として引き抜かれるであろう、さまざまな草の全てにプレートが立ち、名前を知ることができます。
石垣から顔を出すシダなどにも名前のプレートがありました。

手入れ作業をしている女性職員に目が止まり、声を掛けました。
――あそこの樹木と周りの草との調和がとれている感じですね。
「お客さまが見やすいようにするなどのために、草を取り除いたりはしますが、なるべく自然な状態を残しています」

――僕らが雑草だと思っている草にも名前のプレートがあるのを見て、ここには雑草という概念はないように思いました。
「はい、実は私もここに入ったばかりのころ『雑草』という言葉を口にして、先輩から『雑草というものはないよ。名前もあるのだから』と注意されたことがあります」

とはいっても、樹木も含めて種子や根で生え放題、伸び放題にはできないでしょう。それに草は多年草だけではありません。1年草だと翌年も同じところに生えるわけではないから、プレート板の移動など手間もかかることでしょう。

さすが「植物学者・牧野の植物園」「本来の植物園」ですね。
また訪れたいと思いました。

滝つぼの魚の姿も

オオオニバスにも乗れます

「遍路道」の名前がついた石段の散策路

土佐寒蘭のコーナー





楽書き雑記「蘇った中学生時代の衝撃=名古屋市博物館で開催中の『ゴジラ展』を見て」

2017-08-10 07:27:45 | 日記・エッセイ・コラム

ゴジラ映画の撮影用セット。向こうに立つと、あなたもゴジラになれます

第1作「ゴジラ」のスチール写真

名古屋市博物館で開催中(9月3日まで)の「ゴジラ展」を見てきました。
東宝映画「ゴジラ」は、1954年(昭和29年)11月に第1作が公開され、30作近いシリーズを重ねていますが、僕にとっては「1作目のゴジラこそゴジラ」。初代ゴジラと出会った中学生時代の衝撃が蘇りました。

衝撃を受けた第1作のあらすじは――。
小笠原諸島近海で貨物船が謎の巨大生物に沈められ、それが水爆実験で深海のすみかを追われ、巨大化したゴジラと判明します。
ゴジラは口から吐く放射能光線で防衛隊の高圧電流や戦車、戦闘機を破って東京に上陸、銀座や国会議事堂、テレビ塔などを次々破壊。政府はついに、大量破壊兵器の「オキシジェン デストロイヤー」(水中酸素破壊装置)を使用、東京湾に潜むゴジラを窒息させ、溶解してしまいます。

衝撃はまず特殊撮影のすごさでした。まだ写真でしか知らなかった東京の街が、次々に破壊されるシーンは今も脳裏に残ります。
後に知りましたが、制作スタッフはゴジラより20年も前に作られた米国の特撮映画「キングコング」を圧倒する作品づくりを目指したようです。

ゴジラが生まれた時代背景とゴジラ誕生の関係も、僕の心を重くしました。
映画が制作された東西冷戦時代の1954年3月、南太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行われ、操業していた静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」と船員が「死の灰」を浴びて、1人が亡くなる事件が発生。中学生なりに新聞をむさぼるように読んでいたからです。
ゴジラも水爆実験の犠牲者である、という設定は衝撃的でした。

そして「オキシジェン デストロイヤー」という強力な兵器でゴジラを殺すラストシーン。
街を破壊するゴジラに止めをさすのは仕方がないと思いながらも、キングコングが見世物として南の島からニューヨークへ連れてこられて逃げ出し、エンパイヤ―ステートビルのてっぺんで戦闘機と戦って墜落死させられたシーンとダブりました。

異常なまでに高めた科学力が生みだし、科学で殺す。「人間って身勝手だなあ」の思いが残ったのを今でも憶えています。

「ゴジラ展」は、初代ゴジラのあとキングコングやモスラなど次々ライバルを登場させ、環境問題や経済の動向を織り交ぜながら制作したシリーズのシーンや怪獣のデザイン、ポスター、セットなどが並んでいます。
それらを見ると、特撮技術なども各段にアップしているのが分かりましたが、僕にとってのゴジラは、やはり第1作目の「ゴジラ」です。

東京駅破壊シーンのセット

ゴジラ・モスラ・キングギドラのキングギドラ

モスラ対ゴジラ静之浦の戦い

ゴジラvsビオランデのデザイン

コジラvsデストロイアのデザイン

 

 

 


楽書き雑記「志国高知で開催中の2年間のロング博『幕末維新博』を覗いてきました」

2017-08-08 07:31:06 | 日記・エッセイ・コラム

新しく見つかった龍馬の手紙。この5日後に暗殺された



日本史の一大転機となった大政奉還(1867年=慶応3年)から150年。その中で核的役割を果たした旧土佐藩の高知県で、誇りと威信をかけた博覧会がこの春から2年間にわたるロング博として催されています。

タイトルは「志国高知 幕末維新博」。念のため、志国は四国の間違いではありません。数多くの志士たちを生み出したように強い志(こころざし)を持つ国という意味でしょう。僕が卒業した高知市にある高校の同窓会に出席したのを機に、メーン会場である高知城歴史博物館を覗いてきました。

博覧会は2幕に分割。第1幕は来年3月末まで、第2幕は現在改装中の坂本龍馬記念館もメーン会場に加わって来年4月1日から翌年3月末まで、維新にゆかりのある県内23の会場で開かれます。

高知城大手門の向かいにある、今春完成したばかりの高知城歴史博物館の展示は、いわば総論編。
戦国時代からの土佐の歴史をたどり、大政奉還・明治維新へと奔走した坂本龍馬や中岡慎太郎、朝廷への政権移行を求める大政奉還建白書を出した後藤象二郎たちの動きなど、壮大なドラマを振り返っています。

漁師として漂流後にアメリカで世界情勢の現実をつかみ、龍馬の思想形成にも大きな影響を与えたとされるジョン万次郎。
後藤象二郎の建白書を採用して徳川慶喜に大政奉還を進言した土佐藩主の山内容堂。龍馬の海援隊を支え、のちに三菱グループの楚を築いた岩崎弥太郎。
時代を動かし、日本を変えた男たちの夢とロマンに包まれます。

展示品の中には、新しく見つかった坂本龍馬の手紙も。
朝廷中心の新政権樹立に対する財政的尽力を求めて、慶応3年11月10日付で福井藩士の中根雪江宛てに出したもので、中には「新国家」という言葉が出てきます。
龍馬はその5日後に近江屋で暗殺されており、最後まで新国家樹立に向けて奮闘していたことが伺えます。

龍馬の手紙は、姉の坂本乙女や後藤象二郎に宛てたのも展示。
これらの資料に加え、土佐の捕鯨文化や各種産業などについても改めて知ることができました。

余談ですが、同窓会で出掛けたので、当然ながら60年前の仲間たちとの酒席も。
そのひとつ、高知へ旅されてご存知の方も多いと思いますが、高知城近くの居酒屋など約60店舗からなる屋台広場「ひろめ市場」に出向くと、観光客も加わって超満員。夜が更けるのも知らず、150年前の龍馬らもそうであっただろう「談論風発」を楽しんでいました。

しばらく待って座席を確保。こちらも負けてはおれないと、酔鯨や土佐鶴を一升瓶からコップに注いで酌み交わし、時が経つのもどこへやら。酒に強くないので「土佐人として恥ずかしいぞ」と、からかわれてきた僕ですが、久々の酒量を味わいました。

欧米の実状を知るため取り寄せたドイツ製の天体望遠鏡

龍馬が姉の坂本乙女に送った手紙


幕末維新博のメーン会場。高知城歴史博物館

 

 



落書き雑記「銃後の教育や暮らしを知る企画=名古屋の戦争に関する資料館」

2017-08-06 16:34:35 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

まもなく72年目の終戦の日(8月15日)。
名古屋にある「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」(中区丸の内3丁目、愛知県庁大津橋分室1階)を訪ねると、常設展示の爆弾や戦没者の遺品などとともに、銃後の子どもたちや国民が置かれた状況の一端を知る企画のコーナーが設けられていました。

企画コーナーのタイトルは「昭和初期の子ども~日常の歴史」。学童疎開や配給制度などを、市民から寄せられた資料や写真などで示しています。

都市部の子どもたちを空襲から守るための学童疎開は、1944年(昭和19年)から開始。名古屋からは8月5日に集団疎開の第1陣として、3万2千人が親元を離れて愛知・岐阜・三重の町村などへ向かったのを皮切りに、次々と疎開しました。

米や衣料の配給制度も、戦局の悪化とともに生産が滞って機能しなくなりました。
衣料切符は点数制で1人あたり年間80点(都市部は100点)でしたが、32点の国民服も手に入らなくなる始末。米や味噌を求めて闇市へ行けば、統制価格の6倍もの高値になったようです。

これらの史実を、展示された配給切符はじめ、今の中学・高校生くらいを対象にした陸軍少年飛行兵募集のチラシ、愛国行進曲と日の丸行進曲が印刷された扇子、「突貫双六(すごろく)」のタイトルがついた学習雑誌「1年生」正月号の付録などで知ることができます。

愛知・名古屋 戦争に関する資料館のある愛知県庁大津橋分室





楽書き雑記「楽しめた人工生命体アート=三重県美術館の『テオ・ヤンセン展』を見てきました」

2017-08-04 05:08:11 | アート・文化

 

 ちょっとした風(空気)を受けると、生きもののように動き、歩く巨大な「人工生命体」。摩訶不思議ですが、次第に理解が深まる現代アートです
津市の三重県美術館で開館35周年記念企画として、9月18日まで開催している「テオ・ヤンセン展 人工生命体、上陸!」を孫たちと楽しんできました。

ウイキペディアなどによれば、テオ・ヤンセン(1948年生まれ)はオランダの彫刻家で、物理学者。科学をアートにした創作に取り組み、大がかりなキネティック・アート(動く美術作品)を世界各地で発表、人気を集めています。

今回展の作品は1990年から制作にかかり、次々に進化させてきた「ストランドビースト」(オランダ語で砂浜を意味するストランドと生物を意味するビーストを合わせた造語)。

プラスチック・チューブを骨格にして組み合わせ、ヨットのように帆で受けた風の空気を、古いペットボトルに貯えて動きます。動力は空気だけというわけです。
自然エネルギーを生かした風車の国・オランダの作家らしいアートだと思いました。

展示作品は、大きな展示室いっぱいに使った芋虫のような形の巨大ビーストから、その何分の1かのビーストまで約10点。
海原をバックに砂浜を歩く姿を収めた映像が流れ、ヤンセンが制作研究のために使っていたパソコンやビーストの部品、制作の構想を練ったスケッチなども展示されています。

嬉しいのは、これら展示作品の写真や動画の撮影がOK。それに作品に触れることが許されていること。入場者が手で少し押すだけで動くことを体験する時間も設けられています。
夏休み中とあって、場内は親子連れでいっぱい。確かに、子どもから高齢者までが楽しめる現代アートです。

体験ができてご満悦の小学生の孫に、売店で団扇の風を送るだけで動き出す「ミニ・ストランドビースト」の組み立てキットを買ってやりましたが、果たして自分で組み立て、動くかどうか。楽しみが残りました。

撮影や触れることもOK

 




楽書き雑記「はじける水、深い緑=三重県名張市の赤目四十八滝で癒されてきました」

2017-08-02 06:44:44 | 日記・エッセイ・コラム

日本の滝100選や平成の名水100選に選ばれている、三重県名張市の赤目四十八滝に行って聞ました。滝の全てを巡ることはできませんでしたが、うだる猛暑の名古屋からやってきた身には別天地でした。

四十八滝の名前のいわれは、阿弥陀さまが48の願いをかけて修業したとか、48の滝があるというより「それほど多くある」という意味だとか言われるそうですが、遊歩道のコースを歩くと、次々に大小の滝に出会います。
ここを訪れる前に忍者の里の伊賀市に立ち寄ってきたので、「伊賀流忍者の修行の場だった」との説には納得しました。

手入れの行き届いた杉木立や、競い合うように広がる深い緑が強い日差しを追いやり、平地ではうるさいほどだったセミ時雨はなく、聞こえるのは岩場にはじける流れの音ぐらい。両岸にそそり立つ巨岩、谷を埋める苔むした岩々。

流れの浅瀬には小魚の
群れ。こちらはその名水で醸造した地酒を手に滝を後にしました。