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東海地方を中心に未曽有の被害を受けた伊勢湾台風から60年。
台風災害や予想される巨大地震に備え、災害の記録や治水、防災、さらには開発と環境、被災者支援などさまざま観点から考える特別展が名古屋市博物館で開かれています。
11月4日(月・振替休日)まで。観覧料は一般300円、高大生・中学生以下・65歳以上は無料。
伊勢湾台風は1959年(昭和34年)9月26日、和歌山県潮岬に上陸。紀伊半島から東海地方を通過。名古屋南部などの伊勢湾岸は巨大な高潮に襲われるなどして、死者・行方不明者5098人、負傷者38921人という甚大な被害を受けました。
当時、僕は岐阜県を離れて四国の高知県に住んでおり「岐阜のみんなは大丈夫だろうか」と家族で話していたものですが、現役時代に何度かその後の被災地を訪れ、大災害の一端を知らされたものです。
特別展の会場では、まず江戸期から東海地方が経験した大規模な自然災害を幕府や藩が記録に残し、後の災害に備える対策に取り組んできたかを知ります。
木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が伊勢湾に向けて流れる尾張・美濃の一帯は、肥沃な土地に恵まれる一方で川の氾濫や洪水、高潮などの被害を度々受けてきました。
さらに南海トラフや内陸断層がもたらす巨大地震も繰り返し起きています。
驚くのは、それら大災害の記録や防災に関する文書や図絵が予想以上に残されていることです。
中でも幕府の命で水行奉行に就いていた美濃国の高木家が、木曽三川を毎日監視してきた「川通御用日記」の膨大さには川通役の労苦に敬意を覚えました。
水害対策のために描かれた縦171㌢、横546㌢の図絵。1891年(明治24年)に起きた濃尾大地震の震災写真帖なども目を引きます。
写真帖には「当時ノ実況ヲ後世ニ保存スルモノハ特(ヒト)リ写真アルノミ」とあり、記録と防災の意義を唱えています。
一方で、巨大地震の中には記録の乏しいのもあります。この地方では昭和東南海地震(1944年)、昭和南海地震(1946年)など。戦争中、終戦直後といった事情があったといえ、残念なことです。
膨大な資料を目にした後、伊勢湾台風そのものの展示へ。
まず、掲示に当時の名古屋が商業都市から産業都市への発展を目指す「大名古屋構想」に突き進んでいたことが書かれています。名古屋港周辺では大がかりな区画整理や工場誘致、住宅開発が進められていたことが分かります。
しかし、終戦からまだ14年。生活再建から経済再建へと急ピッチで進む中で防災に対する構えは、どうだったのでしょう。「大名古屋構想」にも、高潮対策や木曽三川以外の中小河川の防災対策などはどこまで織り込まれていたのでしょうか。
展示された伊勢湾台風被災地の写真は目を覆いたくなるほどです。
高潮とともに流れ込み、家屋を破壊していった巨大な丸太の山、何日も引かない水の中に立ち尽くす人、黙々とガレキの除去に取り組む人々・・・。
142人の児童が犠牲になった、名古屋市南区白水小学校の生徒や教職員が綴った作文集「台風記」も展示。
港区の南陽小学校に川崎市の小学校から支援物資を詰めて届いたドラム缶、長く続いた停電の日々の必需品だったカンテラ、大切な着物が詰まっていた衣装箱なども並んでいます。
アサヒグラフなど出版物の特集号、企業や全国から駆け付けてくれた支援活動の様子も。2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災の被災地で、名古屋市と友好都市協定を結んでいる陸前高田市との取り組みにもふれています。