
「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」のある愛知県庁大津橋分室

「終戦の日」(8月15日)が近づきました。今年は戦後70年のいわば節目の年。各地で不戦の誓いを新たにする催しが開かれていますが、名古屋にオープンしたばかりの「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」(名古屋市中区丸の内3丁目4-13 愛知県庁大津橋分室)を訪ねてきました。
地下鉄市役所駅4番出入り口から歩き、大津橋の交差点を渡ってすぐのところにあるレトロな建物、大津橋分室。
1階の展示室に入ると、まず目に入ったのが大戦末期に日本の町々を恐怖に陥れた250キロ爆弾。
とりわけ三菱重工など軍需産業の集積地だった名古屋は、米軍機による250キロ爆弾や焼夷弾の大空襲を受け、街は焦土と化しました。
幼児だった僕は別のところに住んでいましたが、僕には夜空に無数のオレンジ色の玉が尾をひいて落ちてくるように見えた焼夷弾や、飛来した爆撃機に向けて照射される「照空灯」の光線、防空壕に逃げ込んだ記憶は消えていません。
展示ケースには、朝の連ドラなどで若い人たちも見覚えのある「愛国婦人会」や「大日本国防婦人会」のタスキ。
「さつまいも増産運動」の呼びかけや「配給物資購入通帳」「衣料切符」も。日に日に厳しくなった銃後の暮らしの「証し」です。
子供たちの環境も一変します。
絵本の「桃太郎」が退治する鬼の頭は金髪、目は青く色づけされています。
やがて学童疎開。子供たちが疎開先から家族宛に出した手紙や日記からは、お母さんたちに心配をかけまいと懸命に書いた気持ちが伝わってきます。
戦地からの軍事郵便には「点検済み」の朱印。手紙の文章の中の地名は伏せ「○○方面と」記されています。
学徒動員、学徒出陣。そして届いた戦死通知。
この資料館は市民、県民の請願から22年の歳月が流れて、やっと開設にこぎつけたといわれます。市民・県民から7500点もの資料が寄せられたそうです。
しかも、資料館ができた愛知県庁大津橋分室の建物は1933年(昭和8年)の建設。1933年といえばドイツでヒトラー政権ができ、世界大戦への歴史が一気に動きだした年です。
資料館のある建物は出征する兵士の隊列、爆撃で炎上する名古屋城などを見続けてきたわけで、「資料館にふさわしい建物」と思ったものです。
しかし訪れてみて、「物足りなさ」は否めませんでした。
部屋が狭いために、展示された資料は数百点。それも悲惨な戦地の状況を物語る資料はほとんどなく、いわば「銃後篇」といったところでしょう。
今後、定期的に展示替えをしていく予定のようですが、やはり保存資料の3分の1ぐらいを一度に見ることのできる資料館に、と思わずにいられません。
そこで、考えたのがこの資料館から歩いてでもいける愛知県護国神社そばの桜華会館にある「愛知平和記念館」(名古屋市中区三の丸1-7-2)です。
このブログでも昨年8月1日に掲載しましたが、ここには戦没者遺族から寄せられた遺品、サイパンやレイテ島での遺骨収集で発掘した品などが展示されています。
弾丸が貫通したヘルメット、銃剣、数珠、玉砕戦の中で守り抜いた軍旗の竿灯に付いていた小さな金属片・・・。中には血痕が今なお残る遺品も。
この記念館も展示場は狭く、展示品の説明も基本的なデータだけですが、遺品からは十分に平和への訴えが伝わってきます。
資料館と合わせ見ることで、不戦への思いがより深まるのではないでしょうか。