最近、こんな本を読みました。
鳴海風著「円周率を計算した男」上下(大型活字本)
読んだ動機は、
いつも行く図書館の大活字本の棚で、
以前から目について気になっていた本でした。
3.14159265359‥‥‥‥‥‥で始まる円周率の計算。
徳川鎖国時代の日本には、
西洋での円周率の研究成果は伝わっていなかった。
ところが、まったく独自な方法で、
円周率の計算を競っていた日本人が大勢居た。
和算・日本の数学――算木とそろばんと紙と筆に尺貫法。
村松茂清は寛文3年(1663年)に著した「算爼」で、
円周率の求め方と小数点以下、21桁まで計算した。
和算の大系を確立し没後、算聖と謳われる関孝和、
-寛永19年(1642年)~ 宝永5年(1708年)-
「算爼」を手にしたのは、算術の修業を始めた20歳そこそこでした。
孝和が最初の著作「規矩要明算法」を寛文4年(1664年)に出した年に、
表題作「円周率を計算した男」の建部賢弘が生まれた。
本書に収められている6本の物語は、
和算の最大潮流・関流を系統する算法者と、
関流の秘密主義、権門に嫌気をもつ算法者ら、
実在した算術家らの数学研究と師弟のしらがみ、
好敵手との怨嗟、妬み、業績の競いあいなど、
年代順に主要人物が登場します。
そして切ない恋模様が物語に色彩を添える。
*標題になっている「円周率を計算した男」
建部賢弘。寛文4年(1664年)生まれ。
甲府藩主徳川綱豊の桜田屋敷に通う。
算術家関孝和の門に3年前から入門しているが、
上司であり、師でもある孝和はなにも指導しない。
賢弘は勘定衆見習いで、不満・反感を募らせていた。
師孝和は言う「円理を極めるということは、
円周率の公式を求めること」だと。
孝和の研究書「求円周率術」を渡され、
今やることは円理(円周率)の公式だと知る。
「円周率計算の桁数」の計算に拘っていた自分の浅薄さに気付く。
演繹から帰納への発想の転換に気付いた賢弘は、
再び円周率計算に没頭する日々になる。円周率42桁を求めた。
しかし円理は見えてこなかった。
計算で疲れ果てた頭の片隅に気付いたことがあった。
収束値がほとんど変化しなくなった。
これが円理ではないか。近似値は無限級数になった。
円周率の自乗の無限級数の展開式の日本における最初の計算になった。
建部賢弘は極めた円理を「綴術算経」として纏め、
将軍吉宗に献上した。59歳であった。
献上した本は今でも内閣文庫に保存されているという。
それから28年後、宝永五年(1708年)算祖・関孝和が死んだ。
以下のことは読後、Webで得た知識です。
この公式は西洋では、
オイラーがベルヌーイにあてた1737年の書簡に初めて見られるもので、
賢弘の発見はこれより15年早い。
日本の数学世界では建部の名を冠にした「建部賢弘賞」として、
現代につながっている。
*初夢
平野忠兵衛・銀座役人。関流の若手算術家。
関孝和の最後の直弟子を自認。女房・お福。
建部賢弘同様に天文暦学の研究に打ち込んでいた。
8年間の研究成果を「歴算精義」にまとめ出版した。
享保14年(1729年)の大晦日。
銀座役人の年寄り役に退いた大晦日の晩、
算術研究を止める決心を女房に話そうと決心したが‥‥、
再び算術・暦学研究に精を出すことを決めた大晦日の夜になった。
*空出(からで)
勘定部屋勤めの多賀清七郎。明和5年(1768年)霜月。
久留米藩芝赤羽の上屋敷内のお長屋。妻百合が臨終の夕暮れ。
久留米藩お抱えの火消しの下役だったが、
算術の才を見出され勘定部屋勤めもするようようになった。
ある日、百合の墓参りに行くと、墓前に手を合わせる女がいた。
振り向いたその女は百合の妹、佳奈だと名乗った。
そのとき以来、佳奈はしげく清七郎の世話焼きに通いだした。
佳奈の献身に清七郎は疎ましく思うのだったが‥‥
*算子塚
鈴木安明(旧姓会田)は出羽の村山郡から江戸に出てきたのは、
明和6年(1769年)23歳のときだった。
遠縁の御普請方の鈴木清左衛門の養子になる。
幼い時からそろばん算術が得意でいた。
同役に神谷定令が居た。
関流の高弟・藤田貞資の門人で算士でもあった。
小枝という女性が居た。
養父の一人息子の許嫁だったが、子息が若くして死んだ後、
定令は小枝との縁談を決めていた。
ある日、湯島天神の拝殿前で小枝を見かけた。
安明は持っていた算子を小枝に与えた。
関流の宗頭に野心を燃やす定令と一匹狼の安明はライバルとして、
激しい算法論争を繰り広げる。
敵愾心を燃やしながら30年近くたったある日、
定令から愛宕神社で会いたいと安明に連絡があった。
老いた定令は一つの算子を出した。小枝が死ぬまで大事にしていたと。
二人の間の激しい算法論争は「小枝」への想いの激しさでもあったのだ。
*風狂算法
文化十三年(1816年)の師走。数奇者たち17人が歌仙を巻いていた。
その中に浮かぬ顔の山口和が居た。
彼は関流の算術家・望月藤右衛門の一番弟子である。
松尾芭蕉を崇拝する風流人でもあった。
和は、なにこれと、世話焼きで近づいてくる師の娘・綾乃が苦手だった。
和には、故郷・越後の水原に将来を言い交した「お恵」が居たのだ。
和がお恵に送った手紙の返事は一度も来なかった。
それに引き換え、綾乃の献身が、和にとって執拗なものになってきた。
遍歴算法を追い続けた和は二人の女性の愛に報いぬまま、長旅にでる。
和の前には、果てしなく続く一本の道があった。
*やぶつばきの降り敷く
陸前栗原郡佐沼大畑生まれの三吉が、
神田の長谷川寛の数学道場の門を初めてくぐったのは、
天保2年(1831年)だった。
同郷の先輩佐藤秋三郎の家僕としてであった。
足を濯ぐのを手伝てくれた「なみ」と初めての出会いだった。
長谷川道場の跡目争いや、流派の確執に翻弄される三吉を、
陰になり日向になり面倒を見ている「なみ」だった。
三吉には貧しさゆえに、女衒(ぜげん)に売られた姉があった。
女郎宿にいることを知った三吉は、会いにいったが……
遊歴算家としての心機一転の旅立つことになった三吉。
天保十年(1839年)10月1日の朝。
万感を込めて見送る「なみ」。振り返る三吉。
二人の胸に永年耐えていた激情が迸った。
6編の物語は歴史的事実を踏まえた、
わが国独自に発展した和算の水脈を物語として、
辿った歴史大河小説でした。
和算という余り知る必要のない分野ですが、
江戸時代の日本人に身分に関係なく愛好されていたことを知りました。
たにしの爺、読んでおいてよかったと思う、いい本でした。
表題作「円周率を計算した男」は第16回歴史文学賞を受賞しています。
鳴海風という作家は始めて知りました。1953年、新潟県生まれ。
秋田高校から東北大学へ進み、機械工学専攻を修了したエンジニアです。
何冊もの和算や暦算に関する作品を上梓しています。
この本と前後して「和算忠臣蔵」という作品も読みました。
忠臣蔵討ち入り義士と、吉良方の上杉家の武士が、
和算と剣術を通じて親友であったことと、
朝廷の暦と幕府の暦の指導権争いを絡ませた、
「忠臣蔵外伝」とも言う内容でした。
長くなりましたが、最後までお付き合いありがとうございます。