写真は白馬幼稚園内の遊具の一つ。娘はこの遊具に心惹かれて入園を決意したが、結局、一度も遊ぶ機会はなかったという。飾りだったのだろうか。
【言葉の違いは気にしないクニ】
昆明に到着した翌週から、さっそく通園した。最初の日、門をくぐった後、娘とどう別れようかと思案する私をよそに、担任の先生に「大丈夫だよ」という様子で娘は肩を軽く押されると、私に「バイバイ」と手を振ってあっさりと教室へいってしまった。子供が適応できなければ、即座に日本に夫を残して帰ろう、まだ間に合うと思っていただけに、驚くとともに気が抜けた。
担任の周先生は、娘が一人でいるとさりげなく子供たちの中へと誘導し、中国語で話しかけ、同時に身振りで示す。娘が中国語を理解していようといまいと、子供達も含めて誰も気にする様子はない。それどころか、子供達も頻繁に中国語で話しかける。三ケ月もすると、娘を日本語の先生に見立て、先生ぐるみで「ニーハオ。シュオ・リーベンフア(ニーハオを日本語で言ってみて)」などという遊びが始まった。
「日本語の先生になっちゃった」と娘は上機嫌。遊びも、最初のうちは男の子集団にまじっておにごっこをしていたが、やがて
「本当はおままごとをしたい!」と娘はじっと、おままごとの様子を観察し続け、半年がすぎた頃には、その仲間にも加わるようになっていた。なんと将来の結婚相手まで、見つけ、ハンサムくんと二人で仲良く手をつないでいることすらあった。苦手なのは常時、唐がらしが調味料に使われている「給食」だけ。我が娘と、幼稚園すべての人々のコミュニケーション能力には、すっかり感心させられた。
園の廊下には、あちこちに「講普通語(北京語を話しましょう)」と書かれたプレートが貼られていた。街には北京語を激しくなまらせた昆明語や、各少数民族の独自の言語が飛び交っているので、たとえ地元の子供でも、先生から正しい中国語を学ぶ必要が出てくるらしい。そういう土地柄なので「日本語」程度ではひるまない。これは幼稚園に限らず、市場でもタクシーでもそうだった。私が、彼らの呼びかけに対して「分かりません」という態度を示しても、構わず話しかけ続け、何度でも同じ言葉を繰り返したりして、ついにはニュアンスを通じさせてしまう。なかには「この人、言葉わからないよ」と仲間と笑ったり、諦めて無言になる人もいたが、半分ぐらいの人はひるまなかった。昆明は、日本と違って異言語への敷居が低く、受入れが柔軟な土地柄なのだった。日本がいかに島国かを痛感した。
ところで娘の遊び方を見て、気づいたことがある。男の子のする遊びは、言葉不要のチャンバラやおにごっこ。一方、女の子は「はい、おねんねしましょ」などと言葉を介して遊ぶ、おままごとやお人形さんごっこなどが多いということだ。女性の方が言語獲得能力は高いと以前に聞いたことがあったが、幼少時の遊びから、すでに差が出ていたのだと改めて感じた。外国にいると、観察も細やかになっておもしろい。
【言葉の違いは気にしないクニ】
昆明に到着した翌週から、さっそく通園した。最初の日、門をくぐった後、娘とどう別れようかと思案する私をよそに、担任の先生に「大丈夫だよ」という様子で娘は肩を軽く押されると、私に「バイバイ」と手を振ってあっさりと教室へいってしまった。子供が適応できなければ、即座に日本に夫を残して帰ろう、まだ間に合うと思っていただけに、驚くとともに気が抜けた。
担任の周先生は、娘が一人でいるとさりげなく子供たちの中へと誘導し、中国語で話しかけ、同時に身振りで示す。娘が中国語を理解していようといまいと、子供達も含めて誰も気にする様子はない。それどころか、子供達も頻繁に中国語で話しかける。三ケ月もすると、娘を日本語の先生に見立て、先生ぐるみで「ニーハオ。シュオ・リーベンフア(ニーハオを日本語で言ってみて)」などという遊びが始まった。
「日本語の先生になっちゃった」と娘は上機嫌。遊びも、最初のうちは男の子集団にまじっておにごっこをしていたが、やがて
「本当はおままごとをしたい!」と娘はじっと、おままごとの様子を観察し続け、半年がすぎた頃には、その仲間にも加わるようになっていた。なんと将来の結婚相手まで、見つけ、ハンサムくんと二人で仲良く手をつないでいることすらあった。苦手なのは常時、唐がらしが調味料に使われている「給食」だけ。我が娘と、幼稚園すべての人々のコミュニケーション能力には、すっかり感心させられた。
園の廊下には、あちこちに「講普通語(北京語を話しましょう)」と書かれたプレートが貼られていた。街には北京語を激しくなまらせた昆明語や、各少数民族の独自の言語が飛び交っているので、たとえ地元の子供でも、先生から正しい中国語を学ぶ必要が出てくるらしい。そういう土地柄なので「日本語」程度ではひるまない。これは幼稚園に限らず、市場でもタクシーでもそうだった。私が、彼らの呼びかけに対して「分かりません」という態度を示しても、構わず話しかけ続け、何度でも同じ言葉を繰り返したりして、ついにはニュアンスを通じさせてしまう。なかには「この人、言葉わからないよ」と仲間と笑ったり、諦めて無言になる人もいたが、半分ぐらいの人はひるまなかった。昆明は、日本と違って異言語への敷居が低く、受入れが柔軟な土地柄なのだった。日本がいかに島国かを痛感した。
ところで娘の遊び方を見て、気づいたことがある。男の子のする遊びは、言葉不要のチャンバラやおにごっこ。一方、女の子は「はい、おねんねしましょ」などと言葉を介して遊ぶ、おままごとやお人形さんごっこなどが多いということだ。女性の方が言語獲得能力は高いと以前に聞いたことがあったが、幼少時の遊びから、すでに差が出ていたのだと改めて感じた。外国にいると、観察も細やかになっておもしろい。