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英雄のつくられ方1

2008-05-10 00:35:15 | Weblog
写真は徳欽県城からミンヨン村へと向かう道路にて。瀾滄江へ切り立った崖が両側から迫る。このあたりの道路の多くは崖の途中に無理矢理削りつくられているため、長雨が続くと崖崩れなどがおき、たいへん危険な道となる。

【どこにでもいそうな現代青年】
 2004年6月20日午後7時。長雨が降りしきる中、徳欽からミンヨン村へと子供らの学用品をリュックにつめて家路へとジープで急ぐ青年がいた。彼の行く道の片側には高度4000メートル級の頂が直立し、もう片側には濁流が渦巻く瀾滄江(メコン河の中国側の名称)が深く谷をえぐり、落差80メートルの崖となっていた。そこで彼の消息は途絶えた。

 いつまでも帰らぬ馬驊(マーフア)のために翌日から村人らによる捜索が始まった。2日目には村人のほとんどが生還を祈ってチベット仏教式の祈りを捧げ始め、9日目には死者への供養の祈りへと代わった。また遭難5日後には昆明から特派員記者がやってきた。やがて彼の生き方の独特の光彩に記事が集中しはじめた。

 彼は2003年にふらりとジーンズに緑のポロシャツ、よれたリュックを一つ背負ってふらりとミンヨン村へとやってきた。外見は典型的な都会の若者。30歳の彼が村に住みたい、というので、村の一隅を与えた。村長は場所を与えつつも「長くはいまい」とふんだという。

1週間後には一人でバスケット場とシャワー室、氷河の雪解け水を利用したトイレを作り上げ、子供たちを招き入れ、徐々に村人に受け入れられる。やがて小学生の英語教師を無償で志願し、週2回の授業を始めた。遠巻きでみる村人らも1年後に子供たちの学力がアップしたのを実感して、なくてはならない存在へとなっていった。

 ある時、風邪を引いた彼を見舞いに同年配の村人が訪れると、部屋に暖房といえるものはチベット式外套とワラのみ。あまりに身の回りにかまわない彼に粥をあげながら、日用品の提供を申し出ると、彼は烈火のごとく起こり「私はあなた方にお金がないことを知っている。そんなものをもらうためにきたのではない」とそっぽを向いたいう。

 そのため彼の遺品は鉛筆とノート、パソコンと粗末な机と布団ぐらいだった。そこからたくさんのミンヨン村に関する未発表の論文や詩が見つかった。彼は詩人であった。

 週末には一人、村の反対側の斜面に登り、梅里雪山を眺め、星を眺めては満足そうにしていた。その姿はさながら「神仙」であった、と村人は言う。

 記者が目を付けたのは、まず、彼の経歴だった。中国人ならだれでもあこがれる「一流」の経歴の持ち主だったのだ。   (つづく)
コメント (2)
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