写真は、水質が中国最高に劣悪レベルの劣5類に認定された2004年撮影の滇池。アオコが浮き、風向きによっては臭いも発する状況だった。いまは少し改善されたと昆明市政府は宣伝するが、2010年に見ても状況は変わらずであった。2012年にはヒ素濃度が上がるなどの新たな問題も起きている。
ただ、1980年代までは文人墨客が船で詞を作ったり、人々が泳ぐきれいな湖で飲用水にも指定されていた。明初期も清澄な湖だったことは間違いない。
【沐英の奇襲作戦】
(『増訂南詔野史』下・段明を主として翻訳。中央政府によって編まれた『明史』と雲南で編まれた『南詔野史』の違いをお楽しみください。)
「 洪武14年(1381年)(旧暦)9月に沐英ら明の大軍30万が雲南に攻め込み、12月は四川・貴州に近い交通の要衝地・曲靖(昆明より北東約120㎞ほど)まで到達しました。そこには元の防衛軍が平章・ダリマ(達里麻)以下、精兵10万を率いて迎撃準備を万端に整えていました。
副将沐英は征南将軍の傅友徳に
「わが軍は深く分け入り疲れてはいますが、まだ心に恐れはありません。いまなら突破できます。」(『明史』では「わが軍は疲れており、おそらく撃退されてしまいます」)
と進言し、(ある策をもって)沐英は別道隊を率いて下流に向かいました。
さて、濃霧に覆われていた白石江の霧が晴れてくると、両軍が両岸に相まみえる構図となっていました。対岸に明の大軍が望まれたのを見て驚いたダリマが軍を率いて南岸に行くと、流れを渡った沐英軍が突如現れ、銅の角笛を吹き鳴らし、多くの旗を立て、多くの伏兵があるかのように細工してありました。
ダリマ率いる元軍が驚いてちりぢりに撤兵を始めたところ、傅友徳率いる主力軍が川を湧き上がったように渡って整然と進軍。敵兵を蹴散らし、将軍ダリマを生け捕り、屍は10余里にわたり、捕虜2万人を討ち取りました。傅友徳はさらに散った残兵にも進撃し、沐英らに雲南深くに分け入らせました。
元の梁王は、ダリマが破れたことを聞くと、城を棄て、最後に滇池の中島にたどり着きました。まず、后の首を絞めて殺し、自分は毒を煽ったものの死ねず、入水して果てました(『明史』では梁王は井戸に飛び込んで自殺します。)
地元の長老たちは雲南城の西30里にある浄耳山に遺体を納め、村人たちは妙音寺のそばに廟を立てました。(いまは、小さな祠が残るのみ。)
雲南右丞の観音保が城を明け渡して投降しました。
沐英らが入城しても規律を犯すことは全くなく、梁王の金印ほかいくつかの王の印を治めると、民を安んずることを行いました。」
*昆明からよほど離れた敗戦にもかかわらず、王家が自殺するほど最終決戦だった曲靖での戦い。そこで大活躍を見せたのが沐英だったというわけです。しかも、征服者だったにもかかわらず沐英に好意的な文章が残されていたことは、注目されてもいいでしょう。
(つづく)
ただ、1980年代までは文人墨客が船で詞を作ったり、人々が泳ぐきれいな湖で飲用水にも指定されていた。明初期も清澄な湖だったことは間違いない。
【沐英の奇襲作戦】
(『増訂南詔野史』下・段明を主として翻訳。中央政府によって編まれた『明史』と雲南で編まれた『南詔野史』の違いをお楽しみください。)
「 洪武14年(1381年)(旧暦)9月に沐英ら明の大軍30万が雲南に攻め込み、12月は四川・貴州に近い交通の要衝地・曲靖(昆明より北東約120㎞ほど)まで到達しました。そこには元の防衛軍が平章・ダリマ(達里麻)以下、精兵10万を率いて迎撃準備を万端に整えていました。
副将沐英は征南将軍の傅友徳に
「わが軍は深く分け入り疲れてはいますが、まだ心に恐れはありません。いまなら突破できます。」(『明史』では「わが軍は疲れており、おそらく撃退されてしまいます」)
と進言し、(ある策をもって)沐英は別道隊を率いて下流に向かいました。
さて、濃霧に覆われていた白石江の霧が晴れてくると、両軍が両岸に相まみえる構図となっていました。対岸に明の大軍が望まれたのを見て驚いたダリマが軍を率いて南岸に行くと、流れを渡った沐英軍が突如現れ、銅の角笛を吹き鳴らし、多くの旗を立て、多くの伏兵があるかのように細工してありました。
ダリマ率いる元軍が驚いてちりぢりに撤兵を始めたところ、傅友徳率いる主力軍が川を湧き上がったように渡って整然と進軍。敵兵を蹴散らし、将軍ダリマを生け捕り、屍は10余里にわたり、捕虜2万人を討ち取りました。傅友徳はさらに散った残兵にも進撃し、沐英らに雲南深くに分け入らせました。
元の梁王は、ダリマが破れたことを聞くと、城を棄て、最後に滇池の中島にたどり着きました。まず、后の首を絞めて殺し、自分は毒を煽ったものの死ねず、入水して果てました(『明史』では梁王は井戸に飛び込んで自殺します。)
地元の長老たちは雲南城の西30里にある浄耳山に遺体を納め、村人たちは妙音寺のそばに廟を立てました。(いまは、小さな祠が残るのみ。)
雲南右丞の観音保が城を明け渡して投降しました。
沐英らが入城しても規律を犯すことは全くなく、梁王の金印ほかいくつかの王の印を治めると、民を安んずることを行いました。」
*昆明からよほど離れた敗戦にもかかわらず、王家が自殺するほど最終決戦だった曲靖での戦い。そこで大活躍を見せたのが沐英だったというわけです。しかも、征服者だったにもかかわらず沐英に好意的な文章が残されていたことは、注目されてもいいでしょう。
(つづく)