マレーシアの石油開発現場へ(1989-92年)
アラビア石油の名称がアラビアの地名に由来していることは説明するまでもない。英文名称はArabian Oil Company(略称AOC)である。このため外国では社名を言っただけでは日本企業と理解されないことがある。また創業当初は日本国内でも外資系企業と勘違いされることが多かったと聞いている。普通なら例えば「アラビア-日本石油開発」とでも言うように社名に「日本」を挿入するところである。「サウジ・アラムコ(SAUDI-ARAMCO)」と呼ばれるサウジアラビアの国営石油会社はそもそも米国のメジャーが設立した企業(旧名ARAMCO)であるが、ARAMCOは「Arabian American Oil Company」の略称であり、社名に米国(American)の文字が入っている。敢えて「日本」をはずし単なる「アラビア石油」と命名したところに創業者山下太郎の強い思い入れが感じられる。
サウジアラビアの苦難の石油開発乗り越えて経営基盤が安定すると、当然のことながら事業の多角化が模索された。多角化にも色々な方法がある。最もオーソドックスな方法はアラビア以外のどこか他国で新たな石油開発を手掛けることであり、これは事業の水平展開と言えよう。第二の方法としては下流部門と言われる石油精製業への進出で、垂直展開と呼ばれるものである。その他に総合エネルギー会社に脱皮するため石油以外のエネルギー資源分野に進出する異分野展開がある。アラビア石油はそのいずれにも手を伸ばした。
垂直展開の精製業進出が千葉県袖ケ浦のコンビナートリファイナリー「富士石油」に結実したことは本稿第6回『悲願の石油精製進出』に触れたとおりである。総合エネルギー会社を目指す異分野展開として1970年代からアフリカのサハラ砂漠南部のニジェールで天然ウランの探鉱作業に着手した。第一次オイルショック(1973年)、第二次オイルショック(1979年)により石油価格が暴騰し、原子力発電が将来のエネルギーとして脚光を浴びたからである。そして水平展開としての新たな石油開発も数多く手掛けた。こちらはアラビア石油本来の業務の延長上にあり、社内の経験と人材が活かせる分野として最も力が入れられた。中国の渤海湾では同業他社と共に「日中石油開発会社」を設立し実際に石油を日本に持ち込んだ。その他ノルウェー沖の北海油田や米国メキシコ湾の石油開発事業にも参画したが、これらはアラビア石油が実際の操業に参画するのではなく、出資者として応分の原油を獲得するという形態であった。
しかし事業の多角化は富士石油を除いてめぼしい成果を上げることはできなかった。ウラン資源開発は鉱脈量が採算ベースに乗らないことがわかり断念した(原発の現状を考えると本格的な開発に移行しなかったことはむしろ不幸中の幸いだったかもしれない)。中国での石油開発も莫大な開発投資を行ったものの生産は先細りとなり共同事業は解散した(その結果、日中石油開発が背負い込んだ莫大な借金は本稿第14回「広報課長拝命」で触れたように結局その殆どが税金で補てんされたのである)。唯一成功した富士石油とて精製業の宿命で利益は少なく親会社のアラビア石油を潤すまでには至らなかった。
結局会社はアラビアに続く第二、第三の柱を打ち立てることができないまま利権期間も残すところ20年を切った。そのような中で会社が最後のチャンスとして取り組んだ事業がマレーシアにおける石油開発であった。マレーシア政府が公開入札したボルネオ島サラワク州の陸上鉱区を落札、「マレーシア・バラム石油開発」が設立された。直ちに現地に事務所が開設され2年の準備の後、試掘作業が始まり二本目の井戸で油層を掘り当てた。アラビア石油本社はカフジに次ぐ第二の柱が生まれるものと喜んだ。そのような中で現場の二代目管理部長の辞令を受けた。初めての子会社出向である。先輩同僚の期待を胸に筆者自身も勇んで現地に赴任した。1989年10月のことである。
石油開発の現場はボルネオ島のマレーシア領サラワク州にあり、ブルネイと国境を接するミリ市郊外のジャングルの中である。同地では既に第二次大戦前に国際石油会社のシェルが石油を生産していた。太平洋戦争がはじまると日本の帝国陸軍はスマトラ島のパレンバンなどと共にミリ油田を占領した。当時「石油の一滴は血の一滴」のスローガンのもと石油資源の確保が最重要課題だったのである。シェルの石油施設は接収され、新潟の日本石油の現場などから徴用された多数の技術者がミリに送り込まれた。しかしわずか数年でミリ油田は連合軍に奪還された。ジャングルに逃げ込んだ徴用工たちは辛酸をなめ多くが命を落としたのであるが、このことについては後ほど改めて触れる。戦後しばらくしてミリ油田が枯渇したためシェルは鉱区をマレーシアに返還した。しかしその鉱区に未発見の油田があるのではないかと考えたマレーシア政府が1980年代に国際入札にかけ、落札したのがアラビア石油と言う訳である。
既にシェルがあらかた掘りだした後なので大きな油田を発見できる可能性は低いが、辺り一帯の地下に未発見の小型油田がある可能性は高かった。そしてマレーシア・バラム石油開発がそれを掘り当てたのである。関係者の期待は大きく膨らんだ。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp