ミリ:カナディアン・ヒルと日本人墓地
ミリはボルネオ島の北岸マレーシアのサラワク州にある。天然ガスで有名なブルネイと国境を接し、その間をバラム川が流れている。ミリの町は南シナ海に面し、すぐ後ろにカナディアン・ヒルと呼ばれる小高い丘がある。丘の背後は鬱蒼とした熱帯のジャングルが果てしなく広がりやがて高い山脈へと続く。山脈の反対側はインドネシア領カリマンタンであり、山脈の東端にはボルネオ島の最高峰キナバル山がそびえている。
ミリが石油の町と呼ばれるようになったのは1910年に英国シェル石油が商業量の石油を発見した時から始まる。通常の石油発見がそうであるようにミリの丘の麓では古くから黒い燃える液体が地中から沁み出していた。日本の秋田県や新潟県も同じような現象が見られ江戸時代には「臭う水(くそうず)」(異臭を放つ液体)と呼ばれ、灯油ランプ或いは防水塗布剤として利用されていた。明治以降商業的な生産がおこなわれるようになり、これが日本の石油産業の始まりとなったことは本稿第7回で触れたとおりである。
カナディアン・ヒルは地質学的に言えば褶曲構造の頂部が地表に現れたものである。褶曲構造はいわばお椀を伏せたような形でありその中に石油或いは天然ガスが溜まっている可能性が高いため、頂上から真下に井戸を掘るのが石油開発の基本セオリーである。こうして1910年にシェル石油はミリ油田を発見したのである。試掘井を掘るためにカナダから働きに来ていた技師が丘の上から南シナ海に沈む夕陽をながめ、「まるで故郷と同じ風景だ」とつぶやいたことからこの丘はそれ以来カナディアン・ヒルと呼ばれるようになった。
この丘の上には試掘井の記念碑と共に日本人墓地がある。太平洋戦争が始まった翌年日本陸軍はミリ油田を占領、日本から石油技師を徴用して艦船や航空機の燃料工廠とした。占領後わずか2年でミリ油田は連合軍に奪還されたが、この時陸軍は徴用工を置き去りにして撤退した。残された民間人の石油技師たちは軍隊から叩きこまれた「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉に縛られ、着の身着のままで町の背後のジャングルに逃げ込んだ。しかしそこはマラリア或いは吸血動物の蛭などの世界であり、多くの日本人は命を失った。氏名も死亡場所も解らないまま死んでいった民間徴用工を弔うために戦後丘の上に無名墓地が建てられた。熱帯ジャングルの中にある墓碑は放っておくとすぐに雑草に埋もれてしまうが、時折草をむしり花を手向けてくれる奇特な華僑が地元におり、墓はこぎれいに守られている。筆者もミリ赴任中、墓地を訪れはるか半世紀昔にこの地で石油開発に従事し死んでいった先達に思いを馳せた。
しかし著者が半世紀前の戦争を思いやっていたまさにその時期にアラビア石油は本物の戦争に直面したのであった。1990年8月、イラクが突如クウェイトに侵攻した。クウェイトは半年の間イラクに占領された後、翌年1月多国籍軍により漸く解放された。いわゆる「湾岸戦争」である。クウェイトと国境を接するカフジはまさに戦争の最前線の町となり、アラビア石油は会社存亡の危機に陥ったのである。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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