ジェトロ・リヤド事務所開設の経緯
ジェトロ・リヤド事務所は筆者が赴任する2年前の1994年に開設された。日本製品の輸出促進機関として発足したジェトロ(日本貿易振興会、現日本貿易振興機構)は、日本側の大幅な輸出超過が常態化するに従い輸出相手国から貿易不均衡の是正、現地での雇用創出或いは技術移転のための日本企業進出が求められるようになった。それは経済のグローバル化に対処する日本企業自身の進む道でもあった。日本企業が現地に進出する動機は賃金が安く且つ有能な労働力が得られ、背後に大きな市場が控えていることである。こうして中国、アジアに次々とジェトロ事務所が開設された。
一方経済発展が至上命題である日本にとってはエネルギー特に石油の安定確保が常に大きな課題であった。オイルショックの頃は日本が輸入する石油の9割近くがサウジアラビアなどからペルシャ湾のホルムズ海峡、そしてマラッカ海峡を通って運ばれてきた。しかしペルシャ湾周辺は常に紛争が絶えず、1979年の第二次オイルショック直後にイラン・イラク戦争が勃発、日本政府は事態の深刻さから石油の中東依存度を下げる道を模索した。その結果1980年代に石油の中東依存度は6割まで低下したが、この間に石油は大幅に値下がりしたため石油会社の開発熱は冷め、中東依存度はオイルショック前に逆戻りし、再び中東産油国が見直される状況となったのである。
同じ時期に中国、インドなど新興国が目覚ましい経済成長を遂げ世界の石油需要が急増している。石油は売り手市場となり日本はサウジアラビアなど中東産油国との関係強化の必要性に迫らた。一方、サウジアラビアも人口爆発と言う大きな問題を抱えていた。もともとアラブ人は多産多死型であったが、潤沢なオイルマネーで医療施設が整備された結果、多産少死となり未成年者が人口の過半数を占めるまでに膨れ上がった。その若者たちが1990年代に社会へ巣立ち始め雇用の創出が重大な課題となった。石油以外にこれと言った産業を持たないサウジアラビアは外国企業を誘致して雇用を創出する方針を打ち出した。
サウジアラビアとの関係強化を探る日本政府。外国企業の進出を望むサウジアラビア政府。両者の思惑が一致し日本の投資促進機関として首都リヤドにジェトロ事務所を開設することになったのである。但し日本側に少なからぬ問題があった。当時政府の外郭団体に集約化、合理化の嵐が吹き荒れジェトロも新たな海外事務所を開設する場合はどこか既存の事務所を閉鎖することを求められた。「一増一減」の原則である。全世界をカバーするジェトロにとってリヤド事務所開設は優先度が低い。日本の民間企業がジェトロに求めるのは中国或いは東南アジア新興国の現地事務所である。
ジェトロ内部ではリヤド事務所開設に異論が少なくなかったと聞く。しかしジェトロを統括する通産省(現経済産業省)にとっては石油の安定確保が重要であり、アラビア石油の利権契約延長を後押しすることが国益につながると判断された。当時のジェトロもアラビア石油もトップは共に通産省の元次官である。結局リヤド事務所の新設が決まった。
但しジェトロにはリヤド事務所運営の十分な予算が無い。そこでリヤド事務所は同じ通産省の外郭団体である中東協力センター(JCCME)との共同事務所の形とし、必要経費はJCCMEが全額負担、事務所名にジェトロの名前を冠することとなった。因みにJCCMEは中東と日本の経済協力のための組織で1973年の第一次オイルショックの年に設立されたことからもわかるとおり、中東産油国との経済関係の強化を目的としている。会長、理事長はそれぞれ経団連及び通産省出身者で固め、実務はアラビア石油からの出向者が担っていた。ジェトロ・リヤド事務所は通産省を頂点とし二つの外郭団体(ジェトロ及びJCCME)を底辺とするトライアングルの産物なのである。リヤド事務所は1994年に開設され所長にはアラビア石油から社員が出向した。
筆者は二代目所長として1996年にリヤドに赴任した。事務所名は「ジェトロ」。外国で日本政府の出先機関として仕事を行うには何と言ってもジェトロのブランドは絶大な効果がある。そのことは筆者自身現地に赴任して身にしみてわかった。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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