石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(1)

2023-05-19 | その他

(英語版)

(アラビア語版)

(目次)

プロローグ(1)

 

1.スエズ運河グレート・ビター湖の会談(1/2)

 第二次世界大戦における連合国の勝利が確実となった1945年2月14日。スエズ運河北部に位置するグレート・ビター湖。そこに浮かぶ米国の最新式巡洋艦クインシー号上で米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトはサウジアラビア初代国王アブドルアジズ・ビン・アブドルラハマン・アル・サウド(通称:イブン・サウド)と首脳会談を行った。

 

 ルーズベルト大統領は直前の4日から11日までクリミア半島のヤルタで英国チャーチル首相、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)スターリン書記長と3者会談を行い(ヤルタ会談)、第二次大戦後の新しい世界秩序や日本の無条件降伏について話し合っている。

 

ルーズベルト大統領はヤルタ会談終了後マルタ島経由で直ちに帰国する予定であった。しかしマルタで戦艦クインシーに乗艦したルーズベルトは米国本土に向かうのではなく、地中海におけるドイツの潜水艦Uボートによる攻撃の危険を冒してクインシーをスエズ運河に回航させ、サウジアラビア国王と会談を行った[i]。大統領が帰国前の貴重な時間を割き危険を冒してまで国王と会談したことは、彼自身及び米国が戦後のアラブ世界の盟友としてサウジアラビアを重視していたことを何よりも明白に物語っている。

 

米国がサウジアラビアを重視した理由の一つは同国の地下に眠る石油資源にあった。第一次世界大戦でドイツの猛攻にあったフランスのクレマンソー首相が当時の米国大統領ウィルソンに宛てた「石油の一滴は血の一滴」と言う有名な電文があるが、第二次大戦でその価値がますます実証され、戦後の経済復興にも不可欠なものであることはルーズベルトならずとも誰の目にも明らかだった。

 

 両世界大戦の谷間の1930年前後にイラク及びクウェイトで大油田が発見され、ペルシャ湾が大油田地帯であることが立証された。その掉尾を飾るのが1940年の米国石油企業による世界最大のサウジアラビア・ガワール油田発見である。70数年後の今もガワール油田の埋蔵量を上回る油田は発見されておらず、今後もこの記録が破られることは無いであろう。ガワール発見のほぼ一年前に第一次世界大戦が勃発したため、本格的な油田の開発は凍結されたままであった。第二次大戦中の石油の消費量は第一次大戦時の実に百倍に達しており、米国は新しく発見する以上のペースで消費し石油の供給が先細りになっていることを大統領は憂慮していた。米国としては戦争が終わり次第一刻も早くサウジアラビアの油田の開発に乗り出すことで、石油を安定的に確保するとともに合わせて戦後の世界エネルギーの覇権を握りたかったのである。

 

(続く)

 

荒葉一也

(From an ordinary citizen in the cloud)

 

前節まで:http://ocininitiative.maeda1.jp/EastOfNakbaJapanese.html

 

[i] レイチェル・ブロンソン著「王様と大統領 サウジと米国、白熱の攻防」(佐藤陸雄訳、毎日新聞社刊)P.71参照

 

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