6月6日。日曜日。主日。
『キリストの聖体 祭日』

『これはわたしの体である』 『これはわたしの血、契約の血である』
『キリストの聖体 叙唱』
『聖なる父よ、
主の晩餐を祝うわたしたちは、
あなたの限りないいつくしみをたたえ、 感謝の祈りをささげます。
永遠の祭司キリストは、御自分を救いのいけにえとしてあなたにささげ、
唯一永遠の奉献を全うされました。
キリストのことばに従ってわたしたちはその記念を行い、
命のパンと救いの杯を受けて、主が来られるまでその死を告げ知らせます。
神の栄光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、
わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。』
『キリストの御言葉』
『わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、
いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。』
ヨハネによる福音書 6章56節
『キリストの聖体』の祝日
聖体に対する信心が高まったのは13世紀のことです。
1264年。教皇ウルバノ4世が教令を発布し、
この祭日はローマ教会全体で祝われるようになりました。
『毎日の読書』より
有り難くも、
信仰生活に熱心だった、小さい頃の我が子供達です。
母・私へのプレゼントを大切にしている私です。

『小学生息子からの母の日のプレゼント』 『中学生娘からの修学旅行の土産』
33年前。1987年5月10日。 33年前。1987年10月秋。
息子が作成した『聖体』もどき2枚 『26聖人殉教地』
『キリスト』と『フランシスコ・ザビエル』 西坂公園で拾った『石』と包み紙袋
の『お姿』 「もしかしたら御利益があるかもしれません」
が、デッサンで描かれています。 と、『26聖人の説明』とともに書かれています。
有り難いことに・・・
『キリストの聖体』から力を頂き、 小さい子供達の『信仰』が養われていきました。
中学生になり部活活動に忙しくなる前の子供達は、
週日の朝ミサに、日曜日の主日ミサに、熱心に出席し、
息子はミサの侍者をつとめました。
幼児洗礼の子供達は、20歳で受洗した私とは、
『御聖体』のキリスト様との『一体』の日々の長さの『恵み』の違い、が確かにあります。
中学生になり社会の考え方にどっぷりとつかる前に、
子供達がキリスト様との出会いを頂いたことは、有り難いことでした。
神様に感謝!感謝!
『コヘレトの言葉』
『青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。』
コヘレトの手紙 12章1節
『今日の第二朗読 使徒パウロの言葉』
『皆さん、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、
人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、
更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、

御自身の血によって、
ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
なぜなら、
もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、
彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
まして、
永遠の〝霊〟によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、
わたしたちの良心を死んだ業から清めて、
生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。
それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、
召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。』
ヘブライ人への手紙 9章11-15節
つまりこういうことでしょうか?
旧約時代。
大祭司が、年に一度、毎年、至聖所に、
自分のためと民のための、『一年間の過失』の『神の許し・あがない』のために、
動物の『血』を携えて入りました。
これは、『キリストの時』を前もって告げていたのです。
新約時代。
大祭司としてこの世に来られたキリストが、
自分自身の『血』によって、

ただ一度で、
『永遠のあがない』を成し遂げたのです。
キリストは、神と人類の『最初の契約』の下で犯された人類の『罪のあがない』として、
ご自分の血を流して、神との『新しい契約』を結んだのです。
神と人間の関係を新しくしたのです。
神の『望み』を実現するために来たキリスト様は、
人類の罪の許しのための唯一の『いけにえ』によって、
人間に、神に近づく『新しい道』を開かれたのです。
『新しい契約』の、神と人間との間の、『仲介者』となられたのです。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、
「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」 と言った。
そこで、 イエスは次のように言って、 二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。 すると、水がめを運んでいる男に出会う。
その人について行きなさい。
その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」 と言っています。』
すると、
席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、

『最後の晩餐の開かれた広間』
巡礼仲間と祈りました。 2018年巡礼時
そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、

『最後の晩餐』 レオナルド・ダ・ヴィンチ作品
イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。
彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。
神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。』
マルコによる福音書 14章12-16節 & 22-26節
とうとう・・・
『イエスの時』
が来たのです。
イエスを裏切るユダが晩餐の席から出て行ったとき、夜となり、
全てが暗くなり、希望がなくなったように見えました。
『イエスの受難の時』 が来たのです。
しかし、その時は、
イエスは、『今や人の子が栄光を受けた』とおっしるとおりに、
最後まで神に従順であったイエスが神に栄光を与える『神の栄光の時』であり、
イエスの従順に応えて、神がイエスを復活させ、神からイエスに栄光を与える、
『イエスの栄光の時』が来たのです。
『イエスの犠牲』により、
神は、人間を再びお見捨てになることはないのです。
私たちも、
どんな過ちを起こしても、
御自分の愛で許してくださる神を信頼して、
神のもとへ帰りましょう。
強い信仰を祈りましょう。
『今日の祈願』
『信じる者の力である神よ、
御子キリストの尊い体と血をいただくわたしたちを、
約束された永遠の命にあずからせてください。』
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
皆様の『命の糧』となるような大好きな食べ物や飲み物は何ですか?
これを食べて飲めば元気になる! という『my元気のもと』で自粛生活を乗り越えて、お元気で!
『キリストの聖体 祭日』


『これはわたしの体である』 『これはわたしの血、契約の血である』
『キリストの聖体 叙唱』
『聖なる父よ、
主の晩餐を祝うわたしたちは、
あなたの限りないいつくしみをたたえ、 感謝の祈りをささげます。
永遠の祭司キリストは、御自分を救いのいけにえとしてあなたにささげ、
唯一永遠の奉献を全うされました。
キリストのことばに従ってわたしたちはその記念を行い、
命のパンと救いの杯を受けて、主が来られるまでその死を告げ知らせます。
神の栄光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、
わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。』
『キリストの御言葉』
『わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、
いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。』
ヨハネによる福音書 6章56節
『キリストの聖体』の祝日
聖体に対する信心が高まったのは13世紀のことです。
1264年。教皇ウルバノ4世が教令を発布し、
この祭日はローマ教会全体で祝われるようになりました。
『毎日の読書』より
有り難くも、
信仰生活に熱心だった、小さい頃の我が子供達です。
母・私へのプレゼントを大切にしている私です。

『小学生息子からの母の日のプレゼント』 『中学生娘からの修学旅行の土産』
33年前。1987年5月10日。 33年前。1987年10月秋。
息子が作成した『聖体』もどき2枚 『26聖人殉教地』
『キリスト』と『フランシスコ・ザビエル』 西坂公園で拾った『石』と包み紙袋
の『お姿』 「もしかしたら御利益があるかもしれません」
が、デッサンで描かれています。 と、『26聖人の説明』とともに書かれています。
有り難いことに・・・
『キリストの聖体』から力を頂き、 小さい子供達の『信仰』が養われていきました。
中学生になり部活活動に忙しくなる前の子供達は、
週日の朝ミサに、日曜日の主日ミサに、熱心に出席し、
息子はミサの侍者をつとめました。
幼児洗礼の子供達は、20歳で受洗した私とは、
『御聖体』のキリスト様との『一体』の日々の長さの『恵み』の違い、が確かにあります。
中学生になり社会の考え方にどっぷりとつかる前に、
子供達がキリスト様との出会いを頂いたことは、有り難いことでした。
神様に感謝!感謝!
『コヘレトの言葉』
『青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。』
コヘレトの手紙 12章1節
『今日の第二朗読 使徒パウロの言葉』
『皆さん、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、
人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、
更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、

御自身の血によって、
ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
なぜなら、
もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、
彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
まして、
永遠の〝霊〟によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、
わたしたちの良心を死んだ業から清めて、
生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。
それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、
召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。』
ヘブライ人への手紙 9章11-15節
つまりこういうことでしょうか?
旧約時代。
大祭司が、年に一度、毎年、至聖所に、
自分のためと民のための、『一年間の過失』の『神の許し・あがない』のために、
動物の『血』を携えて入りました。
これは、『キリストの時』を前もって告げていたのです。
新約時代。
大祭司としてこの世に来られたキリストが、
自分自身の『血』によって、

ただ一度で、
『永遠のあがない』を成し遂げたのです。
キリストは、神と人類の『最初の契約』の下で犯された人類の『罪のあがない』として、
ご自分の血を流して、神との『新しい契約』を結んだのです。
神と人間の関係を新しくしたのです。
神の『望み』を実現するために来たキリスト様は、
人類の罪の許しのための唯一の『いけにえ』によって、
人間に、神に近づく『新しい道』を開かれたのです。
『新しい契約』の、神と人間との間の、『仲介者』となられたのです。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、
「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」 と言った。
そこで、 イエスは次のように言って、 二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。 すると、水がめを運んでいる男に出会う。
その人について行きなさい。
その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」 と言っています。』
すると、
席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、

『最後の晩餐の開かれた広間』
巡礼仲間と祈りました。 2018年巡礼時
そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、

『最後の晩餐』 レオナルド・ダ・ヴィンチ作品
イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。
彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。
神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。』
マルコによる福音書 14章12-16節 & 22-26節
とうとう・・・



全てが暗くなり、希望がなくなったように見えました。
『イエスの受難の時』 が来たのです。
しかし、その時は、
イエスは、『今や人の子が栄光を受けた』とおっしるとおりに、

イエスの従順に応えて、神がイエスを復活させ、神からイエスに栄光を与える、
『イエスの栄光の時』が来たのです。
『イエスの犠牲』により、
神は、人間を再びお見捨てになることはないのです。
私たちも、
どんな過ちを起こしても、
御自分の愛で許してくださる神を信頼して、
神のもとへ帰りましょう。
強い信仰を祈りましょう。
『今日の祈願』
『信じる者の力である神よ、
御子キリストの尊い体と血をいただくわたしたちを、
約束された永遠の命にあずからせてください。』
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
皆様の『命の糧』となるような大好きな食べ物や飲み物は何ですか?
これを食べて飲めば元気になる! という『my元気のもと』で自粛生活を乗り越えて、お元気で!