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想像力を酵素とする音楽的感動

2020-11-22 16:17:20 | 折々の随想
最近読んだ2つの全く別の本から、タイトルのような言い方ができるのではないかと思うようになりました。

まず、これまで全く知らなかったクリーブランド管弦楽団のジョージ・セルが言った言葉。

「本物の指揮者は心で考え、頭で感じなければならない。」

普通の解釈の逆のように見えますが、指揮者にとって大切なことは、「感情を冷静にコントロールしながら、感動を頭脳的に作り出す。」ことだそうです。
そう言えば、何か不条理なことがあり、それに対して感情が高ぶっている時は、いわゆる「心臓がパクパクしている」状態ですね。頭に血が昇って「感動」も何もない状態。指揮者がこのような心持ちで楽団員を指揮しても、冷静な楽団員との心的なズレが生じるだけですね。

従って、心で考えるとは、つまり一切の感情を冷静にコントロールすることな訳ですが、これは音楽以外についても同じことが言えそうです。
例えば、何かの論点に関して誰かと議論している時、まずは感情を冷静に保ち、相手の頭の中に入り込み、どうすれば、相手の論拠となっている考え方についての矛盾点なり、非論理性なりを冷静に説きながら、無理やり説き伏せるのではなく、当の相手自らが気づいてくれるか? この点が重要になってきます。

端的にいうと、相手が頭の中で「ハッ」と感じる瞬間を作り出すことが出来れば、そこから先は相手の頭の中に新しい「常識」のようなものが新しく生成され、話がうまく通じることになります。

音楽についても同じことが言えます。長年バッハの音楽を聴いてきて、ようやく最近になって分かってきたことは、バッハの音楽に感動するとは、心で感じるものではなく、どうやら、計算された和音の組み合わせや音楽のテンポ、あるいはクライマックスを作り出す音の仕掛けのような、いわばバッハならではの「多彩なノウハウ」によって引き起こされるようです。

しかし、そのバッハの企みは、聴く人が脳内に持っている「酵素」によっては、全く音楽的な感動に作用しないこともあるのではないか。

それは、「人間は外面的幸福それ自体は吸収することができず、人間の心の中で「想像力」という酵素が作用することではじめて吸収できる状態になる。」と述べている、もう一つの本(長沼紳一郎「現代経済学の直感的方法」)から示唆を受けました。

例えば、野に咲く名もない一輪の花を見た時や、生まれたばかりの1ミリほどの蜘蛛の子が必死に蜘蛛の糸を垂らしている様を見た時、ある種の「想像力」があれば、得も言われぬ程に感動する人もいれば、「想像力」がなくて全く感じない人もいます。

これは、その人の脳内の酵素の多寡や、種類、また組み合わせ、あるいは可塑性などにより、目の前の同じ情景に対しても、人によっては全く違った感動を引きおこす(あるいは全く引き起こさない)ことが、この歳になって何となく分かってきました。

同じ人生を過ごすのなら、やはり日々新たな感動が脳内で作られるようになりたいものですね。



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地域での高齢者移動支援のあり方

2020-11-12 09:49:26 | もろっこクラブ
最近、伊藤忠商事が移動サービスの全国展開に乗り出すというニュースがありました。リリース以外の詳細は分かりませんが、複数乗車で65歳以上なら300円から700円でドアツードアの送迎を行うとしております。

一方、富山県の朝日町が「ノッカルあさひまち」と称して今年夏から実証実験を開始しております。
こちらは、ドアツードアの送迎ではなく停留所方式のようです。

詳細が分かっているあさひまちのケースに基づき、これまでの経験から少し感想を述べてみたいと思います。

1.スマホでの予約
  これは、高齢者には無理。携帯すら持っていない方がいますが、かろうじて、携帯での電話はできます。SMSメッセージが使える人もごく僅かですがいます。しかし、スマホ予約は無理です。

2.前日予約
  電話受付だと前日予約になるようですが、これは、予約システムの問題かと思います。人が受ける場合は、前日ではなくとも当日でも空きを案内できます。これも予約システムに頼る弊害。

3.病院での帰路予約ができない
  これも、何らかの予約システムに依存していることからくる弊害。送ったドライバーが直接、帰路電話をもらうようにすればOK。

3.ドライバーの運転技量
  二種免許があれば「運転上手」とは限りません。失礼ながら、一部のタクシー運転手の荒っぽい運転についてはよく噂を聞いております。また、運転講習を受けたドライバーならOKかというと、運転についての人それぞれの「癖」は、一朝一夕には治りません。これは、私の経験からも言えます。余談ですが、私が使っているマツダのCX-5というクルマにはiDMという、運転技量をレーティングする装置がついております。運転歴数十年の私でも、最高レベルのレーティングになるのに3年ほどかかりました。1日程度の運転講習会を受講したからといって、人の運転の癖はそうそう治るものではありません。

4.トラブル解決への町や協議会の役割
  特にドライバー側に何らかの問題があるかどうかを、町や協議会がチェックするのは意味があることだとは思います。しかし、これも運転と同じで人それぞれ人格面で「癖」があり、それを第三者がチェックするのはかなり困難でしょう。しかし、後ろ盾としてそうした団体がいるというのは、ある種の歯止めになるかも知れません。

5.自家用有償旅客運送の枠組み
 この枠組みだと、タクシーの半額程度の料金であり、タクシー会社とのバッティングが基本的には生じます。この町のようにタクシー会社が1社で、コミュニティバスでの依存関係もあり、共存共栄が図られている場合でも、タクシー料金の半額というのは、利用者にとってかなりきつい出費だと思います。

また、地域交通活性化協議会などの場で、(テリトリーなど)さまざまな制約が課せられたりして利便性に問題点があります。またタクシー並の管理コストがかかるのも問題でしょう。

以上、思いつく問題点を、私の3年間に及ぶ実体験に基づき挙げてみました。

では、どうするのがもっとも効率的で利便性もありかつ永続性があるのか?

ここは我田引水になりますが、私が手掛けている「互助による輸送」のスキームに基づき、ドライバーに対する支援プログラムを公的・私的組織が提供する形が一番いいかと思います。

何よりも、システム投資や組織運営コストが一切生じません。ドライバー一人で複数の利用者を担当する専任担当性を採用します。この専任担当性のメリットは、

1.個々の利用者について熟知できる。
 家の場所はもちろん、どういった病院でどのくらいの頻度で、一回あたり何時間ぐらいの時間を要するかは、大体予測できるようになります。お迎えに行く時間や場所が大体分かります。

2.利用者にとっても、乗るクルマとドライバーが固定されているので、病院などで送迎クルマを見つけやすいし、ドライバーと馴染みになって気楽に乗れるようになります。

3.ドライバーは、各利用者の家の地理的関係や、迎車のための所要時間、その利用者のニーズ(例えば、帰路に薬局やスーパーの寄る人など)は予めよく分かっているので、最適なルート編成が行える。相乗りや待ち合わせを許容するよう予め利用者の方にご了承頂いておりますが、待ち合わせ時間は、私の経験ではせいぜい10分から15分程度で済んでおります。

以上のような様々なメリットがあります。極めて柔軟にコストをほとんどかけずに、個別の利用者対応がなされる上に、利用者の支払いは基本は燃料費のみ。後は任意の謝礼+市町村や企業などからの援助(もしあれば)です。これなら、低所得の利用者の方も頻繁に利用できます。

また、上記の「援助」によってドライバーのインセンティブを高めれば、ドライバーの成り手もそれなりにいるのではないでしょうか?

但し、この互助輸送の欠点は、「市町村」や「XX協議会」などに、高齢者の足の問題を解決するためのやってる感が醸し出されないことです。
何だか、勝手に地域での助け合いが進んでいる状態とも言えますね。

10年もすれば、自動運転車が増え、過疎地域でも交通問題は解決に向かうでしょう。その間のつなぎに、そんなに大仰な組織を作りお金を投じて、あまり高齢者から歓迎されない仕掛けで「やってる感」だけ醸し出しても仕方ないのではないでしょうか?
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