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価値ある存在-吉本隆明74語より(最終回)

2005-10-15 10:19:33 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」、今日で最終回です。そろそろ筆者の言いたいこともなくなってきました。今日はその最後にふさわしい老いと死に関する随想です。青字は吉本隆明の文章。赤字は勢古さんの文章。黒字は筆者の感想です。

「憂鬱で憂鬱でしょうがないというのが老人」(『ひきこもれ』)

「朗らかな老人なんてこの世にいるわけがないと、ぼくは思っています。でも、そんな人が文筆家にもエディターにもいることを知り、仰天してしまいました。まじめに働いた人か、家に恒産がある人にちがいありません。ぼくなどには縁遠い人です。戦争時代みたいに戦争にはひっからないし、命の心配はないし、いまほど楽しい時期はない、などと言う老人がたまにいますが、ぼくにはとても信じられない。」(同書)

ここにも、高見に立って世の中を見下ろさない吉本の視点があります。つまり、勢古さんも言っている「世間の一番下まで届く言葉」なのですね。退職後は第二の人生を謳歌しなければといって、日本百名山に登ったり、社交ダンスをしたり、地域活動をしたり、国内・海外旅行をしたり、下手な絵や俳句をたしなんだり、といったことをやらないと損だとばかりに活動的な中高年があまりに多いようです。それはそれでご自由ではありますが、そのような方々も、そのうち足腰が立たなくなり、そうしたことが段々とできなくなっていく訳です。その時、そうなった時の自分、また現にそうなっている他の老人を、十把一絡げで不幸な老人と位置づけることでしょう。このシリーズの第4回で吉本が言っておりますが、

「人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。」(『遺書』)

単純ですが、何故かこの言葉が強く印象づけられております。この言葉の理解には、「世の中一般の尺度で考えては」という修飾語を頭に付けた方が良さそうです。筆者自身の短い人生を振り返っても、その時々の生活でお金がなく苦しんだり、人間関係がうまくいかなかったり、愚妻に罵倒され落ち込んだり、と断片的な「不幸」は間断なくありました。同じ意味で断片的な「幸福」もありました。

上記の吉本の言葉を、「幸福」という例でちょっと考えてみましょう。例えば仕事に追われている年齢での、もしくは退職後の海外旅行。行く前のある種のわくわく感は確かにあります。それも最初の1-2回だけですが。そして、行ってみるとその地での目新しいけれども、変哲もない彼の地での「日常」も待っているのを発見します。旅行中ずっと高揚したわくわく感に充ち満ちている訳ではありません。しかし、帰国してから何年か経ってから、その旅全体をほのぼのとした気持ちで思い出す時があります。そうした時ちょっと「幸福」な気分になるものですね。ここにポイントがありそうです。自分の生きた一コマを後から追想するとき、ふと感じる幸福感のようなもの、いや後から追想しなくても、その生きている瞬間に感じる幸福感のようなもの、逆の不幸感のようなもの、ここにこそ、「幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。」という吉本の言葉の原点があるような気がします。

テレビでやっている世界遺産巡りの番組を見ても、映像は確かにきれいに再現はされているのですが、果たして、何年かしてほのぼのと思い出すことがあるでしょうか。決してありません。その場所での「生活のストーリー」が抜けているからです。生活のストーリーと書きましたが、何もストーりーらしいストーリーなどなくっても、人はそれぞれの生活を日々送っているわけです。その日を生きるという点で、その仕方に上下関係などある訳ありません。すると、吉本も言っている次のような言葉が老人のみならず、若い人にとっても、「憂鬱」な気分を解消するのに役立つでしょう。

「幸・不幸とかも、長く大きくとらないで、短く、小さなことでも、一日の中でも移り変わりがあるんだよと小刻みにとらえて、大きな幸せとか大きな不幸というふうには考えない。(略)そういうふうに大きさを切り刻むこと、時間を細かく刻んで、その都度良い気分だったら幸福と思い、悪い気分だったら不幸だと思う。(『幸福論』)

人は誰でも良い気分を沢山増やしたいと考えますね。そのためには、生きていくことにおいての持続力がどうしても必要です。山登りに喩えてみましょう。雨が降っている山麓から数時間かけて苦しい道程を登り続けるうちに、段々と視界が開けて、精根尽きて山頂に行き着いたら見渡す限りの晴れわたった素晴らしいパノラマが見えた、こうした人生を誰もが望んでいるわけでしょうが、このような長い道程で幸・不幸を考えるのではなく、山麓で雨露に濡れて、普段と有様を異にする蜘蛛の巣や、途中の山道で雲間からのぞく弱々しくも神々しいような太陽の日差し、もちろん、道端に咲く名も知らぬ草や木々の微細な変化といったものに、人は意外と心を打たれることがあります。そのためには、1ヶ所に留まっていては見えるものも見えません。感じるものも感じることができません。

しかし、どのように生きようとも、人は、年をとって1ヶ所に留まって生きなければいけない事態にいずれはなります。その時、次の吉本の言葉のように言えればこの上ない人生かも知れません。

「(老夫婦が)二人で生活していて、二人とも足腰がおぼつかなくなって、日常生活を送るのも大変だ、経済的にも苦しいとなって、「これ以上二人で頑張っても」ということになって心中するなんて、大理想とは言いませんが、理想的な男女のように思えるのです」(『遺書』)                   
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価値ある存在-吉本隆明74語より(9)

2005-10-08 10:52:48 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」、今日は9回目です。青字は吉本隆明の文章。赤字は勢古さんの文章。黒字は筆者の感想です。

「何か、自分の思っている自己評価より高く見られるようなことだったら嫌だけど、出鱈目なこととか、低く見られることならいいんだってのがこっちの原則なんで。」

この言葉は、吉本が海水浴で溺れて死にそうになったことがあった後、「進め!電波少年」(日本テレビ)という番組のなかで、松本明子にいきなり訪問されて快く応じ、再度水死しかかることがないための訓練とか何とか言われて、洗面器の水に顔をつけたそうです。上の言葉はそのことに対する説明だそうです。

ところで、今度の選挙は民主党の惨敗に終わってしまいましたが、前回の参議院選挙では、小泉首相が「人生色々」などと発言したため、岡田代表の生真面目さが際だったことが1つの勝因でした。ところが今回、小泉首相はガリレオ・ガリレイまで持ち出し、死んでも郵政民営化をやると決意を見せたのに対して、またまた生真面目さだけを打ち出しても、これは勝てる訳はありませんでした。岡田代表は、実はその逆を行くべきなのでしたが、哀しいかな、吉本のようにタレントに言われて素直に洗面器に顔を突っ込むような軽妙さを持ち合わせていなかったのでしょう。小泉首相なら、場所が場所ならそういうことをやりかねない軽妙さを持ち合わせていますね。もっとも、岡田代表がそんなことをやっても、人は誰でも選挙向けのパーフォーマンスであることを見抜き、逆にしらけてしまいますので、要するに持って生まれたものが大切ということなのでしょうか。

選挙というのは何時の場合でも「万人にうける」ことがないと勝てないという一例ですが、吉本は、上の言葉で、相手との関係の距離を測るために、あえて下手にでる、といったいやらしい戦術的意味から、万人にうけようとして発しているのでないことは言うまでもありません。また、そのような姿勢が吉本の生地であるとも、筆者も思っておりません。勢古さんも言うように、自尊心もプライドも沽券もあるはずである。ほっておけば、高く見せたがる自分があるに違いない。物事の本質を衝く力を見せることができる、という自負もあっただろうと思います。筆者もそうですが、人から正統に評価されれば嬉しくなるものです。ましてや実力以上に評価されたり、褒められたりすると、口ではとんでもない、等と言いながらも、内心では心地よく思っている自分が確かにあります。全く、豚もおだてりゃ木に登るの喩え通りのどうしようもない面があるのですね。逆に無視されたり、さらに馬鹿にされたりすると、これまた内心では俺のことを分かっていないどうしようもない奴らだ、等と思いながらも、実は不快でいきりたっている自分がそこにいる訳です。

かといって、吉本のように、出鱈目だとか、低く見られるならいいってことが原則なもんで、とまで自分の視点を落とすことまでは今までできておりませんでした。いや、これからも本心からはできないでしょう。それは、吉本が上記の言葉に加えて、次のようにいっていることとは、似て非なる位置どりですね。

「多少でも物書きを職業にしてきたものにとって、例えば、エッカーマンにたいするゲーテの応答のように、様々な意味で叡智にみちた答えが易しいようで難しい事項について言いあらわせたら、という望みがないわけではない。しかし、わたしのような弱小な物書きには、それは不可能にちかい。易しそうなことについて喋れば、偉大な表現者の口真似になってしまう。それは、所詮はそれだけの資質と器量しかないのだと諦めるほかない。」(「あとがき」『僕ならこう考える』)

あの吉本にしてここまで言わせるのですね。何と自分の心根の卑小で狭隘なことか、これでは見えるものも見えなくなります。ここまで書いてきて、やっと多少は分かった気になりました。世の中は高見から見ても見えないものがあること、人はその高見に登りたがる持って生まれた性癖があることを。地を這うようにしなければ見えないものがあることを。それが思想とか意思を人間が延々と築いてきた意味であるかも知れません。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(8)

2005-10-01 01:11:43 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」、今日は8回目です。青字は吉本隆明の文章。赤字は勢古さんの文章。黒字は筆者の感想です。

新聞やテレビで目に触れた資料を介して、自分に考えられることをとことんまで考えてやろうということにしている。(「辺見庸との対談集「夜と女と毛沢東」より)

吉本は、別のところで「大衆の原像」に関係して、この世界にはどうしても、「知識の系が覆いきれない場所が存在する」といい、、「大衆の原像というものを、どうしても繰り込む以外にないんだ」(笠井潔・竹田青嗣他との対談集「不断革命の時代」より) とも言っています。

これは、今更ながらに考えさせられます。大学の先生への要請もあったそうですが、吉本はバカな職業だと言って断っています。自分にはそんなことができるだろうか。筆者は心のどこかで、知識を絶えず深めていくことが生きる上では大切なことではないのだろうか、と考えてきました。そして、新聞やテレビで得られる情報だけでは、人は今日よりも明日、向上することはできないと思い、通勤時間や余暇を使って、様々な本を読んでは「知識」を積み上げてきました。そのことで、昨日の自分と今日の自分は、その「知識量」だけ違っている、それが日々同じような繰り返しの日常に、ある種の意義を与えるものであるとも思ってきたのでした。つまり、同じ日常を繰り返すことをどこかでバカにもしていたのです。ところが、吉本は次のようにも言っているのです。

「けっして今日よりも明日向上したらそれは立派なもんだというところで終わるものじゃない。それですんでいたときもありましたが、すくなくとも末法の末法の現在では、それはちがうんじゃないかとおもいます。」(「還相論」『未来の親鸞』)

「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂から世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。」(「最後の親鸞」)

実は、勢古さんも書いていますが、日本の大抵のインテリたちは、白川静のように、「知の頂き」を極めることなどとは関係なく(これはこれで大変なことです。その生きる姿に筆者などひれ伏してしまいそうです。)、ただ知に従事しているというだけで、「人々を誘って蒙」をひらき、「世界を見おろ」しているのではないでしょうか? 少なくとも、知識を得た後にそのような立場に立ちたいという潜在願望を持っている人が多いのではないでしょうか? 

これと、9月24日に書いた、「どんな豊富な思想の表現も、いったん行為事実に還元されれば、ありふれたものとならざるをえない。」という吉本の言葉を合わせてみれば、分かりづらいといわれる吉本の「大衆の原像」についても、おぼろげながらも理解できたような気がします。

話がちょっと抽象的すぎるかと思いますので、勢古さんも引用している田原総一朗の例で考えてみましょう。

彼は、サンデープロジェクトでの政治家達との討論では、「私は頭が悪いので、そんな難しいことを言っても分からない。もっと分かりやすく説明して欲しい。」などと、あたかもテレビを見ている大衆の視点に自らが立っているかの発言をたびたびします。しかし、それはそうした単純な問いかけに対し、如何に的確な答が帰ってくるか、いわば相手の品定めをしていることが見え透いており、筆者などは逆に不快感を感じてしまいます。テレビを見ている人々の中にも、田原は頭が悪いわけではないのに、嫌な表現をよく使うなぁ~、と思っている人もいることでしょう。サンデープロジェクトは限られた時間で入念にプログラムが練られているようですので、それ以上のボロが出ることはありません。ところが朝まで生テレビという月一回の深夜番組は、これは生放送であり準備された詳細なシナリオもありませんし、時として横道に逸れての激論になってしまいます。それがこの番組の狙いでもありますが、そこで、田原総一郎の別の顔がひょっこりと出ることがあります。それは、勢古さんが書いている表現に従えば、「おれはこんなことまで知ってるんだぞ。おまえら何も知らないでわかったふうな口をきくな」ということを、得々として言う、ことが時としてあることです。その際の彼は相手を見おろす位置に立っているように筆者には見えてしまいます。そして、相手の発言をその一言で封じてしまうことを度々筆者は見ております。

こうしたことが、吉本が、「その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂から世界を見おろすことでもない。」ということの本当の意味なのですね。吉本の言う、<非知>に向かって着地すること、つまり、先週も書いた「往還」することについて深く考えれば、冒頭の吉本の言葉につながっていくのではないでしょうか。これはこれは、やはり吉本隆明は並大抵のお方ではありません。

さて、たまたま今から「朝までテレビ」が始まるようです。ちょっと田原総一朗の「インテリぶり」を覗いてみるとしよう。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(7)

2005-09-24 11:36:45 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」今日は7回目です。青字は、吉本隆明の文章。赤字は勢古さんの文章。黒字は筆者の感想。

「どんな豊富な思想の表現も、いったん行為事実に還元されれば、ありふれたものとならざるをえない。」(「思想的弁護論」)

「思想はいつも壮大であるが、それを実現する現実の後景はいつも貧弱である。」(「情況」)

これらの言葉と、「いいことを照れもせずにいう奴は、みんな疑った方がいいぞ」(「遺書」) とは、どこか通底するところがあることはお分かりの通りです。

勢古さんが卑近な例として挙げているように、オウム真理教の「思想」が現実に起こした「行為事実」や、夢にまで見た楽しいはずの結婚生活が、いがみあった果ての離婚に至る「行為事実」を考えれば、なるほどと思ってしまいます。

「思想(思考)は現実的に必ず頽廃する。思想(思考)を実現しようとするものが、矛盾のかたまりである人間だからである。」

このように、勢古さんは言います。人間が矛盾のかたまりであるのは、それはその通りですが、だからといって、思想(思考)が現実に触れたときに必ず頽廃するものでもないでしょう。

分かりやすく、楽しい結婚生活がなぜいがみ合って離婚に至るのか、その例で考えてみます。結婚すればそこに待ち受けているのは日々の日常生活です。それは吉本も言うように極めて「ありふれたもの」ですが、それを長年にわたって続けることが如何に大変なことか、そうした市井に生きる無数の人物を、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである、と言い切る吉本の思想を併置してみると、現実から思想を汲み取り、その思想から現実へとまた下りていく、という親鸞から得た「往還」の考えを見ることが出来ます。それが生きていくための現実の「知恵」だと筆者は解釈しております。

問題は、その「知恵」がどこから得られるかということです。それについて、「いいことを照れもせずにいう奴はみんな疑った方がいいぞ」と吉本は言います。全くその通りです。結婚生活で、相棒からいいこと、つまり「正論」(思想)を押しつけられてばかりでは、どんな聖人君子も身が持ちませんが、どうしてもその相棒の「素の部分」は、繰り返し繰り返し出てくるものです。この「素の部分」は、良い点も悪い点も含めてその人間のすべてです。しかも、時間が経てば、環境が変化すれば、変貌します。これは、まさしく日々の生活において生じる矛盾そのものです。しかし、そこで「頽廃」していては、一貫の終わりですね。筆者の場合は、その「素の部分」を、自らの生きる意味のようなところに結びつけて考えました。つまり、その嵐のような相棒の「素の部分」からの攻撃を、正面から引き受けていったのです。引き受けることがあたかも自分の人生であるかのように。改めて考えてみれば、結婚する気になったのも若気の至りの部分もありますが、そうした「素の部分」全体に惹きつけられたためでした。気がつくと、そうした年月の繰り返しそのものが、自分の人生と一体化しておりました。そして、ありふれた日常のなかにこそ生きる糧があると思うようになっていました。

今日は、自分の結婚観まで吐露することになろうとは、夢にも思いませんでしたが、これが書き言葉を唯一持ってこの世に生きている人類の面白いところですね。チンパンジーのパン君なら、ここまで悩むこともありますまい。
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価値ある存在-吉本隆明74語より(6)

2005-09-17 08:47:53 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」今日は6回目です。テーマは、「本気かね?」青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。

頭の良さを競い合うような、あるいは知識の量の多さを誇示してくるような、どんな批判の言葉よりも、この「本気かね?」という言葉は怖い、と勢古さんも言っていますが、これは、吉本が蓮実重彦との対談でつぶやいた言葉です。私自身は、リタイアーしてから少々「学問の世界」なるものにかかわっているのですが、そこでは、過去・現在のその領域の学者、専門家の学説をつなぎ合わせ、深く読み解き、自ら「独創性」ある理論を考え出す、そして論文を書くにあたっては何よりも各章の論理的な一貫性を重視する、といったことが要求されております。ヘーゲルのミネルヴァの梟の喩えの通り、そのような「思考遊び」より、現実は先に行っていることがよくあります。なるほど、とは思うのですが、「そんなこともったいぶって理論立てて説明するまでもなく、誰でも自然にうまくやって生きてるよ」と心の中で言いたくなります。

つまり、学問の世界に限ったことではありませんが、よくある自己満足っていうやつでしょうか。これはうっかりするといつでも誰でも陥ります。そこに、人から少々褒められでもしようものなら、人間すっかり天に舞い上がってしまいます。そして益々現実とは遊離した理論作り(会社でいうと、企画書作りなど)に邁進するものなのですね。そこに、吉本のような人間から、勢古さんに言わせると、「野戦(実業)の言葉」として、「おまえさんそれ本気かね?」と呟かれると、誰でも一瞬言葉を失い、肝を冷やすのではないでしょうか。

吉本が、「料理の鉄人」という番組について、「本気」が「ほんと」として使われている次のような言葉もあります。

「審査員もまた食通だから、作った料理専門家を傷つけないような巧みな評言を呈するのだが、その評言は複雑な味を微妙な言葉を積み重ねて味の実情に迫ろうとする方向に高度化していく。その極まるところ、ときに<ほんとかね>とおもわせるときがある。」(「うまい・まずい」『食べものの話』)

これとは反対に、ものごとを過度に単純化して現実の姿を見えなくしている細木数子や小泉純一郎のような例もあり、この世の中、少々凝った手練手管が横行しているようです。



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