劣化なのか時の流れなのか:
1970年頃だったか、韓国の中小の規模財閥のオウナーのご子息で、UCLAに留学中だったSHK氏と語り合ったことがあった。彼は流石にかなり立派な英語を話していたが、その話題の中に言葉の変化があった。彼が「私が話している韓国語が最も現代的で、時代の最先端を行っている」と誇らしげに言っていたのが印象的だった。言葉とはそういうものだったのかとあらためて思い知らされた感があった。念のため申し上げておけば、私は当時はアメリカの会社に転身していなかった。
その「時代とともに変化する」という現象だが、私は現在我が国に現れて(私が好むと好まざるとに拘わらず)広まりつつある新日本語が時の流れを映していると言うよりも、カタカナ語の氾濫とともに日本語の劣化のように思えてならない。即ち、決して好ましい現象だとは思えないのだ。そこで、その中から思い付くままに悪い例に入ると思っているものを採り上げてみよう。
「1000円からお預かりします」:
これはどう考えてもおかしいのだが、完全に戸籍を得ている。これでは「1000円以上を預かります」という意味のようにも思えるだが、実際にはそう言いたくて使われているのではない。私は「1000円頂戴します」と「1000円お預かりします」が何処かで混同してこのようになったと考えている。老爺化した私はこう言われて何度か店員をたしなめたことがあった。こういう言葉を何の疑問にも思わずに使う常識の欠如と感覚が情けないのだ。
「~になります」:
と言って料理屋で料理を運んでくるのも今や普通のことだ。これも立派な新日本語だと思う。「それでは、今は何なんだ」と突っ込むのが陳腐なギャグにあった。「~で御座います」か「~を持って参りました」辺りが本来の日本語だろう。私は「1000円からお預かりします」とともに彼らの用語集に規定されているのだと、本気で疑っている。
これらは新日本語のほんの一部に過ぎないのだと思うが、「悪貨は良貨を駆逐する」という例えが示すようにあっと言う間に普及する。私はこの現象は持論である「言葉は耳から入るものが最も良く定着する」事の典型的な例だと思っている。それは、アナウンサーたちが使う言葉が怪しげになっただけではなく、テレビ局が使うタレントやら芸人たちがこの手の言葉を乱用することも大いに負の貢献をするからでもあるのだと信じている。結論的に言えば、私は劣化だと思いたいのだが。
1970年頃だったか、韓国の中小の規模財閥のオウナーのご子息で、UCLAに留学中だったSHK氏と語り合ったことがあった。彼は流石にかなり立派な英語を話していたが、その話題の中に言葉の変化があった。彼が「私が話している韓国語が最も現代的で、時代の最先端を行っている」と誇らしげに言っていたのが印象的だった。言葉とはそういうものだったのかとあらためて思い知らされた感があった。念のため申し上げておけば、私は当時はアメリカの会社に転身していなかった。
その「時代とともに変化する」という現象だが、私は現在我が国に現れて(私が好むと好まざるとに拘わらず)広まりつつある新日本語が時の流れを映していると言うよりも、カタカナ語の氾濫とともに日本語の劣化のように思えてならない。即ち、決して好ましい現象だとは思えないのだ。そこで、その中から思い付くままに悪い例に入ると思っているものを採り上げてみよう。
「1000円からお預かりします」:
これはどう考えてもおかしいのだが、完全に戸籍を得ている。これでは「1000円以上を預かります」という意味のようにも思えるだが、実際にはそう言いたくて使われているのではない。私は「1000円頂戴します」と「1000円お預かりします」が何処かで混同してこのようになったと考えている。老爺化した私はこう言われて何度か店員をたしなめたことがあった。こういう言葉を何の疑問にも思わずに使う常識の欠如と感覚が情けないのだ。
「~になります」:
と言って料理屋で料理を運んでくるのも今や普通のことだ。これも立派な新日本語だと思う。「それでは、今は何なんだ」と突っ込むのが陳腐なギャグにあった。「~で御座います」か「~を持って参りました」辺りが本来の日本語だろう。私は「1000円からお預かりします」とともに彼らの用語集に規定されているのだと、本気で疑っている。
これらは新日本語のほんの一部に過ぎないのだと思うが、「悪貨は良貨を駆逐する」という例えが示すようにあっと言う間に普及する。私はこの現象は持論である「言葉は耳から入るものが最も良く定着する」事の典型的な例だと思っている。それは、アナウンサーたちが使う言葉が怪しげになっただけではなく、テレビ局が使うタレントやら芸人たちがこの手の言葉を乱用することも大いに負の貢献をするからでもあるのだと信じている。結論的に言えば、私は劣化だと思いたいのだが。