新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

新日本語への疑問 #2

2016-04-24 08:10:21 | コラム
劣化なのか時の流れなのか:

1970年頃だったか、韓国の中小の規模財閥のオウナーのご子息で、UCLAに留学中だったSHK氏と語り合ったことがあった。彼は流石にかなり立派な英語を話していたが、その話題の中に言葉の変化があった。彼が「私が話している韓国語が最も現代的で、時代の最先端を行っている」と誇らしげに言っていたのが印象的だった。言葉とはそういうものだったのかとあらためて思い知らされた感があった。念のため申し上げておけば、私は当時はアメリカの会社に転身していなかった。

その「時代とともに変化する」という現象だが、私は現在我が国に現れて(私が好むと好まざるとに拘わらず)広まりつつある新日本語が時の流れを映していると言うよりも、カタカナ語の氾濫とともに日本語の劣化のように思えてならない。即ち、決して好ましい現象だとは思えないのだ。そこで、その中から思い付くままに悪い例に入ると思っているものを採り上げてみよう。

「1000円からお預かりします」:
これはどう考えてもおかしいのだが、完全に戸籍を得ている。これでは「1000円以上を預かります」という意味のようにも思えるだが、実際にはそう言いたくて使われているのではない。私は「1000円頂戴します」と「1000円お預かりします」が何処かで混同してこのようになったと考えている。老爺化した私はこう言われて何度か店員をたしなめたことがあった。こういう言葉を何の疑問にも思わずに使う常識の欠如と感覚が情けないのだ。

「~になります」:
と言って料理屋で料理を運んでくるのも今や普通のことだ。これも立派な新日本語だと思う。「それでは、今は何なんだ」と突っ込むのが陳腐なギャグにあった。「~で御座います」か「~を持って参りました」辺りが本来の日本語だろう。私は「1000円からお預かりします」とともに彼らの用語集に規定されているのだと、本気で疑っている。

これらは新日本語のほんの一部に過ぎないのだと思うが、「悪貨は良貨を駆逐する」という例えが示すようにあっと言う間に普及する。私はこの現象は持論である「言葉は耳から入るものが最も良く定着する」事の典型的な例だと思っている。それは、アナウンサーたちが使う言葉が怪しげになっただけではなく、テレビ局が使うタレントやら芸人たちがこの手の言葉を乱用することも大いに負の貢献をするからでもあるのだと信じている。結論的に言えば、私は劣化だと思いたいのだが。

新日本語への疑問

2016-04-23 09:01:39 | コラム
「~して貰って良いですか?」って:

私は何時の間にか(と言うか長い間英語の世界で過ごした為か)言葉に対して敏感になり、特に自国語即ち日本語の乱れと言うべきか、新たに出てきた表現が気になってならないのだ。その一例として昨年の4月にブログで採り上げたのが「お会いする」で、(こう入力しただけでAtokでは「お目にかかる」という他の敬語に切り替え可能と出てくるが)その敬語もどきの婉曲さに違和感を覚えていた。

その辺りを敢えて採録すると、

>引用開始
「お会いする」への疑問:

私はこの言葉遣いが気になるのです。敬語のつもりで政府高官からAHOなテレビタレントまでの間で広く使われているのだと思うのですが、違和感があります。大体からしてローマ字にすると「oai 」で母音ばかりでは、「青木」=Aoki が「エイオキ」になってしまう外国人には、まともに発音して貰えないかと危惧します。

Atokでは「お会いする」と入れると「お目にかかる」という敬語があると注釈が出てきます。私もその方が自然だという気がします。「会いに行く」や「会ったことがある」では失礼に当たるのでしょうか。

また、何処かの野球解説者が言い出したのか、あるいはテレビタレントか知りませんが、「私の中で」というのが一般的になった気がします。これは「私が思うには」、「私か感じたところでは」、「私の意見では」、「私の感覚では」、「私の捉え方では」、「私の脳裏には」等々のように具体的な記述が出来ないか、思い浮かばないのか、あるいはそこまで国語を知らないのかの何れかで、国語教育の至らなさを聞く気がします。

そこで、「お会いする」への疑問を解決すべく、多くの大学で国文学を教えておられるKS氏に伺ってみました。その答えを下記に引用すると

<「お会いする」について:
基本的に、自分の動作やそれによって生じた結果に、「お」をつけるのは敬語としては間違っています。 ですから、本当なら「お返事をさしあげる」も誤用です。

「お会いする」の場合、「会う」の主語は「私」ですからこれも本来は正しくありません。おっしゃるとおり、「お会いする」は「お目にかかる」と言う方が無難です。>

となっていて、一安心でした。さらに後段の疑問である「私の中では」についても以下のように解説して頂けました。

<これは近年生じた新しい表現と言えます。すこし前の解説者は「自分としては」の意味で「わたくし的には」とよく言っていました。「わたくし的には」がずいぶんバッシングされたので、それに代わる言いまわしが発生したのだと思われます。

私のように、日常的に古文に接している人間には、「新しい言いまわし」が生まれてくるのは止められない、という諦念があります。が、それにしても。江戸時代の書き言葉と現代語の乖離は、19c英語と現代英語のそれと比較にならないほど隔たっています。

きちんと勉強しないと、日本語をきちんと話せるようにも、書けるようにもならないという意識が、現代の中等初等教育の現場においても希薄過ぎる気がしてなりません。>

KSさん、有難う御座いました。
>引用終わる

ところが、それ以前に気になっていた表現に掲題の「~して貰って良いですか」があった。私は迂闊にもこういう表現がかなり広まっていたとは知らず、2006年1月に初めての心筋梗塞で入院した際にほとんど全ての看護師さんたちがこの表現を使うのに、疑問を感じていたのだった。例えば、「向こうを向いて下さい」ではなく、「向こうを向いて貰って良いですか」と依頼してくるのだ。当時の衰弱しきった頭では一瞬疑問に感じても何が言いたいのかは理解出来たので、素直に応じてはいた。そして、これは病院内だけの特殊用語の一つかと解釈することにした。

しかし、あれから10年の時が流れてみれば、最早この「~して貰って良いですか」は何もテレビに登場する非知的階層の者どもだけではなく、広く遍く全国に普及し、知的階級に属しておられるとしか思えない方の中でも平然として「~して貰って良いですか」が横行していると気が付いてきた。念を押せば「~して下さい」は古語の如き存在と化しているのだ。先日は40歳台も半ばを過ぎた次男までがこの言い方をするのを聞いて愕然としたものだった。この他にもこの手の新日本語はいくらでもあるかも知れないが、私が聞き逃しているだけかも知れない。

これでは、こういう表現が正当な日本語として認められている時代になってしまったのかどうかを、国文学者のKS氏にまた伺ってみなければなるまい。

オスプレー

2016-04-22 07:21:15 | コラム
新聞と野党のオスプレー批判を批判する:

「頂門の一針」第3994号で杉浦正章氏が相も変わらぬ新聞と野党のオスプレー排斥論を批判しておられた。その一部を引用すれば、

”まず朝日は19日の朝刊で「被災地にオスプレイ」の見出しに「必要性疑問の声」「政治的な効果」という中見出しで疑問を提起。共産党の書記局長・小池晃をけしかけて「オスプレイに対する国民の恐怖感をなくすために慣れてもらおうということで、こういう機会を利用しているとすれば、けしからんことだ」と語らせている。

一方毎日も同日の紙面で「熊本地震、オスプレイ物資搬送『政治利用』の声も」との見出しで「オスプレイの風圧で2015年のネパール大地震で住宅の屋根が破損したとの報道もあった」などと批判的記事を展開している。

さらに朝日は民進党常任幹事会議長・原口一博の「オスプレイはハワイの事故で、砂を吸い込んで落ちている。防衛省の資料を見ると、我が国の航空機がヘリコプターを含めたくさん活躍している。”

と鋭く斬っておられた。誠にご尤もで、言うこともない。

丁度その20日におよそ1年振りの出席にもなるだろうか、篠宮良幸君の主宰する水曜会でこの件を尾形美明さんと語り合った。即ち、「朝日も毎日も例によって例の如きだが、野党も野党でただただ安倍内閣を無意味に非難攻撃するだけで、国の為など全く眼中になきが如くで最早腹立たしいなどという段階を通り過ぎている」ということだ。彼らはオスプレーが何らかの役に立つこと自体を認めたくないとしか思えないのだ。彼らと何とかにはつける薬もないようだ。

しかも、彼らが口を揃えて指摘し批判し非難したオスプレーの墜落の危険性などは我が国に配備されてからは、一度も事故などが生じていないのだ。事故の危険性などは地上を走る自動車の方が遙かに高く、昨日採り上げた自転車の危険性などは既に死亡事故まで起きているのを、彼らは知らないとでも言うのだろうか。こういう連中を斬って捨てる議論が湧き起こらないのも、私には不思議に思えてならない。

第一に、マスコミの連中は何か大きな事故でもあれば直ちに自社のものかチャーターか知らぬが、ヘリコプターを飛ばして取材し報道するではないか。それは危険ではないと頬被りして、オスプレーだと危険だと論じるのは自己矛盾ではないのか。かく申す私も先日採り上げたように、アメリカ国内では社用で何度もヘリコプターを利用したし、W社が8機も持っていたヘリコプターは山火事の消火等にも出動したが、事故を起こしたなどと聞いたこともない。

このような迷論を展開する野党と朝日と毎日の論調に、罪なき有権者や純真な読者が悪影響を受けないことを祈るだけだ。


放置自転車の収容所

2016-04-21 17:39:27 | コラム
遂に屋上まで埋まってきた:

この部屋から見える新大久保駅に近い放置自転車の収容所が増改築工事され、2階に加えて屋上までが置き場になっている。放置自転車を回収するのは区役所の仕事で、頻繁にその専用車が回収すると拡声器を使って宣告しては積み上げていく。私は誠に結構なことだと思っている。そして、私がまさか新装なった大規模収容所が屋上までも使わねばならないほど放置自転車が増えるとは予想していなかったのに、屋上の30%ほどが既に埋め尽くされているのだ。

私は中国ほど車道が広くなく専用にレーンが設けられていない我が国では、自転車の氾濫は最早公害の域に達していると思っている。此処新宿区の百人町や高田馬場界隈では長い時間歩かずとも山手線の駅があり、駅前には駐輪が禁じられているだけではなく有料の駐輪場がある。それでも、自転車族は駅に自転車で乗り込んでくるし、歩道に放置するし、パチンコ屋の近くにも放置する。

しかも族どもは傍若無人に歩道を疾走する。特に子供を前後に乗せられる電動自転車の暴走は目に余る。道交法17条だったかなど知るかとばかりに、若い母親たちが今日も行くなのだ。先日は大久保通りと小滝橋通りの交差点の歩道に3名のアジア人の自転車が並んで歩道を塞いだので「此処を走ってはならぬ」と言ってやると言葉が解らない振りをするので、英語に切り替えると「英語は解らない」と言う。「何処に国か」と日本語で尋ねると「ベトナム」と答えた上で「日本語解らない」と言う。そこで身振り手振りで車道を行けと指示したところ、何とか従った。

ところが、私が交差点を渡って大久保通りの歩道を新大久保駅の方向に歩いているとその左側の歩道をその3人組が逆走してくるではないか。こちらの顔を見て具合が悪そうな表情はしたが、そのまま歩道を疾走して行った。長々と述べたが、歩道を走るのは同胞だけではなく、どう見ても旅行者とは見えないアジア人もドンドン増えているのだ。そういう連中が放置すると新宿区の担当者が遠慮会釈なく回収していくのかななどと考えている。彼らは自転車を採られても困らないほど裕福なのかと思ってしまう。

何れにせよ、私は警察も加わって係員を増やして道交法に基づいて自転車の厳しく取り締まるか、歩道の入り口には障害物でも設置して自転車が乗り入れられないような対策を講じて貰いたいと願っている。先日採り上げたアジア系の連中が殺到する業務用スーパーの前の歩道などは、歩行者の通行が屡々不可能になってしまう。私はこの状態で今までに大きな事故が起きなかったのが不思議だとすら考えている。それだけではない、当方のように老化して反応が鈍くなれば、何時ぶつかられてもおかしくないと、本気で心配している。

新宿区も放置自転車の収容所の規模を拡大することが解決策ではないと承知していると思っている。それならば、警察も一罰百戒的な取り締まりを実行しても良い時期が来ていると思うのだが、如何なものだろう。尤も、私は屡々交番勤務警官が自転車で歩道を走って後退する光景を見ているし、消防署の制服を着た人たちも何処吹く風という顔で歩道を走るのも見ている。あれでは取り締まりも出来ない訳だと思わずにはいられない。

アジア人は兎も角、我々の同胞は自転車となると法治国家の民とは思えないほど出鱈目になるのは誠に嘆かわしい情けない。安倍さん、何とかして下さい。

4月20日 その2 巣鴨の変貌

2016-04-20 07:51:11 | コラム
巣鴨の17号線沿いにAPA HOTELが:

18日に家内の退院を機に1週間遅れで、桜も散ってしまった後の巣鴨の染井霊園に亡母の墓参りに行った。染井まではJR巣鴨駅から10分以上は歩くが、既に主治医の許可を得ていた。幸いに好天に恵まれて17号線沿いに歩いて行くと、確かとバスの営業所があった場所の大きな建物が建築中になっていた。何事かと掲示板を見れば「14階建てのAPA HOTEL」だった。

そのまま巨大な戸田記念講堂のところで右折するとAPAの偉容が良く見えたのだった。以前の都バスの営業所がどういう形になっていたかの記憶は定かではないが、そのAPAの裏側になる場所にこぢんまりと縮小し移転?していた。記憶にある限りでは巣鴨信金があった以外はビジネスとは縁遠い場所にホテルが出来るとは、巣鴨も変わったものだと思わずにはいられなかった。と言うのは、そこには17号線を挟んでかの地蔵通りがあるのだから。

因みに、APAはここから見える歌舞伎町にも新築したし、職安通りと明治通りが交差する辺りにも大分以前から開業している。如何に大都市のホテル不足が取り沙汰されていても、あのような調子で連続的に新規に開業しても経営上に問題を生じないのかと、他人の疝気を気に病んでいる次第だ。

折角ここまで来たのだからと、墓参りを済ませた後で少しだけ地蔵通りを歩いてみたが、そこには「これまで何故なかったのか」と思っていた回転寿司店も出ていた。確か昨年末に亡父の墓参に一人で来た時にはそんなものがなかったと思わずにはいられなかった、地蔵通りの小さな変化だった。それも兎も角、家内が思い切って手術を受けたお陰でそこまで歩けるようになっていたのは誠に結構なことで、両親も草葉の陰で喜んでくれているだろうと陳腐なことを思いつつ、巣鴨駅から高田馬場駅に向かった。

何故高田馬場駅かと言えば、未だ階段の昇降を禁じられている家内の為には、エレベータもエスカレータもない新大久保駅は使えないのだから。しかも、高田馬場駅前から1時間に1本だけの我が家の前で止まるバスがあるのだ。シルバーパス保持者としては利用しない手はないのだ。