読書。
『二百十日・野分』 夏目漱石
を読んだ。
40代に迫ったころの夏目漱石が書いた、短編と中編の二篇。
『吾輩は猫である』を書いていた漱石が、
この作品では社会に挑むようなテーマを扱っています。
「二百十日」はほぼ会話でできあがっている作品。
阿蘇の山に登るための旅中の会話が主体なんですね。
主人公の二人はところどころとぼけていて、
まるで落語みたいだなあと思いながら、おもしろく読めていく。
主人公の一人、圭さんが剛健な人物で、
当時の金持ちや華族連中の存在がいけない、
という持論を展開していきます。
それでも、冗談を交えた日常会話文ですから、
論理がむずかしいということもなく、
読者の気持ちもそこに乗り移るように、
男気ある好人物との触れ合いを楽しむように
読書することになるでしょう。
中編「野分」は、
社会派的性格が「二百十日」よりもずっと濃くなっていますし、
リアリティさも強い文体です。
クライマックスの、白井道也の演説はなかなか読みごたえがありました。
当時38,9歳の夏目漱石が考えたことでもあるでしょうし、
だいたい同年代の今の僕と重ね合わせて考えてみもしました。
今って、階級社会になってきましたよね。
70年代に築かれた中流層が崩れ、
下層階級と金持階級との二極化がすすみました。
そんな現代と、明治40年くらいのこの小説の舞台の時代の構造が、
もしかするとちょっと似ている部分がある。
金儲けに走ってうまくいき、富を得ただけなのに、
まるで位人臣を極めたかのように、
学問にも通じているかのようなふるまいをする人たち。
本作品では、それを「おかしいことだ」と、鋭く、でも平明な言葉で、
世間に投げかける。どうだ、と、まな板にのっけたんです。
「学問即ち物の理がわかると云う事と、生活の自由即ち金があると云う事とは
独立して関係のないのみならず、反って反対のものである。
学者であればこそ金がないのである。
金を取るから学者にはなれないのである。
学者は金がない代りに物の理がわかるので、
町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。
しかも世間一般はそう誤認している。
あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違いない、
カルチユアーもあるに極まっていると―――こう考える。
ところがその実はカルチユアーを受ける暇がなければこそ
金をもうける時間が出来たのである。
自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、
同時にカルチユアーも授けると云う程贔屓にはせんのである。
この見やすき道理も弁ぜずして、
かの金持ち共は自惚れて……」
という二つの引用セリフからもわかります。
そして、現代にもそういう誤認が市民権を得ていながら、
同時になんか腑に落ちないな、
という違和感もみんな感じているところだと思います。
それを、小説内の在野の思想家・白井道也が、
ひいては漱石のような作家が、
社会のそのあり方を憂い、強く糾弾しているんですよねえ。
見事だと思いました。
あとは、全然本筋とは離れますが、
「二百十日」では、豆腐屋(圭さん)にたいして、
豆腐屋ってたいがい彫り物をいれてるものだろ、
っていうようなセリフがあるんですけど、
日本の入れ墨の歴史をまったく知らないから驚きがありました。
それと、
田舎から出てきたばかりの若い女が隠し事ができず、
すぐに正直に喋ってしまうことを
笑いのダシにした芝居が西洋にあるくらいで、
田舎びとはとかく恥ずかしいものだけれど、
「実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、
立派な人物ができるんだがな。惜しい事だ」
というセリフが出てきて、言ったもんだな、と思うところ。
また、「野分」では、
文学者っていうのは、
楽に生活していけるものじゃないんだよ、
苦しまない者は文学者なんかなれないんだよ、
みたいに語られている。
そうさなあ、と思った次第です。
いや、しかし、
僕は元々「文学なんてカタブツなんだろう」から入ってる人だから、
こういうのに触れると素直に驚くし、刷新されます。
漱石はすごいな。
標準であるし、その標準の水準が高い位置にある。
日本の宝物的作家だと思いました。
『二百十日・野分』 夏目漱石
を読んだ。
40代に迫ったころの夏目漱石が書いた、短編と中編の二篇。
『吾輩は猫である』を書いていた漱石が、
この作品では社会に挑むようなテーマを扱っています。
「二百十日」はほぼ会話でできあがっている作品。
阿蘇の山に登るための旅中の会話が主体なんですね。
主人公の二人はところどころとぼけていて、
まるで落語みたいだなあと思いながら、おもしろく読めていく。
主人公の一人、圭さんが剛健な人物で、
当時の金持ちや華族連中の存在がいけない、
という持論を展開していきます。
それでも、冗談を交えた日常会話文ですから、
論理がむずかしいということもなく、
読者の気持ちもそこに乗り移るように、
男気ある好人物との触れ合いを楽しむように
読書することになるでしょう。
中編「野分」は、
社会派的性格が「二百十日」よりもずっと濃くなっていますし、
リアリティさも強い文体です。
クライマックスの、白井道也の演説はなかなか読みごたえがありました。
当時38,9歳の夏目漱石が考えたことでもあるでしょうし、
だいたい同年代の今の僕と重ね合わせて考えてみもしました。
今って、階級社会になってきましたよね。
70年代に築かれた中流層が崩れ、
下層階級と金持階級との二極化がすすみました。
そんな現代と、明治40年くらいのこの小説の舞台の時代の構造が、
もしかするとちょっと似ている部分がある。
金儲けに走ってうまくいき、富を得ただけなのに、
まるで位人臣を極めたかのように、
学問にも通じているかのようなふるまいをする人たち。
本作品では、それを「おかしいことだ」と、鋭く、でも平明な言葉で、
世間に投げかける。どうだ、と、まな板にのっけたんです。
「学問即ち物の理がわかると云う事と、生活の自由即ち金があると云う事とは
独立して関係のないのみならず、反って反対のものである。
学者であればこそ金がないのである。
金を取るから学者にはなれないのである。
学者は金がない代りに物の理がわかるので、
町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。
しかも世間一般はそう誤認している。
あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違いない、
カルチユアーもあるに極まっていると―――こう考える。
ところがその実はカルチユアーを受ける暇がなければこそ
金をもうける時間が出来たのである。
自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、
同時にカルチユアーも授けると云う程贔屓にはせんのである。
この見やすき道理も弁ぜずして、
かの金持ち共は自惚れて……」
という二つの引用セリフからもわかります。
そして、現代にもそういう誤認が市民権を得ていながら、
同時になんか腑に落ちないな、
という違和感もみんな感じているところだと思います。
それを、小説内の在野の思想家・白井道也が、
ひいては漱石のような作家が、
社会のそのあり方を憂い、強く糾弾しているんですよねえ。
見事だと思いました。
あとは、全然本筋とは離れますが、
「二百十日」では、豆腐屋(圭さん)にたいして、
豆腐屋ってたいがい彫り物をいれてるものだろ、
っていうようなセリフがあるんですけど、
日本の入れ墨の歴史をまったく知らないから驚きがありました。
それと、
田舎から出てきたばかりの若い女が隠し事ができず、
すぐに正直に喋ってしまうことを
笑いのダシにした芝居が西洋にあるくらいで、
田舎びとはとかく恥ずかしいものだけれど、
「実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、
立派な人物ができるんだがな。惜しい事だ」
というセリフが出てきて、言ったもんだな、と思うところ。
また、「野分」では、
文学者っていうのは、
楽に生活していけるものじゃないんだよ、
苦しまない者は文学者なんかなれないんだよ、
みたいに語られている。
そうさなあ、と思った次第です。
いや、しかし、
僕は元々「文学なんてカタブツなんだろう」から入ってる人だから、
こういうのに触れると素直に驚くし、刷新されます。
漱石はすごいな。
標準であるし、その標準の水準が高い位置にある。
日本の宝物的作家だと思いました。