Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『投資は「きれいごと」で成功する』

2019-03-08 22:53:59 | 読書。
読書。
『投資は「きれいごと」で成功する』 新井和宏
を読んだ。

投資ファンド・鎌倉投信を作った著者による、
新しい投資のありかたを身を持って提言した、
その精神や考えをわかりやすく解説した本。
さくさく読めます。
この鎌倉投信の新しいやり方は、
2013年の投資効率をみる賞で第一位を獲得したとのこと。

投資というと、
ハイリスク・ハイリターンなものというイメージがありました。
社会的に肯定されたギャンブルといったイメージもです。
さらには、金融工学という学問でカチカチに固められた、
金儲けのためだけに特化した錬金術の門をくぐる行為、
とも想像していた。

本書を読むと、
リーマンショックまでの金融界は、
まさにそんな感じだったようです。
数式で固めた理論でもって、株を売り買いする。
まあ、全く詳しくない分野なので、
細かいところはわからないのですが、
そうやってお金を生みだしてきていた。

でも、そのようにお金が増え続けるというのは、
すごく不自然な印象があります。
鉱脈から、埋蔵している鉱物をどんどん掘っていくのとは違う。
ある期間を限定して考えれば、お金の総量が決まっていて、
それを奪い合うようなイメージがありますが、
やっぱりそのあたりも知識がないので、僕にはなんともいえない。

本書の著者は、
鎌倉投信という投資ファンドをやっていますが、
既存の考え方とは180℃違うような方向性でもって
投資をおこなっています。
まず、ローリスク・ローリターンで、
投資先を決める際にも、数字を最重要視しない。
元来とは違い、投資家は投資先を知っているし、
投資先は投資家がどんな人物なのかも知ることができる。
そこには、人と人とのつながりが、鎌倉投信を仲介して
できあがっているんですよねえ。

鎌倉投信は、
小さな、いい会社にだけ投資する。
(その会社のなかには、
なんと僕の街の会社の名前もあがっていました)
会社選びには、
その会社がいい意味で「ずるい」ビジネスモデルをもっているかどうかを
重要な点として見ています。
また、技術力よりアウトプットの量が大事だとか、
現場力が大事だとか、
現実的に、会社のなかでの注視する点をちゃんとおさえています。
そして、
資産の形成のみならず、社会の形成とこころの形成をも含めた、
三つの形成材料を等しく並べ、
どれも欠けてはいけないものとして、
投資の定義にしているようです。

それで気付いたのですが、
この鎌倉投信のやり方の根本にある思想って、
マルセル・モースの『贈与論』的な
「ひとのあたたかみをちゃんと感じる」ことを
大切に考えるものですね。
モノに生産者や持ち主のあたたかみを感じることが大事じゃないのか、
たとえばトレーサビリティをそういう方向性に使うだとかって考えてましたけど、
この著者はお金でそれをやったか!

思想だけじゃなしに、
具体的に「できること」として
現実面に落としこんで行動できる仕組みにしたのは非常に素晴らしいです。
お金は身近なものです。
そのお金に対するイメージが変わっていけば、
世の中も変わっていくかもしれない。
そういったアプローチでもありますね。

やってる人はやってるんだな、
と教えられる、よい読書体験でした。


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『ハイデガー入門』

2019-03-07 00:02:49 | 読書。
読書。
『ハイデガー入門』 細川亮一
を読んだ。

20世紀に活躍した哲学者ハイデガーの主著
『存在と時間』を中心に、
本入門書の著者の言葉通り、
「ハイデガー哲学が動いている問題地平を
明らかにすることを目的にしている」本になっています。
原語でハイデガーを読む人のための入門書という位置づけのため、
本書では、中身の解釈にまでは立ちいっていません。

「哲学」というもの自体、
頭を使うもので、難しくて、
なかなかとっつきにくいものだったりしますが、
そんな「哲学」のなかでも、
ハイデガー哲学はとりわけ難解な部類に位置付けられる「哲学」だそうです。
なので、本書自体も難しいです。

『存在と時間』にあたるための外堀を埋めていくにしても、
古代ギリシャ哲学者である、
プラトンやアリストテレスから始めなければわからない。
『存在と時間』は、古代ギリシャからの存在論を甦らせるというか、
より一歩進めたような哲学のようだと僕は思いましたが、
『存在と時間』を読んでいないし、たぶん読まないので、
そこはわからないですね。
ただ、存在の意味への問いが、形而上学的(神学を含んでいる学問)にいえば、
それが「神」が答えになるところで、ハイデガーは「時間」を答えだとしてました。
さらに、ハイデガーは存在の意味においては、
神がそこに立ち上ってくることを嫌い(?)、
存在の真理を問うというかたちで回避していこうとしていくようなんですが、
もうね、なかなか、読み終わってしばらくたつと、
脳内から湯気のように蒸発していくような、
頭に定着しずらい難解な抽象的思考で構築されていました。

形而上学もそうだし、現象学もそうだし、
いろいろな基礎があって、ハイデガーは自分の哲学を創っていった。
そして、当時ナチスの時代ですから、
ナチズムとの間になにかスキャンダル的なことがあったらしいのですけども、
本書はスキャンダル的にならないことをモットーとして書かれているため、
まったくそれがどういった事件なりトラブルなりスキャンダルなりなのか
書かれていないのです。
その態で、ナチズムとハイデガーについて哲学的な面から論じられていて、
なんだか核心をベールで覆ったままみたいに、
すっきりしなかったですね。
なんていうか、ちょっと純だというか、
中身については、きれいすぎる本ではあります。

というわけで、ハイデガーの哲学そのものについては
わかるところがあまりなかったですが、
外堀を埋めていくところで、その周辺部に出てきたものが面白かった。
そのひとつは、現象学です。
「見る人」と「見られる物」、
その二つがあるとだけ認識してものを見る、と考えると何か足りない。
そう、光が足りないのです。
光が照射されているからこそ、
「見る人」は物を見ることができる。
現象学のこの考え方っていいなあと思いました。
これは「考える人」と「考えてもらう物」の二つだけとすると
不完全だってことに繋がります。
たとえば医療の現場で、
医者が患者を治療するところだけを見たり考えたりしてたんじゃ足りなくて、
なにがその病気を起こしているかを考えないと完全じゃない、
みたいな疫学的思考と現象学は繋がると思う。
現場が川下で疫学研究が川上と比喩したものも以前読んだ本にあったけれど、
現象学的な光の考え方ですよね。

それと、
関連してでてきたウィトゲンシュタインの哲学があって、
彼の「人が永遠性を無限な時間持続してではなく、
無時間性として理解するならば、
現在のうちに生きる者は永遠に生きる」っていうのが、
村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の
結末のアイデア源なんじゃないのって思ってしまった。
しかも、読んでいくうちに、
この無時間性の永遠性って、
古代ギリシャから連綿と引き継がれてきた哲学のひとつだそうで、
ポピュラーなんだなあと、自分の無知を知りました。

また、
プラトンが言ったイデアの概念については、
実は学生時代にwebでいろいろ調べて考えた経験があって、
それが今回助けになったのでした。まあ、それでも難解でしたが。

というわけで、
ハイデガーについてもちょこっとでもなにか言いたいところですが、
本書の著者が、ハイデガーについてわかってもいないのに、
部分的につまみ食いしたようなものを語るべからず、と強くいっていますし、
そういったものは「おとぎ話」にすぎないと斬って捨てているので、
やめておこうと思います。
ハイデガーを知りたければ、まず入門書としてこういう本がありますが、
原書をあたらなければわからないということです。
翻訳したものもありますがそれは不完全すぎていて、
原語の単語単位で解釈しないとわからないところがあるから、
ちゃんとドイツ語を学んで読みなさい、ということです。
……厳しい世界ですね。

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『二百十日・野分』

2019-03-01 22:26:36 | 読書。
読書。
『二百十日・野分』 夏目漱石
を読んだ。

40代に迫ったころの夏目漱石が書いた、短編と中編の二篇。
『吾輩は猫である』を書いていた漱石が、
この作品では社会に挑むようなテーマを扱っています。

「二百十日」はほぼ会話でできあがっている作品。
阿蘇の山に登るための旅中の会話が主体なんですね。
主人公の二人はところどころとぼけていて、
まるで落語みたいだなあと思いながら、おもしろく読めていく。
主人公の一人、圭さんが剛健な人物で、
当時の金持ちや華族連中の存在がいけない、
という持論を展開していきます。
それでも、冗談を交えた日常会話文ですから、
論理がむずかしいということもなく、
読者の気持ちもそこに乗り移るように、
男気ある好人物との触れ合いを楽しむように
読書することになるでしょう。

中編「野分」は、
社会派的性格が「二百十日」よりもずっと濃くなっていますし、
リアリティさも強い文体です。
クライマックスの、白井道也の演説はなかなか読みごたえがありました。
当時38,9歳の夏目漱石が考えたことでもあるでしょうし、
だいたい同年代の今の僕と重ね合わせて考えてみもしました。
今って、階級社会になってきましたよね。
70年代に築かれた中流層が崩れ、
下層階級と金持階級との二極化がすすみました。
そんな現代と、明治40年くらいのこの小説の舞台の時代の構造が、
もしかするとちょっと似ている部分がある。
金儲けに走ってうまくいき、富を得ただけなのに、
まるで位人臣を極めたかのように、
学問にも通じているかのようなふるまいをする人たち。
本作品では、それを「おかしいことだ」と、鋭く、でも平明な言葉で、
世間に投げかける。どうだ、と、まな板にのっけたんです。

「学問即ち物の理がわかると云う事と、生活の自由即ち金があると云う事とは
独立して関係のないのみならず、反って反対のものである。
学者であればこそ金がないのである。
金を取るから学者にはなれないのである。
学者は金がない代りに物の理がわかるので、
町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」

「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。
しかも世間一般はそう誤認している。
あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違いない、
カルチユアーもあるに極まっていると―――こう考える。
ところがその実はカルチユアーを受ける暇がなければこそ
金をもうける時間が出来たのである。
自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、
同時にカルチユアーも授けると云う程贔屓にはせんのである。
この見やすき道理も弁ぜずして、
かの金持ち共は自惚れて……」

という二つの引用セリフからもわかります。
そして、現代にもそういう誤認が市民権を得ていながら、
同時になんか腑に落ちないな、
という違和感もみんな感じているところだと思います。
それを、小説内の在野の思想家・白井道也が、
ひいては漱石のような作家が、
社会のそのあり方を憂い、強く糾弾しているんですよねえ。
見事だと思いました。

あとは、全然本筋とは離れますが、
「二百十日」では、豆腐屋(圭さん)にたいして、
豆腐屋ってたいがい彫り物をいれてるものだろ、
っていうようなセリフがあるんですけど、
日本の入れ墨の歴史をまったく知らないから驚きがありました。

それと、
田舎から出てきたばかりの若い女が隠し事ができず、
すぐに正直に喋ってしまうことを
笑いのダシにした芝居が西洋にあるくらいで、
田舎びとはとかく恥ずかしいものだけれど、
「実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、
立派な人物ができるんだがな。惜しい事だ」
というセリフが出てきて、言ったもんだな、と思うところ。

また、「野分」では、
文学者っていうのは、
楽に生活していけるものじゃないんだよ、
苦しまない者は文学者なんかなれないんだよ、
みたいに語られている。
そうさなあ、と思った次第です。

いや、しかし、
僕は元々「文学なんてカタブツなんだろう」から入ってる人だから、
こういうのに触れると素直に驚くし、刷新されます。
漱石はすごいな。
標準であるし、その標準の水準が高い位置にある。
日本の宝物的作家だと思いました。

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