イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「バースト! 人間行動を支配するパターン」読了

2022年06月09日 | 2022読書
アルバート=ラズロ・バラバシ/著 青木薫他/訳 「バースト! 人間行動を支配するパターン」読了

なんだか不思議な本だ。人間力学というそうだが、人間の行動は一見ランダムに見えるけれども、じつは何らかの法則に支配されているというのがテーマだ。ランダムというとむちゃくちゃというように思えるが、本当にランダムならその動きは確率的に数学で予測できるのだが人間の行動はそうではないというのだ。
そして、人間が支配されているというその法則というのが、タイトル通り、「burst(バースト)」というものなのである。この意味は、「短時間に何かが集中的におこなわれ、その前後に長い沈黙の時間が存在する。」ということである。
例えば、電子メールの送信や電話、手紙のやりとりという行為を例にあげ、人間の行動はいつも平均的、もしくはランダムにおこなわれるのではなく、爆発的に行動する時期と、まったくそれをやらない時期が繰り返されるというものだ。それがレヴィ軌跡というものやベキ法則という僕にはまったく意味のわからない数学で表されるというのである。

その説明が、ローマ教皇がレオ10世という人であった時代の十字軍遠征の画策についてのエピソードと交互に進められていく。一体、十字軍の遠征と人間の行動パターンにどういう関係があるのかということが中ほどくらいまで読み続けてもわからないのである。

著者の肩書からしてよくわからない。この本が発刊された当時の2012年現在、ノートルダム大学コンピューターサイエンス&エンジニアリング特任教授、ノースイースタン大学物理学部・生物学部・およびコンピューター&情報科学部特別教授、同校で複雑ネットワーク研究センター長を務め、またハーヴァード大学医学部講師も務めているというのである。一体どんな学問をやっている科学者であるのかというのがさっぱりわからない。

ブラウン運動に代表される物質の動きでは、アインシュタインの拡散理論やポアソン分布という、これまた何のことだかさっぱりわからない理論だが、ランダムだけれどもこういった数学的法則の基に物質は動いている。しかし、人や生物が関わる動きというものにはそういった法則性はないものだと思われるが、著者がburstという発想を得たというのは、アメリカで行われた紙幣の動きを調べた実験からである。紙幣にQRコードが入ったスタンプが押されてあり、それを手にした人が読み込んで送信すると、その紙幣がいつ、どこにあったかというログが記録される。それを調べてみると、この紙幣はある一定の期間狭い場所に留まるがその後は一気に遠いところに移動する。この、一気に動きが活発になることをburstと呼んだわけだ。例はそれだけではない。人の動きも先に書いたとおり、電話や手紙、メールの発信作業などもburstな動きをしているという。
また、こういう動きは人間だけではなく、動物が餌を求めて行動する場合にも当てはまるという。例えば、アホウドリが餌を探す場合、探し始めと終わりの頃に大きく移動する習性があるという。サルが餌を探す場合も同じような動きをするそうだ。これを、レヴィ飛行(軌跡)というそうだ。
著者は、人間がメールや電話、手紙などでburst的な動きをしてしまうのは、作業の重要度に応じて優先順位をつけるからだと予想した。しかし、優先順位などは関係ない自然界の動物たちも同じような動きをするというからには、やはり、きっと、生物が持っている何らかの普遍的な法則があるに違いないと考えたのである。

と、こういった説明をしておきながら、実は、アホウドリのレヴィ飛行というのは観察上の誤りであったとか、人間の行動が予測できるのは、大概の人は1日の行動パターンがほぼ決まっているので、過去の行動データを記録しておくとその後の行動もある程度予測がつくのだという、なんだか落語のオチのような結論が導き出されるのである。

中世の十字軍にまつわる物語は、ジョルジュ・ドージャ・セーケイという騎士が主人公として語れるのであるが、どうもこの人の行軍もburstに従った行動であったというのだけれども、どうもピンと来ないのである。もともと歴史が好きではないので興味がわかないというのが一番の原因であるとは思うのだが・・。

ただ、読み物としてはかなり面白い。一見何のつながりもない事象が僕の理解を超えながらも関連性をもって収束してゆく展開は科学読み物というよりも、推理物のような感があったのである。

様々な伏線の回収についてだが、人間の行動については、個人々々ではburstという現象は見ることができないが、ある一定規模の集団、それはおそらく国家レベルくらいでの集団なのだろうが、時々規格外の人が現れる。大冒険をする人だ。そういう人をひっくるめるとやはりburstであるというのだ。
ジョルジュ・ドージャ・セーケイという人物については、もともと盗賊であった人が十字軍の総指揮者にまで上り詰め、オスマン帝国に対し戦いを挑むはずが、味方の貴族たちに反旗を翻し処刑されるまでの期間がわずか3ヶ月ほどしかなかったという。そんなわずかな期間で人生を大転換させてしまったことがburstであるというのだ。この人物の盛衰の過程には著者の先祖も関わっていたというのであるが、それだけで400ページあまりの半分を費やすということにどういう意味があったのであろうか・・。ただ、この物語が挿入されていることで読み物としての面白さを醸し出しているのは間違いがない。
この下りの中に、『イシュテン・ネム・アカリア』という言葉が出てくる。これは、『神はこれをお望みではない。』という意味だそうだが、ネットで調べても語源やどの国の言葉かということが調べられないのだが、「神がお望みではない」というのは何かのおりに使えそうだ。

ほかにもburstの例として、病気の進行やうつ病の発症もそうだと書かれていたり、また、伝染するはずのない病気、例えば肥満などでも連鎖的に発症するものだということが書かれている。
しかし、何かの病気が発症すると連鎖的に他の病気が発症する例が多いのがburstだというが、それはきっと免疫力が落ちてきているから他の病気を発症するのであってベキ法則が原因ではないと素人としては思ってしまうし、うつ病についても、起きている時間に症状が集中するのがburstだというものの、寝ながらはうつ病の症状は出てこないだろうと思うのである。
肥満の伝染という現象が事実であったとしても、それがburstだというのもちょっと解せない・・。

まあ、発刊から10年を経た今はどこまで確立されているのかはわからないが、この当時の時点では人間力学という分野はまだ研究が始まったばかりだということだろう。著者曰く、いつかは様々な物理法則のように人間の行動や思考が数式で表される時代が来るのだというけれどもそこはどうなのだろう。確かに、人間の思考は神経線維の中を走り回っている電気信号とシナプス間の神経伝達物質の交錯から生まれてくるのだからそれは化学と電気力学の数式で記述できるというのかもしれないが、2000億個あるという脳細胞と数兆個と言われるシナプスを数式化し、それを人間一般に当てはめるためにはどれほどの性能のコンピューターが必要なのだろうか・・。
そこまでいけると、本当にコンピューターの上に人の意識が再現できるのかもしれないと思うのである。

確かに、統計学では人間の行動はある程度予測できるらしく、携帯電話の電波基地を設置する場所などはそういった統計から人の動きを読んで決めているらしいし、アマゾンのリコメンド機能を見ていると、僕の心はすでに読まれているのかもしれないと思うこともある。グーグルで僕が何を検索しているかということがばれるのは裸で街を歩いているのと等しいかもしれない。
しかし、これはあくまでもデータの蓄積の結果の予想であって数式ではないのだ。ただ、ある意味、そんなデータが自分のあずかり知らぬところで独り歩きしているというのも恐ろしい限りであるとあらためて思ったのがこの本を読んだ感想である。

また、個人的には発作的にドバ~っと集中して何かをやってしまわないよう(この本ではそれをburstというので、そういう意味ではburstしないように)に年中同じ行動をまんべんなくやるように心がけてはいる。なぜかメリハリをつけたくないのだ。釣りに行くにしても本を読むにしても、年がら年中、穴をあけず、かといって集中しないように継続するというのが自分のモットーだ。
ということは、僕も心の底の方では実は人はburstしやすいものだと思っていたのかもしれないから、直感的にでも著者の考え方というのはやはり正しいのかもしれない。
そしてもし、burstするのが人間だとしたら、僕は相当人間的ではないということになるのかもしれないなどとも思ったりしたのである。

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「反哲学入門」読了

2022年06月02日 | 2022読書
木田元 「反哲学入門」読了

以前に読んだ、「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」の著者が、「自分の知る限り一番わかりやすい哲学の入門書である。」と紹介していた本だ。

著者はユニークな哲学者で、終戦直後は闇屋をやっていたそうだ。儲けたお金で大学に入ったというのだからすごい。
さて、「一番わかりやすい・・」とはいえ、元々が難解であるのが哲学であるのでそんなにすぐに哲学がわかるわけがない。最後は著者の研究の本山であるハイデッカーについて書かれているのだが、到底そこまで理解できるわけがなく、この感想文ではソクラテス、プラトン、アリストテレスと哲学の世界の転換点になったことくらいまでを追いかけたいと思う。

まず、タイトルであるが、哲学の入門書なのになぜ、”反”という言葉を入れたかという説明から入っている。
日本ではその歴史を通して、哲学がなかったと言われている。そういう日本人からは哲学というものは西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと著者は考えている。日本人が哲学を理解することはそうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようとする作業ではないかと考えたことから、それを「反哲学」と呼ぶようになったと述べている。(この本は基本的に、著者の口述記録を編集者が文章に起こしたものである。だから文章自体は会話調になっていてそれが意外と読みやすい。)
この本は、そういう立場から哲学の歴史をふりかえって、哲学とは何であったのかということを考える試みであるとしている。
哲学は何を考える学問なのかというのは、「哲学の名著50冊が・・」では、「存在」について考えることであると書かれていた。この本ではもう少し詳しく、『「ありとしあらゆるもの(存在するものの全体)が何か」ということを問うて答えるような思考様式であり、しかもその際、何らかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式である。』と解説されている。
ありとしあらゆるものがどうしてこの世界に存在するかということを考える時、「つくる」「うむ」「なる」という三つの動詞にその発想が集約されるという。これは世界中のはじまりの神話の数々を分類すると見えてくるのだが、例えば、日本神話では国はイザナギ・イザナミの二神が生んだということになっているし、旧約聖書では神が世界を「つくる」ことになったし、メラネシアの神話では、世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現化した(なった)ということになっている。そういうところから「イデア」というような観念が生まれてきた。

西洋哲学の大きな特徴は、自然は世界を形作るための無機的な材料、質料にすぎないもの、すなわち物質になってしまっているということである。自然とは、もともと文字どおりおのずから生成してゆくもの、生きて生成してゆくものであるが、それが超自然的原理を設定し、それに準拠してものを考える哲学のもとでは、死せる制作の材料になってしまう。そういう意味では哲学は自然の性格を限定し否定して見る反自然的で不自然なものの考え方ということになる。超自然的な存在が自由自在に操ることができるのが自然だったのである。

しかし、ソクラテス以前の思想家、アナクシマンドロスやヘラクレイトスが活躍した時代のギリシア人はそんな反自然的な考え方はしていなかったが、ソクラテスやプラトンの時代に、たとえばプラトンのいう、「イデア」のような自然を超えた原理軸にする発想法に転換した。それ以来、西洋という文化圏では、超自然的な原理を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になったのである。
19世紀後半、ニーチェはこのことに気付いた。この時代というのは産業革命が起き、大量生産、大量消費の時代で、植民地政策が破綻し始める時代でもあった。人々が次第に工業化、資本主義に呑み込まれていくという行き詰まりの原因を、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方自体にあると見抜き、「神は死せり」という言葉で宣言し、形而上学的な思考から脱却しようした。著者の専門である、ハイデッカーなどもそれに追随する考えを持った。こういう人たちの思考は「脱構築」と呼ばれる。
だから、西洋哲学の世界ではニーチェの考えが大きな転換点になっていると言われているのである。

ここで、哲学の世界で使われる言葉について書いておこうと思う。これは西洋哲学を知るうえでも、その転換点について知るうえでも大きく関わることである。

●そもそも、「哲学」という言葉の語源について
「哲学」の直接の語源は、英語のphilosophyあるいはそれに当たるオランダ語で、これは古代ギリシア語のphilosophia(フィロソフィア)の音をそのまま移したものである。この言葉は、philein(フィレイン:愛する)という動詞とsophia(ソフィア:知恵ないし知識)という名詞を組み合わせてつくられた合成語であり、「知を愛すること」つまり「愛知」という意味になる。「愛知」というのは地名にもあるからというのかどうかは知らないが、それを江戸時代の最後の時期に活躍した西周という学者が「哲学」という訳を当てたのである。
もともとは「希哲学」という訳し方をしていたそうだ。儒教で語られる「士希ㇾ賢」(士は賢を希う(ねがう)と同じだろうということで「希賢」としたがこれでは儒教臭が強いというので「賢」とほとんど同義の「哲」という言葉を当てたが、明治になって書かれた著作では「希」が抜けてしまって「哲学」になっていたという。「愛」の部分がすっぽりと抜けてしまっているので著者はこれは誤訳だろうと言っている。
●「形而上学」という言葉について
英語ではmetaphysics、ギリシア語のta meta ta physika(タ・メタ・タ・フィジカ)の訳語として造語されたものである。もともとはアリストテレスがリュケイオンでおこなった講義ノートを250年後に整理編纂した際に生まれた言葉だそうだ。
アリストテレスはプラトンの弟子であるが、この講義の順番で最後に受講するのが「形而上学」というものであった。その順番というのは、まず具体的な科学研究(動物学、植物学、心理学など)や理論思考の訓練を受けて、次に、自然学(運動論や時間論などを含めた物理学)を学び、最後にイデアのような超自然的原理を学ぶ、「第一哲学(プローティー・フィロソフィー)を学ぶことになっていた。これは「自然学の後の書」と呼ばれていて、「自然を超えた事がらに関する学」という意味で、「超自然学」という意味で定着した。
これが日本に入ってきたとき、「超自然学」と訳さず、「易経」の繋辞伝にある、「「形而上者謂之道、形而下者謂之器(形より上なるもの、これを道と謂い、形より下なるもの、これを器と謂う)」という言葉から訳された。
●「理性」という言葉について
哲学でよく語られる、「理性」という言葉だが、これは普通に語られる意味では使われない。日本人が「理性」と呼ぶものは、人間の持っている認知能力の比較的高級な部分であるので、人によって理性的であったりそうでなかったりするものである。しかし、哲学の世界では、「理性」とは人間のうちにはあるものだがそれは神によって与えられたもの、つまり神の出張所ないし派出所のようなもので、したがってそれを正しく使えばすべての人が同じように考えることができるし、世界創造の設計図である神的理性の幾分かを分かちもっているようなものだから、世界の存在構造も知ることができる、つまり普遍的で客観的に妥当する認識ができるということになるのである。

では、哲学はどうして発生する必要があったかということであるが、プラトンの時代、彼はポリス間の闘争に敗れた祖国アテナイの政治をなんとかしたいと考えた。
スパルタとの戦いに敗れた要因となった、ある意味民主的な「なりゆきまかせの政治哲学」から、正義の理念を目指して「つくられるべき」ものに変革しなければならないのだという政治哲学を主張しようと考え、それを基礎づけるための「つくる」理論に立つ一般的存在論を「イデア論」というかたちで構想した。目差す道を指し示す超自然的存在が必要であったのである。
また、キリスト教では、キリスト教の教義体系を構築するための下敷きとして利用された。教義のなかで自然的な事象に関わるものを整理するにはアリストテレスの「自然学」を使い、神の恩寵や奇跡のような超自然的な事象に関わるものを整理するのには「自然学の後の書」すなわち、形而上学を使った。
これらは、真に、「存在するということの理由」を解明するというよりも、政治や宗教を効率よく進めたり広めたりするツールでしかなかったと言えなくもない。もとあった哲学的思考を政治や宗教のほうが都合よく利用したのか、それとも哲学自体が政治や宗教のために生まれたのかは定かではないけれども、どちらにしても思考の変化というのはえてして自分たちの都合の良い方向に向かっていく傾向にあるものだ。そう考えてしまうとなんだか、真理を求めているはずがそれに関わる人たちの心のバイアスが時間の経過とともにいっぱい盛り込まれてしまっているような感じになってくる。

結局、宗教も政治も宇宙が開闢したときから存在していたものではなく、それを補完するために哲学が存在するのなら哲学も宇宙や世界の真理を語っているものではないとなってしまうのだろうか。しかし、哲学から生まれた自然科学が宇宙や世界の真理を解き明かそうとしているのも事実である。となると、やはり哲学は、宇宙が開闢したと同時に存在し、人間はひたすらその姿を解明するために埋もれた土の中から掘り起こす作業をしてきたのだということになるのだろうか。どちらにしても、自らの存在理由を解明するためには、世界を俯瞰的に見るという、ある意味、神の位置、すなわち超自然的な位置というものが必要であったのだろう。

こういう複雑な思考というものもありなのだろうが、東洋思想の根幹のひとつである仏教の考え方である、自らは無から現れてまた無に帰っていく存在で、現世というのはその間に現れたコブのようなものなのであるという考え方のほうがよほどスッキリしていると思えるのである。

この本にはまだまだ理解をしなければならない哲学が満載されている。図書館で借りるだけでは追いつかないと思い、同じ本を買ってしまった。とりあえず手元に置いて暇なときにはパラパラとページをめくりながら理解を深めたいと願っているのである。


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「大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件―なぜ美しい羽は狙われたのか」読了

2022年05月23日 | 2022読書
カーク・ウォレス・ジョンソン/著 矢野 真千子/訳 「大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件―なぜ美しい羽は狙われたのか」読了

この本は、2009年に発生した、大英自然史博物館のトリング分館での鳥類標本の盗難事件について書かれたノンフィクションである。
前回読んだ、「科学で大切なことは本と映画で学んだ」に紹介されていた1冊であった。
著者はルポライターでもなくジャーナリストでもなく、NPOの活動家だ。
アラビア語を学びイスラムの言語と政治について学んだあと、米軍撤退後の都市計画に携わり、同僚として働いたイラク人の通訳や医療関係者が迫害を受けているのを知り、その人たちを難民としてアメリカに呼び寄せる活動をしていた。
その活動に疲れ、あるときニューメキシコ州の北部にフライフィッシングに出かけた時、ガイドから大英自然史博物館での鳥の羽根の盗難事件の話を聞いたのである。
その話を聞いた著者は、なぜか気になり、行き詰った心の気晴らしのつもりでさらに深く調べてみようと考えた。そして、この盗難事件の裏に深く横たわる大きな闇を垣間見ることになるのである。

事件の経過はこうだ。
事件は2009年6月23日に発生する。つい最近の事件である。
犯人の名前は、エドウィン・リスト。ニューヨーク市の北部、クラヴェラックに越してきた少年である。逮捕されたときはイギリス王立音楽院の学生であった。10歳の時に父親が持っていたフライタイイングのDVDを見て興味を持つ。そのフライとは、日本で使う渓流用のフライなどではなく、クラシックスタイルのサーモンフライである。



このフライはカラフルなデザインでかつ希少な鳥の羽根が使われているというのが特徴だ。
この世界は、釣りをせずに、タイイングだけを趣味や本業としている人たちがいるくらい奥の深い世界なのだそうである。

エドウィン・リストはひとつのものに興味を持つととことんのめり込むという性格で、親もその興味のある分野の才能を伸ばしてやりたいと思う人たちであった。のちに音楽に興味を持ち、イギリスの音楽学校を目指すことができたのも、そういった理由からであった。
13歳の時にはすでにコミュニティの中で目立つ存在となっていた。
ビクトリア王朝時代の正統なクラシックスタイルのフライを巻こうとすると希少で高価なマテリアルが必要だ。すでに取引が禁止されている種類の鳥も多い。あるとき、コミュニティのタイヤ―のひとりから、大英自然史博物館のトリング分館に保存されている資料の話を聞く。ここには、ダーウィンに並ぶ進化論者である、アルフレッド・ラッセル・ウォレスが集めた鳥類も数多く保管されている。

この本の最初と次の章はそのアルフレッド・ラッセル・ウォレスについてと熱帯の鳥たちの受難について書かれている。
ウォレスは1823年1月生まれ。生物学の専門的な教育を受けているわけではないが、この時代に発刊された探検博物学者たちの手記に触発されアマゾンを目指す。1848年アマゾンで4年間標本集めをしたが帰路の途中で乗っていた船が火災に遭いほぼすべての標本と記録を消失。その後1856年、マレー諸島へ赴き、7年間の標本集めの途中、自然淘汰による進化論を思いつく。そしてダーウィンにその旨の書簡を送り、「種の起源」の発刊につながるのである。この時、活動資金を得るために現地から送った標本の一部を売却したのが大英自然史博物館であったのである。そしてそのコレクションの一部が盗難事件の被害に遭ったというわけだ。

ウォレスの時代、ヨーロッパの社交界では婦人のファッションに熱帯地方の極彩色の鳥をまるごと一羽乗せた帽子をかぶるということが流行した。これは、マリーアントワネットが1757年に羽根飾りを使ったのが最初だと言われているが、以来、ヨーロッパの社交界では珍しく貴重な鳥を頭に載せることがステイタスとなりそれが珍しいものであるほど裕福であり魅力的な女性であると認識されるようになる。その頃発刊されるようになった雑誌を通して一般女性にもそのファッションの波は広がり、それにともなって野鳥の乱獲が進んでゆく。



ウォレスもそういう現象を危惧していたそうだ。
その陰で同時期、英国紳士のたしなみとしてフライフィッシングが流行し始めた。1895年に刊行されたジョージ・モーティマ・ケルソンという貴族が書いた本には貴重な野鳥の羽が使われたたくさんのサーモンフライのイラストが掲載されていた。この本には、もっと普通に手に入れられる羽根でもサーモンを釣ることができるが、貴重な羽根を使ったフライで釣ることこそ紳士であるというようなことが書かれているらしいが、著者は、魚はそんなことはまったく考えていないと皮肉るのである。

この盗難劇の舞台になった場所は、イングランドのハートフォードシャー・トリングにある大英自然史博物館の分館である。イギリスの銀行家のロスチャイルド家の2代目が21歳の誕生日プレゼントとして贈られた私設博物館が元になっている。鳥類学の研究施設としては世界でも有数であり、海外からの研究者の来訪も多く、鳥類・哺乳類・爬虫類の剥製標本コレクションと昆虫標本コレクションの質の高さで有名だそうだ。

エドウィン・リストがサーモンフライ製作にのめり込んでいた頃、貴重な鳥の羽に模した染め物や人工のマテリアルが存在したが、のめり込めばのめり込むほどに本物のマテリアルに対する憧れが募る。
大英自然史博物館に本物の鳥の仮剥製を見に行くという希望は、もう一方の興味が実り音楽家としての教育を受けるため、2007年イギリスの王立音楽院に入学できたことで実現する。
フライタイイング、音楽、特定の分野に異常に興味を示しのめり込むという性質は、逮捕後の判決に影響を及ぼすアスペルガー症候群の特徴であるとされた。

リストが犯行に及ぶまでの経過はこうだ。
2008年11月5日 大英自然史博物館を下見、その後、キャリーケース、ガラスカッターを購入。
2009年6月23日犯行に及ぶ。博物館の鳥の剥製を所蔵している部屋に一番近い通りの塀を乗り越え、ガラスカッターで窓ガラスを切り忍び込む。その時、割れたガラスの破片で傷を負い、血痕を残し、ガラスカッターも落としてしまう。後にこれが犯行の証拠となる。
翌日、ガラスが割られていることが発見される。博物館は盗難を警戒していたダーウィンビーグル号で航海中に採集したガラパゴスのフィンチやドードー、オオウミガラスなどの鳥の皮や骨格、オーデュポンの「アメリカの鳥」の初版本などの貴重な資料が盗難に遭っていないことだけを確認し、安心する。

ひと月以上あと、2009年7月28日犯行が発覚。博物館の管理人が学芸員を案内し、ウォレスの鳥などが所蔵されている引き出しを開けたときに鳥の仮剥製がなくなっていることに初めて気がついた。
研究者には貴重な存在であってもそれ以外の人達、施設の管理人にさえもほとんど気を留められない存在であったのである。

それから約1年後の2010年5月下旬逮捕につながる端緒が見つかる。オランダで開かれた小さなフライ・フェアで翼と脚が胴に添うように縛り上げられた不自然なマテリアルを見た元覆面捜査官の通報からだった。例えば、剥製や古い帽子の飾りとして残っていたものであれば、羽を広げていたり、ポーズをとっていたりするはずだ。しかし、それは頭蓋骨には綿を詰められもいることから、捜査員は普通ではないということを直感的に感じた。
それを販売していた人間から、誰からそれを買ったかということを聞きだし、ネット上を調べると、「フルートプレーヤー1988」というアカウントで大量に鳥の羽を販売している人物を見つけたのである。
2010年11月12日逮捕。音楽院卒業を前年に控えていた時であった。
逮捕されるまでの期間、リストはネットオークションをはじめ、いくつかのサイトを通して盗品を売りさばいていた。
当初は盗んだことに対する罪悪感と後悔があったけれども犯行が発覚しないことで大胆になり、販売を始めたということが本には書かれていた。また、実家を助けるためや自分の楽器を購入するための資金も必要としていた。

盗難の被害として、299点が盗難されたと認定され、174点が押収(ラベルが付いていたのは102点のみであった。)19点は購入者が自主的に博物館に返納された。

2011年4月8日判決。心理鑑定において、アスペルガー症候群と認定されたことにより実刑を免れ執行猶予12か月となる。
盗まれた仮はく製の価値は25万300ポンドと算定された。その半額が罰金となった。
リストはその後、音楽院を卒業し、ドイツの交響楽団へ入団。

これで事件は終わったのであるが、この経緯を調べていた著者はいくつかの不審点を見つける。
ひとつはその価値判定だ。剥製になる前の標本としての価値は低いものの、フライマテリアルとしての市場価値は一部だけでも40万ドルを超えるという。
ちょっとネットで検索してみると、ブルーチャテラーが26万円で売られているのをみつけた・・。



ひとつは、盗難点数がひとりで持ち去るにはあまりにも多いということ。リストはスーツケースひとつを持ち込んで運び去ったと供述しているが、警察の見分では299点の標本を入れるにはゴミ袋6袋必要であるとされた。
ひとつは、著者が計算したところによると、家宅捜査で発見されたもの、後に返却されたもの、確実にネットで売りさばかれたものを除いても最大で64点の標本が行方不明になっているという事実だ。その価値だけでも数十万ドルに相当するという。その後様々な人たちを調べる中で、2点は買主が見つかったが、依然62点はその行方が分からないままである。
ひとつは、リストは本当にアスペルガー症候群であったのかということ。アスペルガー症候群の人というのは、人と目を合わせるのが苦手であるとか他人とのコミュニケーションが苦手であるとか言われるが、イベントでの振る舞いやその後のインタビューでの受け答えにはそういうことが感じられなかった。

市場価値がこれほどまでに高額で、しかも盗難点数がひとりでは運びきれないほどかもしれないとわかっている中で、どうして共犯者の存在を疑われなかったのか。
それは、単独犯と供述されていること、博物館としては、バラバラに分けられたり、タグが外れてしまった標本には価値がなく、それは修復不可能であるというあきらめから、これ以上犯罪を追及してもまったく意味がないと考えたことと、そもそも、299点の盗難ということが最後の棚卸が10年以上前であったということを鑑みると正確な数字ではないのではないかという疑いもあった。事実、この事件の後も他の博物館で盗難事件が起きているので299点というのは過去、別の誰かに盗難されたものが含まれているのかもしれないのだ。

これらから分かることは、博物館はこういった鳥の仮剥製を鍵のかからないキャビネットの保管しているほど貴重なものという認識がない一方で、一部の人たちだけ、たとえばフライマニアにとっては垂涎の的であるのみであるという落差である。この落差がこの事件を引き起こしたといっても言い過ぎではないのではないだろうか。
もっとも、学術的な価値を考えると未来に残していかねばならないものであるというのは間違いがないのであるが・・。
そして、ネットでつながる趣味の世界の広大さと閉鎖性である。

共犯者の存在について、著者は、そうかもしれない二人の人物にたどり着くが、ひとりは無関係のように思え、ひとりはすでに他界していた。
著者の調査資料の大部分はネットを通して得た1次情報であったが、その閉鎖性が大きな壁になった。おそらくだが、リストだけでなく、盗品であったり密猟によるものであったりという羽根が普通に出回っている世界で、これからも違法なものであっても手に入れたいという欲望が外部からのアクセスを遮断する。
そしてそういった人たちが簡単に繋がれるというのがネットの世界であり、それが新たな犯罪を呼ぶ。

この本は、
『ヒトは美しいものを見ることへの欲望を抑えられない
 そして、それを所有せずにはいられない』
という、パプアニューギニアの元首相の言葉から始まる。そして、その欲望をネットの世界はいとも簡単に叶えてくれ、違法な行動もうやむやにすることができる。この犯罪は、そんな世界が生み出したものであると著者は言いたいのである。
そして、そういう世界はフライタイイングの世界だけではなくいくらでも存在するのだと著者は言いたかったのかもしれない。

著者は明確に示唆はしていないが、犯人のエドウィン・リストも、ほとぼりを覚ましたころ、どこかに隠していた羽根を取り出し再びフライタイイングを始めるのかもしれないし、それをお金に換えるのかもしれないと考えていたようだ。

同じような事件が今もニュース番組をにぎわしている。間違えて振り込まれた4630万円を10日間ほどでネットカジノで磨ってしまったという。
こういう人にも指南役がいて、仮想通貨などに監禁して刑期を終えてからネットの世界から掘りかえそうとしているようにしか見えない。
インターネットというのは、便利で不可欠なツールとなっているが、一方では欲望を限りなく増幅し、それを違法であろうがなかろうがそれを実現させてしまう世界であるということを僕も身近に感じているのである。

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「GARVY CAMP BOOKS キャンプ料理ぜんぶ 」読了

2022年05月15日 | 2022読書
ガルヴィ編集部/編 「GARVY CAMP BOOKS キャンプ料理ぜんぶ 」読了

一流のソロキャンパ-を目指したいと思っているので、時々はキャンプ関連の新刊が蔵書されていなかどうかということをチェックしているのだが、そんなときにこの本を見つけた。ヒロシのキャンプスタイルを教祖様を見るような目で観ているくらいなのでそんなに凝った料理を作るつもりもないのだが、元々料理は好きなので家で作る料理のヒントにもなるかもしれないと思って読み始めたが、まず、歳をとってくるとムック本を読むのがこんなに辛くなるのかと思うほど読みづらい。
というのは、写真があちこちに入れられていて、そのキャプションがあちこちに入っているのでどの順番に読んでいけばよいのかがわからなくなってくるのだ。加えて、悪いことに、自分のお金で買った本ならそれでも隅々まで読んで元は取らねばとおもうのだが、借りている本なのですぐにあきらめてしまうのである。
もうひとつ加えて、最初に感じていたとおり、この本はファミリーキャンプのように様々な装備を整えてかつ、家で下ごしらえをしてメンバーにふるまうというような料理を紹介しているのだから僕の志向とはまったく違ったものだ。僕の志向は、ひとり分の料理を焚き火の上で簡単に作るというものだ。極端にいうと、ヒロシがやっているように、買ってきたものを焚き火でただ温めるだけでいいのである。まあ、そんなものだとそもそも本にはならないので期待していた自分が甘かった。それではと、家で作る料理のヒントになるものはないかと視点を変えて読んでみるのだが、そうなってくると今度はレシピがワイルドすぎる。肉の塊だとか手に入りにくいスパイスだとか、そこまでして料理を作りたくはないのである。
結局、万人受けする内容なので、「おお!これは目からウロコだ。」というようなトピックもなく、これでは、多分読んでも絶対に魚が釣れないだろうと思う初心者が読む「海釣り入門」と大して違わないではないかという結論に達した。
そして、最も悪いことに、誤字脱字と、この表現は日本語としておかしいのではないかというところに気付いてしまうと、もう全体が信用できなくなってくる。
僕は3か所見つけたのだが、こんな感じだ。
『なるべくOOするのが・・』に続くのは「ベスト」ではなく、「ベター」なのではないだろうか。「ベスト」と書きたいのであれば、「なるべく」ではなく、「絶対」だと思うがどうだろうか。



『種取11』の「11」はあきらかに「り」だろう。多分、「り」という平仮名は縦の線が2本という構造だからそれがなぜだか「11」になってしまったということだろう。これくらいは校正の段階で見つけてほしい。



これはあきらかに誤字だ。普通に本を読んでいてもごくたまに出てくるような誤字だが、こういうハウツー本や、科学本などで見つけてしまうと書かれている内容の全部がウソなんじゃないだろうかと思ってしまうである。



あまり性格のよい読み方ではないと思うが、こういう性格なので仕方がない・・。
完全に悪口だらけの感想になってしまった。

悪口ついでだが、キャンプ場の使用料にも悪口を言いたい。これから先はまったくひとりよがりの悪口でしかないと思うのだが、どのキャンプ場を調べてみてもやたらと値段が高い。
もちろん、それなりに設備を整えるために投資をして、安全管理のために人を配置してとなると、そこそこの値段設定にしておかないと投資回収ができないし、利益が出ないというのはわかるけれども、僕の勝手な感覚では、ソロキャンプくらいのスペースを借りるくらいなら一泊1000円(税別)くらいのものだろうと思うのだが、大概の場所はこれの3倍以上の価格設定になっている。
コゴミを採りに行った時に見たキャンプ場だと、車で行って税込み5200円。これだと、湯快リゾートか大江戸温泉物語に泊まって温泉入ってバイキングを食べてた方がよほど快適じゃないかと思うのである。僕はヒロシと同じスタイルで昼過ぎに現地に着いて、テントを張って焚き火して食事作って寝て帰りたいだけなのである。それで5200円はありえない。



生石山の上のキャンプ場はけっこうリーズナブルな価格設定なのだが、焚き火が禁止という。これは残念ながら論外だ。森林法、刑法、民法の条項をホームページに記載しているくらいだからかなり本気で焚き火したいやつを締め出そうとしているのだろう。



多分、日本全国、どの場所もそうなのかもしれないが、キャンプ場以外でのキャンプは禁止されているようだ。法律にひっかかるのかどうかは知らないが、どの川に行っても河原の所々にそんな看板が立っている。
河原の一角にテントを張って小さな焚き火をするくらい、どういった不都合があるのだろうか。それがわからない。地元におカネを落とさない輩はすべて排除だという考えは生石山の管理人や加太の帝国軍とまったく同じ思考に違いない。
なんとも世知辛い世の中である。

僕にとっての最後の希望は僕の義母の実家だ。義母は和歌山の清水町出身なのだが、すでに人は住んでいないらしい。年に1回くらい、僕の奥さん宛に清水町から相続に関する確認の書面が届くのだ。奥さんの妹のところにも届くらしく、町としては相続人が決まらなければ固定資産税も取れないし土地を開発しようにも地権者に了解も取れないということだろう。奥さんの記憶ではけっこう山奥らしくちょっとしたポツンと一軒家みたいな所だったらしい。母屋と畑があったということだから、畑を少しだけ手入れしたらプライベートキャンプ場を作れるのではないかと狙っている。何なら僕が相続してあげようと思っているのである。固定資産税も払ってあげよう。
コゴミを採りに行くのも清水町だからついでに探してこようと思って奥さんにその場所を聞いてみたのだが、そういうことが絶対に嫌いな奥さんはその場所を明かそうとしない。
次に郵便が来た時には誰よりも先にこの手に収めて住所を調べてみようと思うのである。
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「なぜあの人のジョークは面白いのか?:進化論で読み解くユーモアの科学」読了

2022年05月13日 | 2022読書
ジョナサン シルバータウン/著 水谷 順/訳 「なぜあの人のジョークは面白いのか?:進化論で読み解くユーモアの科学」読了

本当に最近は笑うことがなくなった。特に生活の大半を過ごしている会社ではそういうことがなくなった。特に誰に話しかけるでもなく、話しかけられるでもなく、やらなければならない少しの仕事をこなして定時に帰るだけだ。もっとも、「ヒロシのぼっちキャンプ」を聖書のように何度も観返している僕にとってはその方が快適であったりするのでもある。特に、ちょっとあそこがおかしいのではないかと思う女帝に絡まれるくらいなら誰にも話しかけられない方がましなのである。一応これでも、事務処理は早い方というか、周りはまったくパソコンを使えなくて、アナログな事務処理の仕方しかできないのでそれに比べればエクセルとワードの機能をそれなりに使って事務仕事をすると、やらされている仕事は比較的早く始末することができる。空いた時間、フリーWi-Fiの環境が整った事務所で個人のパソコンを使ってネットニュースを眺めていてもサボっていることに対して何の痕跡も残らない。これは窓際天国というべきかもしれない。
しかしながら、笑いと精神衛生というのは連動しているし、多少は他人を笑わせるスキルがあれば周りを和やかにもできるのかと思い、こんなタイトルの本を探してみた。
タイトルを見る限り、面白いジョークにはどんなカラクリがあるのか、裏を返せば、こうしたら面白いジョークが言えるのかというハウツー本に近い本なのかと思っていたがまったくそうではなかった。確かに、サブタイトルを見てみると、「進化論で読み解く・・」という言葉がはいっているとおり、笑いというのは人類の進化の中でどんな役割をしてきたかというような内容であった。そして、期待していた、どうしたら面白いジョークが言えるのかという部分については、これは文化の違いが如実に表れているのが原因だろうが、たくさん記載されているジョークのほとんどがその面白さをまったく理解できない。だから、途中でそっち方面にはまったく期待してはいけないのだということがよくわかってきたけれども、この本に書かれている、相手を笑わせることが人類の進化にどうかかわったかという見解はそれよりももっと面白かった。

この本の著者は、以前読んだ、「美味しい進化: 食べ物と人類はどう進化してきたか」の著者でもあるけれども、この本に書かれていた「家畜化症候群」という現象はついこの前、NHKの番組で取り上げられていた。けっこう話題性のあるものを紹介している研究者なので今回の視点も面白かった。

まず、笑いはどうして引き起こされるのかというところからこの本はスタートしている。それは、「不調和の解消」であるという。桂枝雀師匠は、笑いとは、「緊張の緩和」とおっしゃっていたけれども、同じようなことを言っているのだろうか。なんだか違和感のあるストーリー展開が、最後の一節で納得するというのは落語のオチと同じような気がする。
解剖学的には、その不調和を検知するのは大脳皮質の中側頭回と右内側前頭回というところらしい。不調和を解消するのは、左前頭回と左下頭頂小葉いうところであり、不調和の解消によって引き起こされる愉快な感覚を処理しているのは、扁桃核を含む皮質下部の中にある4つの領域だそうだ。もう、脳の中全体で笑いを作り出しているような感じである。

ここでひとつ、自分でもあまりこだわりもなくお笑い番組を見ていたことに気がついたのだが、ギャグとジョークというのは思えばまったく異なるものであると考えついた。当たり前といえば当たり前のことだがじっくり考えたことはなかった。ギャグはお決まりの言葉を唐突に叫ぶことによって笑いを誘う。これも、ギャグによって、「この人、何を突然言い始めるの?」という緊張が言い終わった後に緩和されるということによって緩和されるのだろう。同じギャグに慣れてくると、「何を突然」という緊張がなくなり面白くなくなるのだろうと想像する。対して、ジョークというのは読み進めたり聞いているうちに違和感が募ってきて最後のオチで「なるほど、そういうことだったのか。」という解消が来るので、少し時間がかかる。ギャグの突然と、違和感が募ってくるまでの時間というその時間の差が慣れてきて面白くなくなるかどうかという違いが出てくるのかもしれない。ジョークの典型のひとつが落語なのだと思うが、何度聞いても面白いものは面白い。そういう意味で落語には古典と呼ばれるものが存在するという理由なのかもしれない。

では、人はどうして笑う必要があったのか。
チンパンジーも笑うが、その笑い方とヒトが思わず自然に笑った声を遅いスピードで再生した声はとてもよく似ているので見分けがつかないそうだ。対して、ヒトが意図的に出した笑い声を遅いスピードで再生した声は誰でもヒトの声と識別できるそうである。それは、意図的に発せられた笑い声を聞いてその人が誰なのかということが簡単に答えられるが、自然な笑い声を聞いた場合はその人が誰であるのかということを識別するのはかなり難しいということに繋がっている。
要は、笑いは社会的なものであるということである。
霊長類はしょっちゅう毛づくろいをしあうことで長い年月にわたって関係を維持する。しかし、それでは時間がかかりすぎて集団を50個体より大きくできない。その結果、発声による毛づくろいともいえる笑いが生まれた。言語が進化するまではそれが人同士を結び付けていたというのだ。また、笑い合うと脳内麻薬のエンドルフィンが分泌され幸福感をもたらすことで相手への思い入れを強めさせる。
そして、その笑いの起源というのは子供の遊戯発声というものにあるという。これは、相手に「異常なし」と伝えるためのシグナルであったという。笑いが伝染しやすいのは、遊んでいる仲間全員が、自分には危害を加える意図はないということを知らせ合う必要があるからであり、そののちにユーモアが笑いの引き金として新たに付け加えられ、もともとの遊戯発声が持っていた、楽しさ、安全性、自発性、伝染性という特徴が引き継がれた。それは、笑いは危険でないときの不調和の時にしか引き起こされないということからもわかる。

そして、著者が考える笑いの目的というのがもっとも興味深い。それは、他個体よりも自分の遺伝子を少しでも多く残すという本能がそうさせるのだというのである。その説とはこうである。

動物全般、パートナーを選ぶ権利を多大に有しているのはメス(女性)のほうである。人間の場合、女性の立場から考えてみると、自分の子供が知性的であってほしいと願うのは当然である。ユーモアを理解したり、うまいジョークを言おうとすれば知性が必要である。知性とウイットには相関があるのである。だから女性はウイットに富んだ男性を優先して選ぶ傾向にあるというのだ。これは、クジャクのオスは立派な羽根を持っているほどメスにモテるということと一緒なのである。知性のアピールの手段としてユーモアが生まれたのであるというのが著者の見解なのである。これが面白い。
確かに、お笑い芸人の奥さんが超有名女優というのはまったく珍しいことではない。また、自らもよく笑う芸人さんはきっとエンドルフィンの分泌も多く、他人に対するいたわりの気持ちも普通の人よりも大きいから余計に女性の気を引くことができるのだろう。
最近、めっきり笑わなくなった僕はまったく逆の方に進んでいるような気がするのである・・。

しかし、一方では、コメディアンは普通の人よりも短命であるというデータもあるそうだ。ある意味、人を笑わせることが自分のアイデンティティだと思う気持ちは、それができなくなった時の恐怖をよけいに高めてしまうのかもしれない。エンドルフィンは脳内麻薬といわれるくらいだから禁断症状も強いのだろうか。
ダチョウ俱楽部の上島竜兵が亡くなったというニュースがこの本を読んでいる最中に流れていた。この人もそういった人のひとりであったのかもしれないと思うと悲しい。
これは不謹慎な見解かもしれないが、トップではなく、中堅くらいの位置のトリオだったからお気楽にやっていて、お約束のギャグは限界効用逓減の法則を超越してまった安定感があったからそんなに知性を発揮しなくても余裕で芸能界を戦っていると思ったから特に驚いたのである。
そんなに悩むくらいなら不愛想な窓際でいるほうが人生は楽なのではないかとこのニュースを見ながら思ったのである。

僕は遺伝子の生存競争にはまず勝利できないだろうというのがこの本を読んだ結果、出てきた結論である・・。

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「絶対に面白い化学入門  世界史は化学でできている」読了

2022年05月09日 | 2022読書
左巻健男 「絶対に面白い化学入門  世界史は化学でできている」読了

「世界史は化学でできている」というタイトルだが、普段はそんなことを考えることはないのだが、なるほどその通りだと思う。人はモノの中で暮らしていると言っても過言ではない。そして当然ながらそれらは物質でできている。そしてそれらは自然界に存在する資源に化学変化をおこさせて純粋なものにしたり新たな機能なり特性なりを加えて作りされているものだ。世界史ができる前に生活そのものが化学でできている。
また、大きな歴史の転換点にはそういったモノが関わってきたというのも確かなことだ。新たな素材や、薬、兵器、そういったものの登場で歴史のパラダイムが変わってしまうのである。
この本に取り上げられている話題はおそらく高校生が習う化学くらいのレベルのものであるが、それを歴史に変化を与えたものという視点で並べられているというのが新鮮である。

化学というのは、特に物質の「性質」と「構造」と「化学反応」の三つを研究している学問だそうだ。こういった定義を高校時代にしっかり教えてもらいたかった。こういう定義はすべての学科にあるはずなのだが、そういった元の元について先生が教えてくれたという記憶がない。もっとも、きっちり教えてもらっていても右から左へ流れてしまっていたのかもしれないが・・。哲学についても、「存在」を論じているのだということを知るといままでわけのわからなかったものがなんだか、ここを見ればいいのだということがすこしずつわかってきた。学校で勉強するものもそういった指針をしっかり教えるべきではないのだろうかと思うのである。

化学と人間の関りの始まりは「火」を使うことからであると著者は考えている。『火は「燃焼」という化学反応にともなう激しい現象である。原始の人類は、山火事などに、他の動物と同様に「おそれ」を抱いて近づくことはなかったのだろう。しかし、私たちの祖先は「おそれ」を乗り越えた・・。』と冒頭に書いている。
その後、哲学者たちが物質とは何か、そしてそれを形作っているものはなにかという元素の概念を作り出した。
それと同時に、経験的には酸化した鉱石を還元することで純粋な金属を作り出すことができることを知り、石器から青銅の時代が始まり、さらに鉄の時代へと発展する。それぞれは大きな時代の転換点になっている。
そういった見方をしてゆくと、ひとつは、武器として何が使われたかということで歴史が変わっていく姿を見ることができるのではないかと思う。もうひとつは医薬品の進歩がもたらした歴史の変化だ。人を殺すことと人を生かすことという両極端なものであるが、このふたつが大きく歴史を作ってきたといえないだろうか。

様々な科学の発見から武器はどんどん進化してきた。化学が作り出した最初の武器は青銅製の武器だろう。それから鉄の武器。さらに火薬が生まれ、毒ガス、原子爆弾と殺傷力がどんどん強まり、最新の武器を手にしたものが歴史を作ってきたといっても過言ではないのではないか。

医薬品はどうだろう。薬というのは最初は植物の葉っぱや根などをそのまま使うものだったが、その中の成分を抽出する方法を見つけ、さらにその成分を人工的に合成できるようになったことで多くの人たちの寿命が延びた。これも大きな歴史の転換であっただろう。また、公衆衛生の面では消毒薬や殺菌剤などの開発が感染症を防ぎ、同じ技術は食料の増産にも貢献していく。これは知らなかったことだが、医薬品メーカーの源流というのは染料メーカーだったそうだ。ある種の染料は特定の細胞を染めるということが分かってくると、その性質を利用して薬効成分を特定の細胞に作用させるということが考え出されてきたそうだ。今でも残っているバイエルンという製薬会社ももとは染料メーカーであったそうだ。
近代の日本文学でもよく出てくる、アスピリンという鎮痛剤を開発したのはこの会社なのである。
医薬品は光だけでなく陰も作り出す。様々な麻薬はいちおう医薬品だが、世界の裏側で戦争を引き起こすきっかけやその資金源になってきたし、消毒薬や殺菌剤は人々に多大な副作用をもたらしたというのも歴史のひとつだろう。

著者はこれからの世界は環境をどう維持、改善してゆくかということ考えねばならないと書いている。冷媒に使われていたフロンはオゾン層を破壊するが代替物として開発されているものはオゾン層を破壊しなくても強力な温室効果をもたらすそうだ。廃棄されたプラスチックは紫外線などの影響でマイクロプラスチック化し生物に悪影響を及ぼす。自然分解するプラスチックはまだ、価格の問題や耐久性の問題を抱えている。
それらを解決してゆくのが未来の化学者の使命であると言っている。僕が大学に入る頃、化学というのはほぼすべて解明しつくされてしまった分野だから面白くないなどと言われていたが、そんなことはまったくないようである。これから先も解決しなければならない課題はたくさん残っているらしい。

話は最初に戻るが、人類は火を使うことから化学をはじめた。様々な害を引き起こしながらも豊かで便利になったけれども、核兵器という世界を滅ぼすことができる火を持ってしまったということは火を使うことを知ったものはその火によってその終末を迎えるのだと暗示しているようにも思えるのである。


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「科学で大切なことは本と映画で学んだ」読了

2022年05月03日 | 2022読書
辺政隆 「科学で大切なことは本と映画で学んだ」読了

「人生で大切なことはOOで学んだ」というタイトルの本はよく見るのでその手の本なのかと思いながら読み始めたが、「科学で大切なこと」というよりも、科学を題材にした書籍や映画をとり上げて解説を加えているというものだった。
著者は、いろいろの大学の客員教授という肩書に加えて、サイエンスライターという肩書も持っていて、そちらの部分の領域で書かれている。

僕自身も自然科学の分野には興味があるので専門書を読むことはできないが、一般向けの書籍はよく読んでいる。科学者自身が書いている書籍もあれば、サイエンスライターという職業の人たちが書いたものもあった。
どちらがどうということはないけれども、サイエンスライターが書いた本のほうが読みやすいとは思うが、ちょっと奇をてらいすぎているんじゃないかとか、そこまで読者は無知じゃないよと思ったりすることもあった。しかし、著者が書いている通り、自然界の不思議を共感させてくれるのは詩人の仕事だが、知的好奇心を満たしてもらうにはサイエンスライターの仲介が必要である。科学も文化なのだということだ。こういった人たちが様々なメディアを通して、人々の暮らしと科学の関りを身近なものにしてくれているのだろう。きっと、NHKや民放の科学番組などにもこういった人たちが関わっているのに違いない。

この本には僕が興味をそそりそうな本と映画がたくさん紹介されている。ノンフィクションはもとより、小説もあれば、映画も科学者が主人公ではなくて脇役だったりするものもある。原作がある映画は両方とも読んで観ているのは当然のようだ。よくぞこれだけの資料を読んでかつ観たものだと思う。プロというのはここまでやるのだということだろうか。
また、おそらくこれは著者の技量なのだろうが、それらの本や映画の中身を、あらすじ全部をさらけ出してはいないけれども興味を持たせる程度にうまくチラ見せしている。そこは浜村淳の映画解説とはちょっと違うのである。
著者は僕より10歳ほど年上の人であるが、ちょっと枯れた文体も安心して読める。
興味のある本はメモしたので、当分は図書館に行って何を借りようかと悩む必要がなさそうである。
惜しむらくは、これは著者の専門分野というところもあるのだろうが、紹介されている本や映画は、生物学や進化論についてのものにほぼ限定されてしまっている。物理学や天文学についてのものは皆無であった。もう少し幅の広い分野で紹介をしてもらいたいところだ。
加えて、2021年の出版にもかかわらず、紹介されている書籍が2010年代の前半までに出版されたものがほとんどであり、ちょっと古いものが並んでいるということだ。科学の進歩は日進月歩だ。最新の科学情報にも触れられるような書籍の紹介もしてほしかったところだ。もちろん、過去からの歴史をつなげて科学を理解するべきだという考えもあるのだろうが、本を読める時間は限られているので、安直に最新のものだけつまみたいと思うのは邪道だろうか・・。

著者は、ダーウィンの「種の起源」の発表というものが科学の世界にもたらしたものの重要性というものをこの本を通して強調しているように思う。
「種の起源」が出版されたのは1859年だったそうだが、その少し前、サイエンティストという言葉が科学者を意味する単語として提唱された。それまでは「自然哲学者」とか「科学の人(マン・オブ・サイエンス)」などと呼ばれていた研究者を、アートに従事する人はアーティストなのだから、科学に従事する人はサイエンティストと呼ぼうと提唱されたそうだ。職業的科学者が出始めていたという時代背景もあった
ただし、当時の科学者の使命は、自然の法則を発見することで神の叡智を知ることにあった。そもそもケンブリッジ大学やオックスフォード大学の教授連は、英国国教会の聖職者でもあったのだから、神の存在を疑うことなど問題外だったのである。
そんな時代に「種の起源」は出版され、そうした伝統に激震を与えたのだ。
それまではキリスト教的な思想がヨーロッパを支配していたから、「万物は神が創りたもうた。」と考えることが常識であった。そこに革命的な考えを持ち込んだのが進化論であった。それ以降、科学は形而上の神の存在を否定し、唯物的な考えに移行してゆくのである。しかも、この「種の起源」という著作は引用文献もない一般向けに書かれたものであったということが、サイエンスライターとしての著者にとっても重要であったのかもしれない。一般向けの書物であっても世界の常識を覆すことができるのであるという自負と使命をそこに感じているのではないだろうか。

遺伝子組み換え食品、再生医療、放射能、ウイルス・・、科学にまつわる様々なものが身近になってきている現代でこそ、サイエンスコミュニケーションを担うこういった人たちが重要度を増してきているのではないだろうか。驚くべき話だが、アメリカでは今でも人口の半分は宗教上の理由から神がすべてを創造したと考えているそうだ。そんな中でも正しい知識を伝え、資源と技術を有効に使って生きていかなければならないのが現代であるのだろう。科学者というのはそういうことまではなかなか手が回らないし、ステレオタイプ的に見しまっているのかもしれないが科学者というのはコミュニケーションができない人が多そうだ。
人気アナウンサーがこういった仕事を目指して大学の研究員になったということがニュースになっていたが、この人なんかは相当先見の明があるのだろうと思う。
まったくの余談だが、ダーウィンとリンカーンは生まれた日が同じだそうだ。(1809年2月12日)そういったこともサイエンスライターの人々が見つけてくれないとなかなかわからない蘊蓄だ。

僕も、まったく人生の役にも他人の役にも立たないだろうが、いくらかは情報リテラシーを持つべくこれからもこの手の本は読み続けていきたいと思うのだ。

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「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」読了

2022年05月02日 | 2022読書
岡本裕一朗 「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」読了

こういうタイトルの本、たとえば、「3分でわかる・・」とか「サルでもわかる・・」いう本を読んでも、そのものについて本当に理解できるものなどはないというのはもちろんわかっているのだが、つい安直に読み始めてしまう。
この本もそういう手の本だが、まだ、”ざっと学べる”程度だと書いているだけ親切だとも思う。
それでも何か哲学について知るための取っ掛かりが欲しかったのである。
哲学というのは、おそらく、すべての思考の原点なのではないかと僕は思っている。実際、科学も宗教も文学もすべては哲学から生まれた思考や理論構造が発展していったものと言われている。特に、ギリシャ時代の哲学者たちは科学者でもあったりした人が多い。
と、いうことは、人類の思考のビッグバンの元となったのが哲学であると言えるのではないだろうか。そう思うと、少しでもそれに近づいてみたいと思うようになったのだ。
また、量子力学の本などを読んでいると、今度は科学と哲学の境目があいまいになってきているのではないかと思えるようなところがある。これはきっと思考のビッグバンが再び収束し、思考のビッグクランチを迎える前兆ではないのだろうかと思ったりし、よけいに哲学について知りたくなってきたのである。

そう思いながら入門書のそのまた入門書のようなこの本を読み始めたのだが、やっぱりさっぱりわからない。ところが、中盤を越えて、近代の哲学者が登場するころになり、その辺りで紹介されている哲学者のひとり、ハイデッカーのページに、『アリストテレス以来、哲学が問い続けたものは、「存在」である。』と書かれていた。これで、はたと合点がいった。哲学の思考というのは、自分たちはどうしてここに存在しているのかという疑問をひたすら考えてきたことなのではないだろうかということだ。そしてその先には、これからどこに向かうのだろうかという疑問が続くのだろうが、それはまさしく人間が知恵を身につけて以来知りたいと思ってきた核心だったのである。まあ、普通の人ならそんなこととうの昔に知っているということになるのだが、無知というのは悲しいのである。
だから、この世界や宇宙の存在を思考した哲学者たちは天文学や物理学などの礎となり、人間の存在を思考した哲学者たちは医学や宗教、政治学、文学の礎となっていったのではないだろうかと思えるようになった。そして、存在そのものの定義と真理を追い求めて続けているのが哲学者ということなのだろう。
もっとも、自分の存在にしか思考が行かない人達はただのナルシストになりさがり、存在自体に興味がない人達はそもそも哲学には興味を抱かなかったのは今も昔も変わりはないはずだが・・・。
そういうフレームでこの本を読んでいくと、少しは哲学についてわかるような気もしながら、やはりそんなに簡単ではない。
幾多の哲学者が「存在」について語ってきたのであるが、本の中に書かれている、その、「存在」について解釈されていると思われる個所を列挙してみたのだが、まったく何を書いているのかがわからない・・。
ソクラテスは「無知の知」を知ることが自らの存在を知ることであり、
セネカは「人生は短いのではなく、時間をどう使うかが重要だ。」と言い、
フランシス・ベーコンは「知は力なり」と言う。
ルネ・デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言い、
ブレーズ・パスカルは「考える葦」だと言う。この二人の言葉は有名で、「存在」という言葉をキーワードにして読み直してみると、なるほどと思えなくもない。
ジョン・ロックは、経験が人間の存在を創り上げてゆくという「経験論」を唱え、
デイヴィッド・ヒュームは「理性は情念に支配されている」とした。
イマヌエル・カントは「認識は経験とともに始まる」としながらもすべての認識が経験から生じるわけではない」とも考え、「合理論」というものを作り出した。
ゲオルク・ヘーゲルは「人間の個人的な意識よりも、いっそう大きな理性や精神の概念」を強調した。
セーレン・キルケゴールはわけがわからん。『人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし自己であるとは何であるか。自己であるとは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。人間は、有限性と無限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との統合、要するにひとつの総合である。総合というのは、ふたつのものの関係である。このように考えたのでは、人間は、まだ自己ではない。』これこそ、THE哲学という文章だ。何を言っているのかがさっぱりわからない。そもそも、文法的にこの日本語は正しいのだろうか・・。
アンリ・ベルクソンは「物質(身体)と記憶(心)」は別々の存在であるという二元論を唱え、
マルティン・ハイデッガーはそれらすべての存在の統一理論を打ち立てようとした。しかし、それは成し遂げられることなく亡くなってしまう。
その後に続いた哲学者たちも存在を考える。ハイデッガーは世界と個人の存在の関係に言及した。これは存在を定義するうえで大きな転換点になったらしい。
ジャン=ポール・サルトルは「即自存在、対自存在、対他存在」という概念から人間存在の細密な分析をおこない、
ハンナ・アーレントは人間の条件というものを設定し、それは「労働、仕事、活動」というふうにその重心が移ってきたとした。
モーリス・メルロー=ポンティは受動的な生きられた世界(世界内存在)よりも存在が重要という。(肉の存在論)
チャールズ・テイラーは人間が「社会的動物」であり、人間にふさわしい能力は社会の中でしか開花できないと考える。
ベルナール・スティグレールは、生まれつき欠損動物である人間にとって。「技術」は必要不可欠であると考える。
クァンタン・メイヤスーは、人間以上の絶対的な存在を数学や科学が理解するものの中に問いかける。
マルクス・ガブリエルは、自然科学的宇宙だけでなく、心に固有の世界(心の世界)も存在すると考える。


まあ、短絡的な脳みそで総合してみると、存在というものは思考することで生まれてくるものであるということを言っているような気がする。思考しなければ現実(実体)は存在していないことになる・・。どこかで聞いたことのように思うのは、東洋哲学の粋である仏教にも同じような考えがあるからだろうか。また、量子論でも、観察しないかぎりは対象物は雲のように不確かな存在であるという。
地域が違っても同じような結論に到達するというのは、人間の根本の思想の中にそういった考えがあるからなのだろうか。不思議な気もする。

科学が発達し、人間の意識のメカニズム、宇宙が生まれる前はどんな世界がここにあったのかなど、そういった、おそらく過去から現在までの哲学者たちが知りたいと思っていたことが現実に解き明かされようとしている。また、人のありようもデジタルの時代を迎えて今までとはまったく違う認識を与えようとしている。
哲学の中では、これまでも様々な「存在」に対する考え方が生まれては端のほうに追いやられということを繰り返してきたそうだが、ここに来てまた大きなパラダイムシフトが始まるのかもしれない。この本の最後の方に出てくる、クァンタン・メイヤスーという人はデジタル時代の哲学者だとも言われているそうだから、あたらしい時代の哲学というものが生まれつつあるのかもしれない。

まったくオタク的な見方だが、アニメのプロットには、哲学的な考えがたくさん取り入れられてきたように思う。例えば、ニーチェが書いている「超人」というのは機動戦士ガンダムに出てくるニュータイプという人たちそのものではないかと思えてくるのである。ニーチェの考えでは、「人間」とは「動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱」に過ぎないそうだ。人類が宇宙に暮らす時代が本当に来るのかどうかは知らないが、コミュニケーションの幅が広がり、とんでもなく大量の情報に簡単にアクセスできる世界になり、人類の革新というものが起こってしまうかもしれない。また、攻殻機動隊というアニメでは、デカルトの二元論そのままの世界が舞台だ。西洋哲学ではないが、エヴァンゲリオンの世界も、吉本隆明の「共同幻想」がベースになっているのではないかと思えるところがある。きっと、原作者たちがこういった哲学に通じていてそれをプロットに取り込んでいったのかもしれないだからこそ時代を超えても色あせず人気を呼び、時代ごとにその解釈が更新されていくのだと思う。
そうなってくると、哲学というものはやはり教養のひとつとしてはいくらかでも理解をしておかねばならないものではあるのだなとも思えてくるのである。


最後に、これから先、哲学に関する本をどれだけの数を読むのかわからないが、これから哲学の一端を知り形作るコラーゲンになるかもしれないので各哲学者とその人に関するキーワードを書き残しておこうと思う。

ソクラテス:「無知の知」
プラトン:「イデア」
アリストテレス:「形而上学」
セネカ:「ストア派」
ピエール・アベラール:「唯名論」
トマス・アクイナス:「スコラ哲学」
ミシェル・ド・モンテーニュ:「懐疑論」
ルネ・デカルト:「近代主観主義」「方法的懐疑論」「二元論」
ブレーズ・パスカル:「人間=死刑囚論」
バールーフ・デ・スピノザ:「一元論」
イマヌエル・カント:「認識論におけるコペルニクス的転回」
ジェレミ・ベンサム:「功利主義」
ゲオルク・ヘーゲル:「ドイツ観念論」の完成者
アルトゥール・ショーペンハウエル:「ペシミズム」
J・S・ミル:「満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方が良い。」「自由論」
セーレン・キルケゴール:「実存主義」「死に至る病」
フリードリヒ・ニーチェ:「超人」
エトムント・フッサール:「エポケー」「現象学」
アンリ・ベルクソン:「エラン・ヴィータル」
マルティン・ハイデッガー:「世界内存在」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン:「写像理論」
ジャン=ポール・サルトル:「実存主義とマルクス主義の統合=弁証法的理性批判」
ハンナ・アーレント:「人間の条件」
ミシェル・フーコー:「構造主義」「大いなる閉じ込め」
ジャック・デリダ:「脱構造」
ユルゲン・ハーバーマス:「コミュニケーション的理性」
リチャード・ローティ:「対プラグマティズム」「言語論的転回」
チャールズ・テイラー:「個人のアイデンティティは社会的承認による」「近代的アイデンティティ」
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート:「帝国とマルチチュード」
ベアード・キャリコット:「エコファシズム」「再構築主義のポストモダニズム」
ペーター・スローターダイク:「シニカルな理性」
スラヴォイ・ジジェク:「現実界」
ベルナール・スティグレール:「メディオロジー」「技術なくして人間なし」
クァンタン・メイヤスー:「思弁的実在論」
マルクス・ガブリエル:「新実在論」「世界は存在しない=世界以外のものはすべて存在する」
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「脳の意識 機械の意識 ― 脳神経科学の挑戦」読了

2022年04月28日 | 2022読書
渡辺正峰 「脳の意識 機械の意識 ― 脳神経科学の挑戦」読了

この本は、前回読んだ、「無と意識の人類史」に紹介されていた本だ。

まえがきは、『もし、人間の意識を機会に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していたとしたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうにない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体をもっていた頃の遠い記憶に思いを馳せることはあるのだろうか。』という言葉で始まる。

僕自身が自分の意識を機械に移植したいと思っているかどうかというのは後にして、僕が好んで読んでいる種類の本の中には「意識」という言葉がよく出てくる。しかしながら、厳密にその意味というものは実は知らないでいる。一般的に「意識」というと、怪我をした人の意識があるかないか、そんなところで使われる言葉なのだから、何かを問いかけてとき返事を返せるかどうかというのが意識なのだろうかとか、クラッチのない車に乗っていながら、時々、唐突に左足を踏み込んでしまうというのは無意識の行動なのだろうけれども、この、「無意識」というのは「意識」の一部だったりするのだろうかとか、そんなことが堂々巡りしている。

この本では、そんな「意識」の本質はどこにあるのか、そしてその意識を機械に置き換えることはできるのだろうかというようなことについて、著者の研究課程とともに書かれている。
意識の本質はどこにあるのか、結論を先に書いておくと、それは未だにわからないそうである。その理由がどこにあるのかということもこの本には書かれている。もちろん、そういったことを知りたいとも思うけれども、知ってしまったら知ってしまったでなんだか恐ろしいことが起こりそうで、知らなくていいことは知らないでおくほうがいいのではないかとも思ったりする。

まずは「意識」の定義であるが、この本では、「感覚意識体験(クオリア)」というものが意識の本質であるとしている。
クオリアとはどういったものかというと、目や耳などの感覚器官を通して入ってきた信号を加工する行為である。意識を持った生物は入ってきた信号をありのままに受け入れているわけではない。ありのままの信号というのは、視覚でいうとそれは単に”見えている”というだけで、自分なりにそれに加工を加えることで”見ている”ということになる。典型的な例がそこにあるはずのない四角形が見えるというような錯視だ。これは目を通して入ってきた映像と自分の過去の経験を統合することで見えてしまうものなのである。



著者はクオリアの中でも視覚効果のクオリアから意識の本質に迫ろうとしている。だから、この本に出てくる意識の例は全部視覚に基づく意識を取り扱っている。様々な実験をしながらその結果を基に意識の存在する場所、そしてそれが何でできているかということを探ろうとするのだが、その実験の意味するところは文科系の凡人にはまったくわからない。
おぼろげにわかることというと、外部から入ってくる情報に左右されずに何かを考えている脳の部分を見つけることができれば、そこが意識の存在する部分であるという。
なんだかやっぱりわからないが、そういう部分のことをNCC(Neural correlates of consciousness:固有の感覚意識体験を所持させるのに十分な最小限の神経活動と神経メカニズム)というらしい。
視覚効果でいうと、目が何かを見たとする。その情報は神経の中を通る電気信号としていくつかの視覚野を通り抜けてそのものが何であるかということを認識するのだが、先に書いた、錯覚も含めてそのものを認識している部分だけが意識を認識している部分だというのである。
著者はその例えをアニメのAKIRAに例えている。1970年生まれと僕よりはるかに若い科学者は例えるものの対象も若い。その後にはマトリックスやトランセンデンスといった映画の一場面なども例えに使っている。このアニメに出てくるAKIRAは脳みそだけの存在なのだが、外部からの刺激がなくても脳だけで思考と想像ができるとなっている。それこそがNCCであり、意識の存在する場所であるとしている。
こういった存在は、映像で作られた画像であっても実体がある映像であっても同じ経路で入力されれば区別がつかなくなるだろうと想像されている。まさしく心のコアの部分といえるのかもしれない。
著者はこれを総じて、「我思う、ゆえに我あり。」という言葉でくくっている。

こういうことを前提に、ネズミやラット、サルを使って脳の中で外部からの信号に影響されずに視覚をつかさどっているのはどこなのかということを探しているというのが著者の研究らしい。
しかし、脳の中の信号のやりとりをしているシナプスというのは、数千億カ所にものぼるそうだ。そんなに大量にあるものから、ここからここまでが「意識」です。なんてとうてい見つけることはできないのではないかと思うのだが、いつの日か人間はそんな核心を見つけることになるのであろうか・・。
現在、著者の実験を通して考えられる結論は、「意識と無意識が、脳の広範囲にわたって共存していて、意識と無意識の境界は、脳の低次側と高次側を分割するような形で存在するのではなく、それぞれの部位の中に複雑なインターフェース(界面)を織り成しながら存在している。」可能性が高いという。
もう、何を書いているのかさっぱりわからないのである・・。

次に意識は機械に移植できるかという問いかけについてだ。DNAの二重らせんを発見した科学者のひとりである、フランシス・クリックは後に「意識」に関する研究を始めたそうだが、「あなたはニューロンの塊にすぎない。」という言葉を残している。これは、人の意識というものは、生体でできた電気回路の中に生じただけのものなのだから、そのメカニズムを解明することはできるはずだと言いたかったのだろうが、著者はそこにふたつの意味を見る。ひとつは「我」のおおもとは所詮こんなものにすぎないというそのままの意味であり、もうひとつは、所詮こんなものにすぎないニューロンの塊が「我」を生じさせているという畏怖の念である。

もし、超高性能なコンピューターが存在していて、人間の脳細胞の代わりをすることができるとして、意識を移植する実験がおこなわれたとする。その実験が成功して、そこに意識が移植されたかどうかということをどうやって確認するかだが、こんな方法が考えられているらしい。
脳の中の意識をつかさどっている部位の細胞を少しずつコンピューターに置き換えていき、それでも当の本人の意識に変わりがなかったらその部分は機械に置き換わったとみなすことができるというのである。それをどんどん繰り返していけばいつのまにか自分の意識は機械の中に移動している・・というのである。オカルトだ・・。

そして、機械には意識はあるのかという疑問に対してもこんな実験が提案されている。
脳というのは、右半球と左半球に分かれており、右と左で独立した意識を持っているとされている。その独立した意識が脳梁を介してひとつに統合されているらしい。
そこで、「人工意識の機械・脳半球接続テスト」というものが考えられた。これは、片方の半球を機械に置き換えることができたとして、その状態で意識が成立しているとしたら機械にも意識があるとみなされるというものだ。これもかなりオカルトチックである。
この、生物以外にも意識はあるのかという疑問については、「情報の二層理論」という考え方があるそうだ。もう、科学の域を超えて哲学の域に達しているような感もあるが、意識は情報であるというひとつの定義を決めた時、それに則って考えると、すべての情報は、客観的側面と主観的側面の二面を持っているという。この、「主観的側面」から見てみると、月の裏側に転がっている石ころさえも意識を持っているということになるという。これは、たとえば、サーモスタットという機械があるが、温度の変化によって端子が曲がったりまっすぐになったりしてスイッチのオン、オフするという動きは、外部からの情報によって自らの動きを主観的に変化させているのだからそれは意識とみなされるというのである。
客観的に見ると、ただ、温度の変化によって金属が曲がったり伸びたりしているだけのようにしか見えないのだが・・。
これは、大分昔に読んだ、「ブラインド・ウオッチメーカー」に書かれていた、生物を生物たらしめている最大の特徴である自己複製は生物だけのものではなく、塩が同じ立方体の結晶を作り続けるように、無機物でも同じことをやっているのだという考えに似ている。
もう、生物と無生物の境目がどんどん無くなってきているようだ。
一方で、意識とは情報ではなくてアルゴリズムであるという考えもある。情報はただの情報であって、それを加工して認識するプログラム=アルゴリズムこそが意識なのであるという。
こうやって様々な考えがあるということは、未だ意識というものがなんであるのかということはまったくわかっていないということを如実に語っている。

その解決策として著者は、意識の存在についての自然則を発見しなければならないという。自然則とは、宇宙のどこにあっても不変な法則のことをいう。例えば、光速は秒速30キロメートルであるとか、E = mc2の方程式であるとか、そういった物理学の根幹となるものだが、意識についても、人類が誕生してから出現したものではないはずなのだから宇宙共通の自然則が必ず存在するはずだというのである。物理法則と心は別物だとも思うが、もしそうなら、どこかにいるかもしれない宇宙人とも意思疎通が可能であるということを言っているのだろうかとなんだか夢を感じる。しかし、そんな自然則が存在すると、その辺に転がっている石ころが持っている意識とも通じ合えることになるのだから、火打ち金でコンコンやってたら、「こら!痛いじゃないか!」と怒鳴られそうにも思うから、やっぱりそんなものは存在しないのじゃないかと凡人は思ってしまうのである。はたして、真実はどちらなのだろうか・・。

最終章は意識の機械への移植が本当にできるかどうかという内容だ。
どんな手法が考えられるか。著者の考えた手順はこんな感じだ。これはもちろん、脳のニューロンを再現できるほどの高性能なスーパーコンピューターがあったと仮定して話は進められてゆく。
まずは、脳のニューロンとコンピューターを電極でつないでその活動を記録する。しかし、そのニューロンだが、先に書いたとおり、人間の脳の中には数千億個もあるというので至難の業だ。極端に細い電極を顕微鏡を使って繋いでゆく必要がある。
また、記憶はコピーできるのかという問題もある。もしそれができたとしても、その実験の志願者が50歳だったとして、50年生きてきた人の記憶を短時間でコピーできるのかという疑問もある。少なくとも、映画のように体の外からモニターして意識なり記憶なりを移植するというような単純な行為では絶対に無理らしい。
加えて、個人的に思うことなのだが、機械はおそらく、忘れていた記憶を唐突に思い出したり、逆に、「あ~、カムカムエブリバディの前に放送していた連ドラのタイトルがまったく思い出せない・・。」とか会社ですれ違った人の顔は覚えているけれども名前がまったく出てこないなどというようなことにはいくらなんでもならないだろう。そうなれば、やっぱり機械の中に再現された僕の意識は僕の意識には似ているが僕よりもはるかに高精度な意識と言えることになり、そんなことになったら本来の僕の意識はものすごい嫉妬に狂ってしまうだろう。だから、最初の疑問、僕は機械に意識を移植したいと思っているかどうかというと、嫉妬に狂いたくはないから僕はそういう誘いに対しては絶対にお断りをするというのが結論なのである。

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「美味しい進化: 食べ物と人類はどう進化してきたか」読了

2022年04月21日 | 2022読書
ジョナサン・シルバータウン/著 熊井ひろ美/訳 「美味しい進化: 食べ物と人類はどう進化してきたか」読了

タイトルと本の中身を読んでいると科学ライターの著作なのかと思ったが著者は進化生物者だそうだ。プロローグにも書かれていたが、生物の進化についての本というのは山ほどあるのでちょっと切り口を変えて書いてみたというのだが、確かに面白い切り口だ。食材がたどってきた道と人類がたどってきた道をごっちゃに書いているというような部分もあってわかりにくいところもあるけれども、人間が食べるものを確保するために自らが食材に合わせて進化してきたこと、もしくは、食材を進化させてきたことなどが書かれている。

目次を追っていくと、人類が火を使い始めたきっかけ。何を食べながらアフリカから南米まで移動したか。栽培農業のはじまり。味覚、嗅覚、動物の家畜化。栽培植物の進化。糖、発酵食品としてチーズと酒。狩りと社会形成。未来に向かう食べ物の進化。
こんなことが書かれている。

人類によるアフリカから南米までのグレートジャーニーは海岸線を伝いながら成し遂げられたわけであるが、その時の人類の主食は貝であった。そのルートのいたる所に貝塚があることでわかるらしい。だから、内陸を目指した人類は途中で途絶えることになり、狩猟や栽培農業が発展するまでは人類は内陸へ進出することはできなかった。
この旅は氷河期の終わりころ、海面がまだ低かったころにおこなわれたわけであるが、その頃の地球には貝がふんだんにあったと考えられている。今は海に行っても一番獲るのが難しいのが貝なのかもしれないし、そもそも漁業権で縛られてしまっているから獲っているところを捕まると犯罪者になってしまうのだから5万年前の人たちはある意味、環境のよい世界を生きていたのだとも思うのである。
そして、この旅に出発した人たちというのはアフリカの角と言われる地域からアラビア半島に移動したほんのわずかな数の人たちで、残りの人たちのほとんどは砂漠化が進むアフリカ大陸の中で死んでしまい、ほんの少しの人たちが南アフリカなどに逃げ延びたということだが、このことによって、現代の世界中の人類は遺伝的多様性が乏しいものになったそうだ。リスクを冒して一歩踏み出した人たちが命を永らえた結果が現代である。

グレートジャーニーからさかのぼること150万年。人類が初めて火を使ったというのがこの頃だ。火を使えるのは人間だけだということで、ホモ・サピエンスが火を使った最初で最後の人類だと思われがちだけれども、その祖先、ホモ・エレクトスが火を使った痕跡を残している。果たして彼らは火を熾すことができたのか、それとも偶然に山火事などのもらい火を持ってきただけなのかというのはよくわかっていないらしいが、少なくともその火を使って食材を焼いて食べたということは確からしく、相当古い時代から人類は火を使った調理をしていたのだ。
僕が自分で火を熾して食材を始めて焼いたのはついこの前・・。僕は150万年遅れていることになる。

当時は狩猟採集生活が基本だったのだが、人口が増えるにつれ獲物が足らなくなってくる。これはNHKの受け売りだが、人類が移動した先では必ずそこにいた大型動物たちが絶滅してきたそうだ。元々、食べられる以上に獲ってしまうというのが人間が持っている基本的な性質らしい。それをこの番組では浪費型人類と表現していた。
当初は大型動物ばかりを獲っていた人類も新石器時代に入り、農耕栽培が始まる直前ではウサギやネズミなどの小さな獲物も獲らざるおえなくなってきた。
そこで必然的に始まったのが農耕や牧畜の生活である。その歴史はどちらも意外と浅く、今から約1万年前だったそうだ。一番最初に栽培された植物はエンマーコムギという麦だったということがわかっている。エンマーコムギはその前から食べられてはいたが、それは野生のものであり、栽培されたものではなかった。確実に食料を得られる栽培農業が浸透しなかったというのは、野生の麦でも大量に収穫することができ、それで事欠かなかったからだそうだ。
じゃあ、どんなきっかけで麦を栽培するようになったのかというと、人口問題ということもあるけれども、一説では、ビールを作るためであったのではないかとも言われているそうだ。

そうやって野生の植物や動物を栽培種の野菜として、また、家畜として食料の安定的な確保に乗り出してきた人類だが、その過程で様々な能力も身につけてきた。
食材を味わう味覚や嗅覚、それまで消化できなかったものを消化する能力である。ただ、味覚や嗅覚というのは一部退化した部分があるという。味覚は5種類、嗅覚は400種類の味と匂いしか識別できず、他の動物にも劣っている。それでも約1兆種類という風味を識別できるのは、レトロネイザルという口の中から鼻にかけて匂い成分が移動するという経路のおかげだ。加えて人間の発達した脳細胞が5つの味、400の匂いの強弱を加味してありとあらゆる風味を識別する。

新たに獲得した消化能力のひとつはミルクに含まれている乳糖だ。乳糖を消化する能力をもっているのは赤ちゃんのころだけで、大きくなるにつれてその能力は失われる。そもそも、どうして消化しにくい乳糖がミルクの主成分かというと、たとえば、人間でも簡単に消化できるブドウ糖が主成分だとありとあらゆる雑菌に汚染されることになるので赤ちゃんの死亡率が高くなり、それを分泌する母親の身体も雑菌に汚染されてしまう。それを防ぐためにわざわざ汚染されにくい乳糖を主成分とし、母乳を摂取する期間だけそれを消化する能力を身につけていたというのだが、酪農が始まり、大人たちもそれを食料として使うようになったとき、ラクターゼという乳糖を消化できる酵素を離乳後も持ち続けることができる突然変異(ラクターゼ活性持続症)が現れた。それが約7500年前だと言われている。
ヨーロッパ人の90%はそのラクターゼ活性持続症を持っているが、酪農が始まったといわれる南西アジアではそういう人はもっと少ない、それはどうしてかというと、同じころ南西アジアではヨーグルトやチーズを作る技術が生まれていて、人為的に乳糖を分離できるようになり、ミルクをじかに飲む必要がなかったからというのが進化の不思議である。
もうひとつはアルコールだ。アルコール発酵の起源は1億5000年から1億2500万年前と言われている。アルコール発酵は酵母菌が糖をエタノールに変換する反応だが、これはライバルの細菌が糖を消化するのを妨げるものだ。このちょっと腐った実を食べるために人類は類人猿のころからこのアルコールに対する耐性を持っていたという。これだけ古くから持っている能力なら、人類が生きていくうえで必須の能力だったと思うのだが、現代では特にアジア人の中では酒が飲めない人というのが多い。これは低アルコール濃度でアセトアルデヒドに分解してしまうため気分が悪くなるからだというが、どうしてアジア人だけがそういう風に退化してしまったかというのは今でもわからないらしい。

植物の風味にはどんな目的があるのかというと、それは外敵から自分の身を守るというためである。キャベツ、ブロッコリー、ラディッシュ、クレソン、ルッコラ、ワサビ、ホースラディッシュ、これらすべてはアブラナ科の植物だが、共通するのはグルコシノレートというカラシ油のもとになる成分を持っているということだ。カラシ油は昆虫や細菌にとっては有害だが、ほ乳類では腫瘍抑制効果があるとされている。しかしその進化は9000万年~8500万年前に起こったことでありそれから1000万年の月日が流れた後からはモンシロチョウたちも解毒能力を備えて今に至っているので叔父さんの畑では年中モンシロチョウが飛んでいる。叔母さんはいつも捕虫網を振り回して駆除しているが、それを見るたびに、きっと無駄じゃないかと思うのである・・。その畑で確かに思うのは、アブラナ科の野菜というのはやたらと種類が多い。
ハーブ類も同じく、自分の身を守るために様々な香りの成分を出し人間はそれを楽しんでいる。しかし、それは植物には相当な負担となる。たとえばトウガラシはカプサイシンを作らなければもっと種を生産できるようになるそうだ。そんな生存競争の結果を人間は利用してきたことになる。

家畜はというと、これも変化が現れている。家畜化症候群というものがあって、外見では巻き上がった尻尾、ぶち模様、たれ耳、鼻が小さい、脳が小さい、などがそうなのだが、同時に、おとなしくて従順であるという特徴も同時に現れる。体の特徴と性格が従順だというのは一見関連性がないとも思えるのだが、胚の段階で現れる神経堤という部分に、これらの形質のほとんどを決定づけるものがあり、それは人間が飼育しやすい性格の家畜を選別してきた結果なのだそうである。

こうして人間たちの食卓には多彩な食材がいっぱい並ぶようになった。そして、その結果、進化は社会の領域に踏み込んでゆく。
食料を増産し、保存するというのは、利他行動という、飢餓に備えるという人間の知恵なのだろうが、別の理由もある。それは地位欲である。
北米太平洋岸北西地区には「ポトラッチ」という習慣があり、これは相手に豪華な贈り物をすることによって相手よりも高い地位にあることを誇示するというような習慣なのだが、こういったものは途切れることがない。贈り物への返礼としてもっと高価な、もっとたくさんのということが繰り返される。空腹は満たされればそれを制御する調節回路が働くけれども、人間の地位に対する関心にはそれがなく、エスカレートするばかりである。
それは、旧石器時代の狩りの収穫がどのように分配されるかに対する注目から始まったのだと著者は考えている。たくさんのモノを持つことができればたくさんの贈り物もできる。確かに、この時代、NHKテレビが言うように、大型哺乳類が狩りつくされ、いく種類もの動物が絶滅している。
そして、人間の白目が拍車をかけることになる。白目があることによって相手がどこを見ているかが分かるようになった。目は、進化によって、見るだけでなく、見ていることが外から分かるように設計されている。私たちは目を使って、ほかの人を見ているという合図を出しているのである。実験的な証拠に基づけば、社会的な駆け引きが存在するとき、相手を見つめていれば嘘をつかれずに済むからというのである。

突き詰めると、人間社会の様々な矛盾はその地位欲を満たすためにもたらされ、それは人類の進化の結果なのである。
自らの進化が自らを滅ぼしかねないというリスクを抱えながら人類は進化してゆくしかないのかもしれない。

火を熾して料理を作ろうと思い立ったのは去年からだし、地位欲はあまりなさそうだし、そこだけ見ていると僕は人類の進化から取り残された人類なのかもしれないと思ってしまう。唯一進化してしまった部分は酒にそれほど強くないということと、牛乳を飲んでもお腹を壊さないということだけである。
そんなところは別に進化してほしくはなかったのであるが・・。
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