イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「酒から教わった大切なこと  本・映画・音楽・旅・食をめぐるいい話」読了

2022年07月30日 | 2022読書
東理夫 「酒から教わった大切なこと  本・映画・音楽・旅・食をめぐるいい話」読了

読みたい本がない時は図書館の自然科学と日本文学と食文化の書架を行ったり来たりしながら面白そうなタイトルの本を探す。この本は日本文学の書架に入っていた本なのだが、僕が選ぶと大体どの書架でも結局、食や酒に関する本になってしまう。

だから著者のことはまったく知らなかった。奥付を読んでみると、1941年生まれで作家で音楽家だそうだ。
もう少しネットで調べてみると、両親は日系カナダ人二世で、1960年代フォークソングブームの火付け役で、自著のフォークギターの教則本はベストセラーになったというような人らしい。僕の友人にはギターの名人がいるが、彼もこの人の教則本を読んだりしていたのだろうか。
作家としては音楽関係よりも食に関するものが多いようで、この本もその中の1冊だ。

副タイトルのとおり、酒と本、音楽、落語など様々な文化を絡めた短いエッセイを集めている。
こういう本を読むたびに思うのは、もちろん、1冊の本を書きあげる人なら当たり前なのかもしれないが、その博覧強記には驚かされる。そして、この年代の作家の文章は安心ができるというか、僕にとっては読みやすいように思う。それに加えて、ダンディズムというか粋というか、そういう臭いがプンプンと漂ってくるのがうれしい。ひと世代かふた世代上の人というのは憧れをもって見ることができるのだ。これが同世代になってくると、自分の知性の無さにたじたじとするばかりになってしまうのだが・・。

本にまつわる話については63冊の本が登場するが、山口瞳、荻昌弘の著書が複数回出てくる。両名とも酒と食に関しては一流の見識を持つ人でかつ、著者よりも少しだけ世代が上ということでおそらく僕が著者を見るような少しばかりの憧れを持って見ていた人達であったのだろう。
文体はというと、バリバリのダンディズムを押し付けてくるような硬さはなく、もう少し柔らかい印象だ。僕としてはもっとガリガリ来るような文体のほうがよかったのではないかと思ったりしているが、まあ、これも著者の優しさというところなのだろう。


「男としての生き方」という言葉がところどころに出てくるのだが、一人前の男であるというのは、バーと立ち飲み屋とそば屋に堂々と入れるというのがその必要条件であると思っているのだが、未だそれができないでいる。そば屋などは意外と入りやすそうだが、そこで日本酒を注文するとなるとけっこうハードルが高い。バーはもちろん、立ち飲み屋も和歌山駅の周辺に行けば何軒かあるが、なかなか入る勇気が湧かない。
それに加えて、長いこと外で酒を飲むようなことをしていないが、多分、今、外で酒を飲んだらすぐに歩けなくなると思う。普段でも家から駅に向かう途中に目眩を起こすので、本来なら8分で駅まで行けるところを4分の余裕を見て家を出るのだが、それも途中で一服する必要があればギリギリに家を出ていては間に合わないからなのだ。酒を飲んでしまったらてきめんにぐるぐる回ってしまうだろう。
到着した駅でも、階段を上って改札口までの距離が危険だ。必ずといっていいほどここでも目眩をおこす。途中で立ち止まるのはみっともないので惰性で動いてゆくのだが、最近は特にそれがひどく、数日前には完全に目の前が真っ暗になってしまった。死ぬという現象はこういう状態がずっと続くことなのだろうなと思った次第だ。
特にワインを飲んだ翌日は要注意だ。同じ醸造酒でも、日本酒の方が症状は軽いように思っている。目の前が真っ暗になった日の前の晩は300円の白ワインを飲んでいた。安すぎるワインというのも原因だろうか・・・。
これが休日だとまったく症状が出ない。午前2時半に起きて釣具をバイクに積んで海に出るようなハードな動きでもまったくそんな症状には見舞われない。もちろん、海の上でそんなことが起こってしまうと生死にかかわるから人体の危機回避能力というものが備わっているのかもしれないが、それよりも、「またくだらない1日が始まるのか。」という落胆がその原因かもしれない。

だから、自分の命を守るためにも家の外でお酒を飲むという行為はやめておいた方がよいというのが結論だ。家でチビチビ飲んでいるのが関の山だ。と、いうことは、永遠に半人前からは抜け出せないということなのだろう。

最後の章では、父親との酒の思い出を語っている。気恥ずかしさや照れや何やらで、父親とは酒を飲んだことがない著者ではあったが、初めての酒は父親の部屋に置いてあったスコッチウイスキーを盗み飲みしたものであった。父親が亡くなって後、部屋の整理をしていたとき、当時と同じ銘柄のウイスキーが出てきた。父親はずっと同じ銘柄を愛飲していたようで、それをラッパ飲みしたとき、これが自分の中でのウイスキーのひとつのスタンダードであったのだということに気付く。僕の父親は奈良漬を食べただけで気分が悪くなるような人だったからそんな思い出はない。
僕も息子と酒を飲もうなどという気はさらさらないのだが、僕が死んでからも残っているであろうお酒はドラッグストアで処分品として3割引きのシールが貼られた紙パックの日本酒ばかりである。
それについては息子には申し訳ないと思うのである。美味しい酒は自分で買うのだろう。

師について、こんな感想が書かれていた。
『開高健は男にとって、それも心の奥にまだ少年時代を捨てきれないものにとって、長いこと憧れの大人だった。・・・・少年がそうありたいと思う大人の典型だった・・・。』
僕もそういうことを求めてこの本のページをめくっていたのだが、著者も同じような思いを求めてこれらの文章を書いてきたようだ。だからこの人の文章には好感を持てたのだということが最後になって判明したのである。


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「ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所」読了

2022年07月26日 | 2022読書
チャールズ・レアード・カリア/著 北澤 和彦/訳 「ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所」読了

著者は作家なのであるが、ふと思い立ち、子供の頃に好きだった星の観測を再び始めようと考えた。そして、30年の時を経てのその思い付きは自宅の裏庭に天体観測所を建設しようという大掛かりな夢となった。
父親は金型職人であったが著者自身はまったく工作には不向きな性格で、ましてや屋根が開閉するような建物を建設するという知識は少しも持ち合わせていないのだが、義兄や友人の手助けにより完成させる1年間のストーリーだ。この本の中身としてはおそらくこの本を書く大きなきっかけとなっている観測所の建築についての顛末はごくわずかで、季節ごとの星空に関するストーリーや世界の天文学の歴史など、ちょっとだけ星の世界に興味がある僕のような人間にはまことに優しい内容になっている。
そして、「裏庭の天文家」というフレーズが気に入った。

僕もブログによく星の話を書いている。といっても、今朝の夜明け前の空には明るい星があって・・。というような簡単なものだが、本当のところは、あそこには何という名前の星座があって、そこにはこんな神話が語り継がれていて、そのなかの一番明るい星の名前はなんとかで、そこからどちらのほうにどれだけ進むとこんな名前の星があって・・。というようなことを思いながら夜空を眺めたいのだが、そこのところは普通では考えられないほどの記憶力しか持たない僕は全天の星座の名前など覚えることがはなからできないのだ。
ただ、こういった本を読むと、その時だけ知ったふうを装えるので星の話を読むことだけは好きなのである。
夜明け前の空というのはおそらく季節をふた月くらい先取りしている。素人でもわかるオリオン座は冬の星座だが、9月の半ばには見え始める。目立つ三つ星から南の方にはスバルが見えて、さらに南に行くとアンドロメダ星雲を見ることができるそうだ。
今年はそれくらいから改めて初めてみようと思うのだ。

この本に書かれているもうひとつの大きな柱は、趣味についてである。星を見る世界も奥深い。アマチュアといえども天文学上大きな発見につながる実績を残す人たちもいる。そのためには凝った装備が必要だ。望遠鏡の口径もそうだが、読んでもわからない様々な装備が必要になる。というか、欲しくなる。あとは経済的にどこまで許されるかという部分だけだ。
こういったところは魚釣りの世界も同じことで、どれだけお金をかけられるかである程度の釣果が得られるかということが決まってくる。しかし、それだけではなく、運が左右する部分もかなり大きい。お金を腕や知識でカバーできる場合もある。
新しい星を見つけるのも運次第ということがあるのだろうからそこがアマチュアの趣味の面白いところである。
そしてその究極のひとつが、裏庭の天文家にとっては観測所であり、釣り人であれば自分の船を持つことなのかもしれない。
お金のある人はドーム型で雨漏りのしない観測所を建設するし、運転席が複数あるような高速クルーザーを買う。僕の船などは古いし遅いしショボいしその世界で言えば下の下と言わざるを得ないけれども、まだ持つことができるだけ幸せといえば幸せなのかもしれない。
それを著者は「愛」であるというのだが、僕みたいに何に対しても奥深くまで追及できないタイプの人間はふつうならどれだけ釣りが好きでも船を買おうという発想すらおこらなかったであろう。そこまでの「愛」を表現しようにもできないのである。
もちろん、オカネの部分でも当然考えられない。たまたま、祖父の代から船があったということだけが「愛」の代替物であった。それだけで楽しい思いを今もさせてもらっている。もちろん、悔しい思いをすることの方が多いのであるが・・。そういう意味では本当に幸運だったのだと思う。
もし、魚釣りが僕のそばになかったとしたら、僕は一体どんな人生を生きていくことになったのだろうかと想像するだけで身の毛がよだってしまうのだ。仕事に打ち込むこともできず、何の楽しみもなく朽ち果ていったに違いない。
だから、窓際にスッキリ納まってしまったことをいいことに、会社は給料をいただくところと割り切ってひたすら魚釣りのことだけを考えて残りのサラリーマン人生を過ごそうと考えているのである。
これも「愛」である・・。
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「レヴィ=ストロース 構造 (講談社学術文庫)」読了

2022年07月20日 | 2022読書
渡辺公三 「レヴィ=ストロース 構造 (講談社学術文庫)」読了

レヴィ=ストロースという人については名前だけは知っていた。アマゾン(ネットショップではない方の)という単語で検索するとこの人の著作である「悲しき熱帯」という本がヒットする。僕はアマゾンの釣りであったり生態であったりを目当てに検索をしているのであまり興味がなかったが、この人が書いた、「野生の思考」という本がほんの少しだけ話題になっていた。
「シン・ウルトラマン」という映画の中に、変身する前の主人公がこの本を読んでいるシーンがあるというのだ。この映画は庵野秀明がプロデュースをしたというので話題になったが、「エヴァンゲリオン」はかなり哲学的な内容だと勘違いをしている僕は、きっと「シン・ウルトラマン」にも何か哲学的なテーゼが埋め込まれており、「野生の思考」という本にも何かメッセージが込められているのではないかと一度読んでみたいと思った。しかし、いったいどんなことが書かれているのかがわからなくて、おそらく相当難解な本なのだろうから、その前にレヴィ=ストロースとはどんな人であったかとか、どんな思想を持っていた人かということを知った方がいいのではないかと思って調べているとこの本を見つけた。

この本を読み始める前にウイキペディアでレヴィ=ストロースという人を調べてみると、フランスの社会人類学者であり、「構造主義」という考えを唱えた人であるということがわかった。構造主義というと、哲学の中にも出てくる考えなのでこれは哲学を知ることのひとつにもなるかもしれないと早速読み始めたわけである。

レヴィ=ストロース南北アメリカの先住民族の社会構造を研究する中で、どの部族にも共通する普遍的な構造があるということを発見した。これは婚姻、親族、家族のありかたなどについての構造であるが、そこから、「人間社会は基本となる構造に支配されており、人が人の中で生きてゆく上では構造から抜け出すことはできない。」ということを見出した。これが構造主義と呼ばれるものである。

近代哲学の流れでは、実存主義→構造主義・ポスト構造主義→脱構築と変化してゆく。
それぞれを簡単に説明しておくと、
実存主義はサルトルが提唱した考え方であるが、「実存」の反対語である「本質」とは何かから始まる。本質とは、自分が「~である」ということを意味する。つまり、「男性である」とか「女性である」、「黒人である」、「ユダヤ人である」、「労働者である」、「学生である」というように、自分が社会のなかでどのように「見られているか」ということを表わす。
そのような本質は、「~である。」ということを社会から押し付けられ、自分たちから自由を奪おうとするものであると考えた。このような「本質」に対抗して、「何者でもないこの私」として提示されたのが「実存」なのである。自分自身の「自由」を直視することで、本質という役割からはみ出して生きること。これが実存主義なのである。
文学との関係で表すと、サルトルの実存主義では他人からどのように見られているかに、かなり重要なポイントがある。つまり、他人から見られた自分と、自分から見た自分のズレをとおして、新しい自分を作り出していくのである。代表的な作家としては、サルトルのほかに、カミュ、カフカ、安部公房、大江健三郎、開高健らがいる。確かに師は、1968年のパリの5月革命の際にサルトルと期待を持って会見しているので同じ志向を持っていたのだろうと思う。
この、5月革命の理論的支柱となったのは、実存主義とマルクス主義であるが、それに失敗し、挫折した人々が向かったのが構造主義とポスト構造主義であった。
現在の社会システムがあるのは、「構造」のためであるので、仕方がないと人々は考えたのである。
「脱構築」で有名な哲学者はジャック・デリタである。
それは、構造主義の言う「構造」を内部から破壊するための方法のことである。例えば、男性/女性という二項対立があり、男性のほうが社会の中で強い位置にあったとする。この二項対立を脱構築するためには、「男性」という概念そのものが「女性」なしでは成り立たないことを指摘すればよい。
あるシステムにおいて、排除されたり、抑圧されたりするものがあったとしても、その抑圧されるものなくしては、システムが成り立たないことを示すことで、システムを内部から自壊に追い込むという考えが脱構築なのである。
しかし、システムを破壊することが脱構築ではなく、それは、システムによって否定されたものを「肯定」する思想なのである。社会の中で抑圧されたものを肯定することで、あり得るかもしれない「もう一つの可能性」を提示すること、これが脱構築である。
それは、男性中心主義的な社会が抑圧した、男女平等の可能性を提示することでもあったのだ。

ここまでと庵野秀明の作品群とを比べてみると、実存主義というものはまさしく、「エヴァンゲリオン」の世界観と一致するように思える。「シン・ウルトラマン」に「野生の思考」という本を登場させたのは、おそらく実存主義(エヴァンゲリオン)の次にくる思想として近代哲学史をなぞっているのではないかと思えてくるのである。映画を観ていないので本当にそうなのかどうかはわからないが・・。宇宙の中でも人間の持っている欲望や葛藤は普遍のものであるとでも表現しているのだろうか。テレビで放送するのを待つしかない。
そこまで書いていると、じゃあ、「シン・ゴジラ」と「シン・仮面ライダー」はどんな位置付けなのだと問われそうだが、そこまではわからない。
「脱構築」などはおそらく世界中で作られているドラマや映画のプロットの根幹といってもよい考え方だと思うが、現代のジェンダー問題が解決してしまうと、世界中からドラマと映画が消えてしまうのではないかと思えてくる。

そんなことを予備知識としてこの本を読み始めた。

これだけ前置きをたくさん書いてきたというのは、本文を読んでみてもその内容がまったくわからなかったからなのである。
確かに、レヴィ=ストロースの膨大な著作をたかだか350ページほどのページで解説できるわけもなく、それをこれ1冊で知ったかぶりをしてやろうと思う方も厚かましいのである。
ということで、この本はレヴィ=ストロースの思想を理解するためのほんのアウトラインに過ぎないのである。

レヴィ=ストロースの主要な著作には、「親族の基本構造」「悲しき熱帯」「構造人類学」「野生の思考」「やきもち焼の土器づくり」「神話論理」というものがある。
この一連の著作を通して、レヴィ=ストロースは、人間の本質、もしくは人間が構成して作り上げている社会構造には、地球上どこに行っても共通の構造があるのではないかということを考えた。そして、構造主義を理解するためには「野生の思考」だけを読んでいても無理だと著者の渡辺公三は言う。

レヴィ=ストロースは、この研究を南北アメリカの原住民の社会構造の観察を通しておこなったのであるが、文明を手に入れ、一見、自然の世界と切り離されてしまった社会構造を作り上げてきたかに見える西洋社会ではあるが、自然を頼りに、自然と共に生きてきた時代の構造をきちんと残しているのだと結論づけるのである。効率を追求する近代の科学的な「飼いならされた思考」に対比して「野生の思考」と名付けたのだ。
その代表例としてトーテミズムを上げており、社会の基本構造である「親族関係」の大元としている。
この社会構造は、交換の体系でもあり、これは婚姻(お嫁さんとして女性を交換する)という行為も含めてであるが、こういった人間における他社とのコミュニケーションから生じる帰結としての社会構造を、人間が自然種、いいかえれば、自然の生命形態の多様性を手段として作り上げる思考の体系であり、トーテミズムという自然界の体系の中に置き直すというのが「野生の思考」なのである。たしかに、ものをもらったりひとにあげたりするという行為は人間関係のいちばんの取っ掛かりであるというのは理解ができる。

「野生の思考」の後、レヴィ=ストロースは南北アメリカの先住民族に伝わる神話の研究と分類によりさらに人間の社会に連綿と受け継がれている構造を見出そうとした。

・・・の、であるが、結局、その構造というものがさっぱりわからなかったのである。『構造とは要素と要素間の関係からなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて普遍の特性を維持する』ものとされているらしいが、この文章からして意味がわからないのである。なんとなく考えるのは、人は自然の摂理からは逃れられることができないのだから自然と共に生きなさいと言われているのかなということだが、それではあまりにも結論がベタすぎるのではないかと思うので、その真相はもっと深いところにあるのではないかとは思っている。

また、レヴィ=ストロースは実存主義のサルトルに対しては批判的な立場であったそうだ。自分は自分らしくという考えと、社会構造は太古から定められていて、ある意味、その運命からは逃れられないのだという考えは確かに相反するものだが、一方では、こうも言っている。『「野生の思考」といっているものは、「他者」を「わたしたちに」翻訳したりまたその逆をおこなうことができるようなあるコードを作りだすのに必要な前提や公理の体系であり・・・私の意図においては、彼らの位置に自分を置こうとする私と、私によって私の位置に置かれた彼らとの出会いの場であり、理解しようとする努力の結果なのです。』
共通の尺度を持つことで互いを認識し合うことができるのだということを言っているのだと思うが、これはまったく、「本質」という普遍の方向から「実存」という個性を見るという、サルトルとは限りなく同じ考えかたを示しているのではないかと思うのだ。「本質」を”対極”として置くのか、「本質」を“起点”として置くのか、その違いだけのように思える。決して個を没入させてしまうものではなく、構造の中に個を見出すことができるのだと言っているのだと思う。やはり個は尊重されるべきなのだとレヴィ=ストロースも考えていたのだと思いたい。

「シン・ウルトラマン」を観ることでそこのところが解明できるのだろうか・・。


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「マリアビートル」読了

2022年07月15日 | 2022読書
伊坂幸太郎 「マリアビートル」読了

この本は2010年に発刊された本なのでもう12年前のものということになる。なぜ今更こんな本を読もうと思ったのかというと、9月に、この本を原作として「ブレット・トレイン」というタイトルでハリウッド映画が上映されると知ったからだ。主演はブラッド・ピットだ。

さっそく借りようと図書館の蔵書を検索してみたら、書架ではなく、書庫に戻されている本にも関わらず貸し出し中になっていた。さすがに話題になる本は古くてもすぐに貸し出されてしまうらしい。ちなみに、僕の後にも予約を入れている人がいる。

借りてきた本は昔から相当な貸し出し回数があったようで、綴じの部分は歪んでいるし、ページによっては飲み物の汁が飛び散っているところもある。古本屋なら間違いなく100円均一のワゴンに放り込まれてしまうほど傷んでいる。当時からかなり人気がある小説だったのだろう。



ストーリーはというと、東北新幹線「はやて」が舞台となり、その中に偶然というか、必然というか、裏稼業の人たちが一緒に乗り込んだことから物語は動き出す。東京から森岡まで、2時間半のストーリーだ。

登場人物はざっとこんな感じだ。
七尾・・運の悪い殺し屋。真莉亜の指示で、あるスーツケースを奪うために乗車
麻莉亜・・七尾の仕事の仲介者
木村・・元裏稼業。腕はあまりよくない。息子が王子に大怪我をさせられ意識不明となる。その復讐のために乗車
王子・・生意気な中学生。どんな人でも恐怖と猜疑心を使って操れると考えている。自尊心を傷つけられた犯罪組織の親玉に復讐すべく乗車。自分では手を下せないので木村の息子の命を人質に取り、木村を操って成し遂げようと考えている。
槿(あさがお)・・押し屋。交差点や駅のホームでターゲットの背中を押すことで殺してしまう稼業。
「いい知らせと悪い知らせ」が口癖の男・・仕事の仲介業者。元裏稼業。
峰岸・・犯罪組織の親玉
檸檬と蜜柑・・峰岸からの依頼で拉致された峰岸の息子を助け出し、準備した身代金と共に峰岸の元に送り届けるために乗車。
スズメバチ・・峰岸を狙っている殺し屋。毒針で人を殺す。
狼・・かつてスズメバチに恩義を感じていた人物を殺され、復讐のために乗車。

ここまで書いてしまうとなんだかストーリーが読めてしまう雰囲気もあるが許していただきたい。
もちろん、最後のどんでん返しはやっぱり書かないでおこうと思うが、こういった一癖も二癖もありそうな登場人物が峰岸とスーツケースを巡ってやり取りをする物語なのである。七尾の不運が物語をどんどんややこしくしてゆく。一体誰が生き残れるのかというのも読みどころである。
もう、絶対にこんな偶然は起こりえないと思いながらも、次の展開はどうなっていくのだろうかと先を読まずにはいられないのである。
タランティーノやブルース・ウィリスの映画のように、登場人物たちの会話と行動がパズルのピースのように組み合わされ、伏線もいたる所に貼り廻られていてそれが最後に一気に回収されるという、きっと、アメリカ人はこういうストーリーが大好きなのだろうなと思えるような感じだった。

伊坂幸太郎の作品は10年以上前に1冊だけ読んでいた。まったく内容は忘れてしまったが、同じようなスピードと偶然のような必然が折り重なったようなストーリーだったのだと思う。売れる本は違う。


こいうったエンターテインメント性の高い作品に何かメッセージが込められているとは思わないが、王子の言葉や考え方は人を食っているというか、逃げられない監禁被害者の心理をよく描写している。学習性無力感というらしいが、尼崎の監禁事件というのはこの本が発行された後で起こったのだと思うが、まったくその予言のような内容だった。
そして、大人たちを試すように、「どうして人を殺してはいけないのか。」という質問を浴びせかける。各裏稼業の人たちも自分なりの答えを出すのだが、取って付けたように登場する塾の講師がこんな答えをする。『殺人をしたら、国家が困るんだよ。例えば、自分は明日、誰かに殺されるかもしれない、となったら、人間は経済活動に従事できない。そもそも、所有権を保護しなくては経済は成り立たないんだ。そうだろう?自分で買ったものが自分の物と保護されないんだったら、誰もお金を使わない。そもそも、お金だって、自分の物とは言えなくなってしまう。そして、『命』は自分の所有しているもっとも重要な物だ。』
著者は、ドストエフスキーに対して何か答えを提示したかったのだろうか。
それはわからないが、こういった問答さえもストーリーのギミックとして使われているのだから本当に巧妙な組み立てになっている。

どんな映画ができ上がるのかものすごく楽しみである。
しかし、木村の父親役が真田広之というのはどうもピンとこない。柄本明やダンカンのほうがぴったりくるように思う。
物語の締めにはこの父親が大きく関わってくるのでこの人の演技も見どころである。

タイトルの由来であるが、主役級ではない槿がテントウムシを眺めながら思ったことからきている。
テントウムシは英語ではレディバグ、レディビートルと呼ばれている。この“レディ”というのはマリア様のことを指す。マリア様の七つの悲しみを背負って飛んでいくのでレディビートルというのである。
テントウムシはこれより上に行けない、というところまで行くと、覚悟を決めるためなのか、動きを止めて一呼吸を空けた後、赤い外殻をパカリと開き、伸ばした翅を羽ばたかせて飛んでいく。見ているものは、その黒い斑点ほどの小ささであるが、自分の悲しみをその虫が持ち去ってくれた、と思うことができる。そして、それを思うと、自分の仕事は正反対だと感じるのである。
主役と思われる七尾はそこから名付けられ、相棒の真莉亜と合わせてタイトルと同じになるのであろうが、テントウムシとこの小説のストーリーにはどんな関連がるのかというのは僕にはわからなかった。しかしこれも、もっと深いところの伏線であったりするのだろうか・・。


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「Y字橋」読了

2022年07月06日 | 2022読書
佐藤洋二郎 「Y字橋」読了

図書館の新着図書の中に3冊ほど小説が並んでいて、その中でタイトルが気になった1冊を借りたものだ。著者がどういった作家なのかという予備知識もないまま読み始めた。

書名と同じタイトルの短編を含め、6編の短編を集めた短編集であった。
6作品に共通するのは、人生の玄冬の次期を迎えた主人公が、若い頃に出会った女性に偶然や相手からのきっかけによってふたたび出会うことで自分の人生を振り返るというものだ。
その女性たちはかつての恋人ではない。ただの幼なじみであったり、友人の恋人であったりという程度のひとだ。しかし、なぜか心の奥に澱のように居残り何かのきっかけでその人が浮かび上がってくるような人でもあった。
その人の言葉を一生の励みとしてここまでやってきた主人公もいる。友達以上恋人未満などという言葉はすでに死語となっているのだろうが、まさにそういう人だからこそ強烈な記憶ではないけれども老いを迎えてからの思い出に浮かび上がった時に自分の人生を顧みる軸になったりするのであろうか。
作家に対してうまいプロットを考えたものだというのは失礼極まりないが、これらの短編は作家の経験がふんだんに取り入れられた私小説であるということがわかってくる。
作家を目指すため仕事を捨て、売血をしながら糊口をしのぐシーンや、眠るためだけに一夜を共にした部屋でガス自殺に巻き込まれそうになるというエピソードは数回登場する。
ウイキペディアで調べてみたら、会計士になるために簿記学校に通っていたこと、大学の講師のアルバイトで生計をつないでいたことは事実だったそうだ。舞台となる土地も作家に関係する場所が取り上げられている。

そんなことを読みながら、はて、自分にはそんなひとはいただろうかと振り返ってみるのだが、どうも思い浮かばない。なんとも薄っぺらい人生を生きてきたものだ。そういえば一度だけ、その人は女の子を生んで京都の百貨店で働いていると人づてに聞いたことがあったが、その人からも一生の励みとなる言葉をもらった記憶はなかった。

主人公はおそらく70代前半。体もあちこち悪くなり体力も衰え、様々な悩みを抱えながらも今でも家族を守って立派に生きている。夫人に、「幸せか?」と聞くような場面が出てくるが、僕は恐ろしくてそんなことを聞くことができない。
著者はあとがきで、『人生は孤独を癒すためにあるのではないかと思う時がある。孤独とは淋しいということだが、家族や親しい友人がいても、突然、心に孤独のさざ波が走る。それはわたしたちが複雑な喜怒哀楽の感情を持ち、そのことに翻弄されて生きているからだが、その感情は命があるかぎり消え去ることはない。泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、荒波に浮き沈みするようにして日々を生きるが、幸福と感じることは少ない。』と書いている。僕は幸せかどうかを聞くどころか、ふと、この人は他人なのにどうしてここにいるのだろうと思うことがある。本当にこの人を心から信頼しているのだろうか。身内?家族?というのはいったいどんな存在なのかときおりわからなくなる。これが孤独のさざ波というのなら確かにさざ波だ。もっとも、相手は相手で、何でこいつの生活費で暮らさなきゃならないんだ。それもたったこれだけで・・。こんなはずではなかっと常に思っているのでないだろうかとも思う。そうなれば子供に期待するしかないというのももっともだ。
『たとえそう感じたとしても、一過性のもので、そこから人生が反転することもある。その苦労や懊悩を生きる手ごたえと思い、人生を全うするしかないはずだ。』と続くのだが、そうまでして全うしなければならないほど貴重な人生でもないのだが・・。と思うしかない。

適当に選んだ本にしてはかなり重い感想を得てしまったのである。

そのほか、時々、これはと思う一言半句が出てくる。少し書き留めておく。
『いい人生はいい人間に出会うことではないか。その人物の言葉を受け入れて、私たちは生きていく。言葉が人生の道をつくるのかもしれない。嫌だと思う人間の言葉は弾くが、好感を抱いた人の言葉は心に響く。あの人の言葉が道をつくってくれたのだ。』
『いい?美しいものを見るには、どうしたら一番いいか、わかる?・・・じゃ、嫌なものを見るには? ・・・ 目を閉じると美しいものや、きれいなものを思い浮かべることができるでしょ?反対に目をしっかりと開けて見ると、みにくいことや嫌なことを見てしまうわ。』
『妻がヘッドライトを上げると、二つの光の帯が遠くまで届き、広々とした田圃を映し出した。人生もこの光を頼りに生きていく。運転する右の光が妻の光。助手席のわたしは左の光だ。本当はこの光と同じように交わることがないのに、交わった振りをしていきているのではないか。・・・』
『彼の心の底に、どんな過去が沈殿しているかわからなかったが、日々の生活に追われていたあの頃が、妙に懐かしい。心がいつもひりひりしているような焦燥感があったが、そんな感覚こそが生きる希望になっていたのではないか。』

あと10年で僕の人生は反転してくれるのだろうか・・。
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「戦争は女の顔をしていない」 読了

2022年07月03日 | 2022読書
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/著 三浦みどり/訳 「戦争は女の顔をしていない」 読了

この本は、「同志少女よ、敵を撃て」を書いた作家が参考文献のひとつとして挙げていた本だ。
ノーベル文学賞受賞作家が、ロシアでは大祖国戦争と言われる第二次世界大戦での独ソ戦に従軍した女性たちにインタビューした記録である。
確かに、この小説に出てくるエピソードと同じような内容の話がところどころに出てくる。

僕のスットコでヘッポコなブログの感想文に載せるなどということが間違いなくはばかられる本である。簡単に”死ぬ”と書いてしまえるが、その人にとってはその時点で自分が生きてきたことすべてが突然途切れてしまうということを意味する。戦争においては全く自分の責任ではなく他人の都合によってだ。それはあまりにも重すぎることではないかといつも思うのである。

この戦争ではソ連側からは200万人を超える女性が戦争に参加していたそうだ。それは後方支援というようなものだけではなく、前線に立ち、銃を持って戦ったという。
ある人は狙撃兵として、ある人は砲兵隊員として、または斥候部隊、パルチザンとして。それらの指揮官として従軍したひともいた。もちろん、医師や看護婦としても。
そういう経験をした人たちが、当時はどんな思いで参戦し、そして今はそれをどんな思いで回想しているのか、そういったものを、インタビューしたひとりひとりについて短い文章にまとめてつなげられている。

「女の顔をしていない」というタイトルについてであるが、著者はたくさんの取材ののち、自分が戦争について本を書くにあたりこう書いている。
『戦争についての本がまたもうひとつ出るだけなのか?なんのために?戦争はもう何千とあった。小さなもの、大きなもの、有名無名のもの。それについて書いたものはさらに多い。しかし、書いていたのは男たちだ。私たちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている。男の言葉の。女たちは黙っている。・・・・戦地に行っていた者たちさえ黙っている。もし語り始めても、自分が経験した戦争ではなく、他人が経験した戦争だ。男の規範に合わせて語る。』
しかし、その女性たちが家や戦友たちの集まりのときにだけ少し泣きながら語る戦争は今まで著者が知っていた戦争とはまったく違うものであった。「女たちの戦争」にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていたという。
近年、女性の地位は向上したにも関わらず、自分の物語を守り切らなかったのだろう。そういう気持ちから女性たちの戦争の物語を書きたいと考えたのである。

これにはおそらくふたつの理由があるのだろうと思う。それは、ソ連は戦勝国であったということと、侵略された側であったということではないだろうか。
勝った側だから武勇伝がまっとうに伝えられ、一方では市街戦では民間人がたくさん殺された。一説では1500万人の民間人が亡くなったとされる。前線に出て行った女性たちも家族を失い、その悲しみはおそらく男性よりも女性の方が大きかったからだろうし、出征する女性たちは父親や夫が出征した後、子供や母親を残して出征していったという。だから、そういった記憶はできることなら思い出したくないという意識があったのだと想像する。また、女性兵士に対する偏見も多く、自らの戦歴を隠して生きてきた人たちも多かったのだとも書かれていた。
これは驚きであったのが、復員してきた女性兵士たちの多くは英雄として迎えられたのではなく、何か違う価値観を持った異人のような扱いを受けたという。そういうことがばれると就職や結婚ができず、また、家族からでさえ遠ざけられることもあった。だから、そういった経歴を隠し、自ら退役軍人として受けるはずの恩恵も放棄して生きてきた人が多かったらしい。この本の中にもそういった経験を語る内容がたくさん書かれていた。こういったことも、この本以前に女性兵士たちの言葉が公に出なかった理由のひとつであった。
それに加えて、女性でありながらその性を捨て、泥まみれ血まみれになり、またシラミに喰われながら戦っていたという自分の姿を他人に伝えるというのを憚ったということもあるのかもしれない。

日本は敗戦国だから、かえって男性自らが悲惨な体験を語ることが恥ずかしくはなかったであろうし、本土で戦闘がおこなわれなかったということは、幸いにしてという表現はおかしいが敵兵が自分の身内を殺す場面に遭遇することはごくまれであったということが大きかったのだろう。それでも、復員してきた人たちの中には亡くなるまで口を閉ざしていた人がたくさんいたというのだから戦場とは想像もできないほどよほど壮絶な場所であったに違いない。
それでも日本の戦争に関する書物のほうが、より市井のひとの目線で書かれてきたものが多いのだと思うのである。だから、ロシアの人々には余計にこういった記録は衝撃的でかつ反政府的であったに違いない。著者はベラルーシの出身だが、本国でも長く出版ができなかったそうだ。

前半は実際に線上に出た女性兵士たちの言葉、後半は家族の死や思いを寄せた人たちの運命、また、戦場にあっても女性らしさを忘れなかった思い出、そういったものが書かれている。
この本に登場する女性兵士たちは自ら志願し前線に立つ。歳も若く、15歳で年齢を偽って戦場に立つ少女もいた。そしてその場所で想像を絶するほどの体験をするのだが、それでも自分の任務を全うしようとする。特に西欧諸国との境目であったウクライナやベラルーシといったところはこの時代以前から領土紛争や民族問題によって戦争が絶えなかった場所だ。自分たちで自分たちの土地を守らないことにはいとも簡単に主権を奪われてしまう。そういった思いが相当強い人たちだったのである。

家族との別れやドイツ兵たちのパルチザン狩り、または拷問、そういった場面は悲惨極まりない。文章はおそらくわざと淡々としたものにしているのだろうが、いたるところに横たわっている死体、また、病室であろうが戦場であろうがひとつの村の中であろうが、どこからでも漂ってくる血の臭いであったり死体の臭いであったり、僕が経験したことのない世界で想像できないのだがその淡々とした表現ゆえその無残さがさらに無残に見えてくる。しかし、一番恐ろしいのは、『憎むということを身につけたあとで、愛するということを学び直さなければならなかった。』という言葉だ。
戦争というのは体だけでなく、心も蝕む。文字で書くのは簡単だが、戦争は恐ろしい。やはり実感がついてこない。

しかし、現実には海の向こうでこの時と同じ行為が行われている。さすがに今の時代、生きたまま足を切り落とすというようなことはしないのだろうが、家を焼かれ、家族を目の前で失うというようなことは頻繁に起こっているに違いない。
あれとこれはべつだとは思うのだが、これほどひどい侵略を受けたロシアという国が今の時代になって今度は侵略する側に回ることができてしまうというのがまったく解せない。
それもウクライナという国はこの戦争を一緒に戦った同朋だったのだからよけいに解せない。確かに属国扱いをされていた国ではあったので立場は弱かったのかもしれないが、それが西側に近づきすぎるのは生意気だという発想で戦争を仕掛けるというのはもっと解せない。たとえこの国がNATOに加盟したとしてもロシアを攻めるなどということがあろうはずはないと思うのだが。
国と国の関係は人間関係と同じというわけにはいかないのだろうが、他人のことなど放っておけばいいのじゃないかといつも思ってしまう。降りかかる火の粉は払わねばならないが、わざわざ他人に火の粉をふりかけることもあるまい。変にちょっかいを出すから出された方も身構えるというものだ。

自分の国を守るためには武器を持たねばならなくて、いざという時には命を落とすことも辞さないという覚悟と実行が必要だというのはわかるのだが、これが今、突然自分の身に降りかかってきたとき、自分から進んで戦場に赴くことはできないだろうとも思うのである。
だから、ウクライナの人々というのはそうとう勇敢な人々なのだと思えるのである。
この国の人々の大半は僕と同じような程度の考え方しか持ってはいないと思う。だからこの国は国際社会から落ちこぼれてゆくというのは仕方がないことなのかもしれないと思うのだ。

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「もの忘れと記憶の科学」読了

2022年06月26日 | 2022読書
五日市哲雄/著 田中冨久子/監修 「もの忘れと記憶の科学」読了

何度もこのブログには書いてきたが、とにかく物忘れがひどい。それは年齢が進むにつれてひどくなってきたというよりももっと若い頃からの症状であった。
そもそも、このブログを書き始めたきっかけというのも、あまりにも記憶力がなく、いつ、どんな魚を釣りに行ってそれが釣れたかどうかということや、どんな本を読んだかということをまったく覚えていることができないので忘備録として残しておこうと思ったのが最初だった。
一番愕然としたのが、一度読んだことがあった本を、それと知らずにまた買って読み始め、最後のページをめくるまで前に読んだことがある本であるということに気付かなかったことだ。
今年のコゴミ採りでは採ったコゴミを現場に置き忘れてきたという失態も演じてしまった。

それだけではない、釣りに行くときにはとにかく忘れ物をする。最大の忘れ物は磯釣りに行って磯竿を持っていくのを忘れたことだ。忘れたというか、赤い袋に入った竿をロッドケースに入れて出かけたら、それは船用の竿であったという間違いだったのだが、これも、ひとつの記憶まちがいだろう。僕のブログの検索窓に「忘」という文字を打ち込んで調べてみるとおそらく無数の書き込みがヒットするに違いない。
そして、そんな日に限ってなぜだか魚が釣れてしまい、忘れてきたものがないので難儀するというパターンに陥るのだ。
ひとの名前も覚えられない。社内でよくすれ違う、一昨年一緒に仕事をしていた人の名前さえ思い出せない。まあ、あの頃の記憶というのは思い出したくもないので思い出せないのだろうとも思う。ずいぶん前、30年近く前だろうか、すごく世話になった上司の名前を古い記憶は呼び起こせるかとこの本を読みながら思い出そうとしたのだが、相当恩義を感じていながらも思い出せなかった。電車に乗っているときに不意に思い出せたのは幸いであったが・・。
こんな調子なのである。

僕がもっと記憶力がよかったならば、もっといい大学を出てもっとお金を稼いでもっと裕福な暮らしをしていたに違いない。100円でオイル交換を済ますために2時間も待つことはなかっただろうと、人生は不可逆だから何とでもいえるのだが、自分の無能さを憂うのである。

このタイトルの本を見つけた時、ひょっとしてこれを読めば僕のそういった性質を今からでも改善できるのではないかと期待したのである。


本の最初はギリシャ神話に出てくる記憶を司る女神「ムネーモシュネー」から始まる。ムネーモシュネーはゼウスとの間に9人の娘を産んでいる。「ミューズ(文芸、芸術を司る神)」「カリオペー(歴史や英雄詩を司る神)」「メルポメネー(悲劇・挽歌を司る神)」「エウテルペー(抒情詩を司る神)」「エラトー(独唱歌・舞踊を司る神)」「テルブシコラー(合唱・舞踊を司る神)」「ウーラニアー(天文・占星術を司る神)」「タレイア(喜劇を司る神)」「ポリュムニアー(幾何学・修辞学・瞑想・農業を司る神)」であるが、こういう神様が存在すると考えられていたということは、古代ギリシャの時代から、記憶こそが精神の創り出すあらゆる事の基盤であり、諸学問の根源と考えられていたのである。だから、記憶力のない僕はポンコツなのだとこれはこんな時代から定められていたということになるのである。

人間の頭の中でおこなわれる記憶というものは、いくつかに分類されて考えられている。”頭の中”と断りをいれているのは、例えば、文字を書くこと、これも記憶の一部であり、コンピューターのメモリーに様々な情報を保存するのも記憶の一部であるからだ。
分類の方法は大きく分けて保持時間で区分する方法、記憶するものの内容によって区分する方法がある。

保持時間での区分は三つ。
ひとつ目はごく短時間記憶する「ワーキングメモリー」。作業記憶、作動記憶とも呼ばれる。保持時間は数秒から数十秒である。日常生活での言動は主にこの記憶が利用されている。情報処理能力が含まれることから記憶容量には限界があるとされている。
ふたつ目は、ワーキングメモリーよりも少し長い時間記憶する「短期記憶」。この記憶の持続時間は数十秒から数十分、あるいは数か月程度とされている。この記憶も情報処理能力によって記憶容量に限界があるとされ、一度に記憶して操作できる情報の数は7個前後であると言われている。このふたつの記憶というのは、コンピューターに例えるとメインメモリーの中で働いている記憶というところだろうか。
これはおそらく、バイクなんかを運転していて、「次は漁港を出て右に曲がって家に帰るのだが、その前に逆方向に曲がってスロープの使用料を払ってから帰ろう。」という手順を記憶するというようなものなのだろが、それを5秒前の記憶を忘れて途中を飛ばして右に曲がってしまうとなると僕は7個どころか、ひとつしか記憶を保持できないということになってしまうのだろうか・・。
三つめは「長期記憶」である。この記憶は短期記憶を固定化して、永続的に保持し貯蔵されるものである。

内容による分け方では、「陳述記憶」と「非陳述記憶」に分けられる。陳述記憶がいわゆる「頭の記憶」である。非陳述記憶とは、意識化できない、その内容を想起できない、言葉で表現できない記憶のことである。
それぞれはさらに分類することができる。
「陳述記憶」は「エピソード記憶」すなわち、時系列が組み合わさった記憶で、いつ何々をしたというような記憶と、「意味記憶」すなわち、もの事の説明としての記憶である。
「非陳述記憶」は、「手続き記憶」という、車の運転や箸の持ち方など、一度覚えたらなかなか忘れられない記憶で、「体の記憶」とも呼ばれている。そのほか「プライミング」というとっさの時の行動に対処する記憶や「意味づけ記憶」という条件反射などである。

物事を記憶してゆく段階は三つの段階を踏む。ひとつ目は、ものを覚える過程=記銘(入力)、ふたつ目は、覚えていること=保持、三つ目は、覚えていることを思い出すこと=想起(再生)である。まあ、入力はとりあえず目も耳も大丈夫だから、僕はあとのふたつの工程に何か欠陥を抱えているに違いない。

脳の中ではどのような形で記憶がなされているのかということだが、こんな書かれ方をしている。『外界からの様々な感覚情報、例えば、見たり、聞いたりした情報、さらに、その物がどこにあるのか、そしてその物が何か、という情報は、後頭葉の感覚野や感覚連合野で感覚され、ついで前頭葉の背外側部に送られます。さらにその後、前頭葉の前頭眼窩皮質という脳部位に送られて、それぞれを活動させます。感覚野や感覚連合野の記憶は「感覚記憶」とも呼ばれますが、瞬間的で、1秒以内に消失します。
感覚記憶で興味があるとされる情報は、消える前に大脳辺縁系になる海馬に送られます。海馬は一時的な記憶の保管場所でここで長期に記憶されるべき情報とそうでない情報に選別し、記憶されるべき情報は記憶の保持、貯蔵庫とされる側頭葉などの大脳皮質に送られます。』ちなみにこの選別には1か月ほどかかるらしい。
何が何だかさっぱり分からないが、要は目や耳から入った情報は、あたまの中を回りまわって最終的には海馬というところにもたらされ、長く覚えておきたいものはまた大脳皮質に戻ってゆくというのである。記憶のキーマンは海馬なのである。

そして、大脳皮質では新たなシナプス結合が生まれ「エングラム」と呼ばれる記憶結成時に活性化したニューロン集団という記憶痕跡という形で保存される。なんらかのきっかけでその一部のニューロンが活動すると、合わせてニューロン全体も活動する。その結果として記憶が呼び起こされるのである。
はて、昔お世話になった上司の名前を思い出させたのはどんなきっかけだったのであろうか?

ここからが問題なのであるが、記憶力を上げる、もしくは物忘れをしないようにするにはどうしたらよいかということが書かれている。
まず、記憶力を上げるにはというものだが、神経回路は物理的、生理的にその性質を変化させる能力を持っている(これをシナプスの可塑性という)のだが、あるニューロンから次のニューロンに繰り返し信号が送られると伝達効率が上がるという実験結果があり、そういうことをやればいいということだが、学生のころからそういうことを当たり前のようにやってきても結果が出ないから苦労しているのである・・。
記憶力のアップというのは諦めて、次はど忘れを防ぐ方法はあるのかということだ。
まず、ど忘れというものはこう定義される。「過去に記憶として覚えていたものが、意識に上がらないことや、言葉にならないこと」である。
この原因というのはまだはっきりしていないが①「記憶のフック」による記憶の希薄化、または、②「脳のゆらぎ」による記憶想起のタイミングの悪さ、というふたつの説があるそうだ。
「記憶のフック」とは、情報の既知感と、後になって、その情報を正確に思い出すことができるという思い込みであると定義される。ど忘れした単語や言葉など、それらをあまり使用することがなくなり、記憶が希薄化したため、あるいは、希薄化した記憶になっていることに気がつかずに容易に思い出せるという錯覚に陥ってしまっていることで、思い出せるはずなのに思い出せないというジレンマが発生するのである。僕の場合、人の顔は思い出せるのだが、その名前が出てこない。これは顔という映像が記憶のフックになるのであろうが、文字としての名前が希薄化しているのでそこでギャップが生まれているということなのであろうか・・。
「脳のゆらぎ」というのは、同じ刺激に対して脳のニューロン回路の情報伝達経路はその都度変わり、同じにはならないという現象のことであるが、そうした別のニューロンの組み合わせが信号の行き先を間違わせてしまい記憶の想起につながらないというのである。

また、ワーキングメモリーの機能低下によっても物忘れが増えると書かれている。これは、シナプスにある、神経伝達物質のドーパミンの受容体の働きが阻害されるとこの機能が低下してしまうことである。ワーキングメモリーというのはごく短期間の記憶保持に関わるメモリーだが、次に何をしなければならないかという記憶も含まれている。それが保持できていないと、「あれ、次は何をするんだったっけ?」となる。まさに信号待ちの5秒間で左に曲がるのを忘れるというのはドーパミンが少ないからに違いない。

そして、ストレスも物忘れの要因になる。ストレスによって数多くのホルモンが分泌されそれが海馬に影響を与える。海馬はストレスに対して脆弱なのである。
例えば、糖質コルチコイドはストレスホルモンと呼ばれ副腎皮質から分泌されるが、脳の中で最もたくさんの受容体を持っているのが海馬なのである。そして怖いことに、海馬はストレスに慣れることによってそれはストレスではないと記憶し、本人はストレスではないと感じるようになる。監禁された人や戦争に行く人がそういった状況に慣れてしまい逃げることも抵抗することもできなくなってしまうというのはそういったメカニズムが働くからなのである。

逆に、海馬を活性化させて記憶力をアップさせることも可能かもしれない。海馬のニューロンは新生することが知られている。ニューロンは増えれば増えるほど脳神経のネットワークが大きくなるということだから記憶力も増強されるはずである。
そしてそのためには、①運動や学習行動が必要であること。②性ステロイドホルモンの環境が必要であること。③アセチルコリンの分泌を促すこと。らしい。アセチルコリンとは副交感神経から分泌されるリラックスを導く神経伝達物質である。運動や学習行動が必要というのはわかるが、性ステロイドホルモンの環境というのは、ずっとエッチなことを考え続けるということだろうか・・。
しかし、これは若い時にこのような環境にいなければならず、18歳を過ぎると神経幹細胞は存在するもののニューロンへの分化はほぼ起こらないと言われているそうだ。
10代に一生懸命勉強して運動もして、なおかつスケベなことを考え続けろというのが物忘れを予防する最大の方法であるというのがこの本の結論であるらしい。

まったくそういうことに無縁であった僕が現在、極度の物忘れに悩むのは当然のことであったのである。唯一今でもやれることというと、リラックスをしてアセチルコリンの分泌を促すためによく寝ることくらいである。残念・・・。

認知能力が衰える病気の代表的なものにアルツハイマー型認知症というものがある。これは脳細胞の周辺にアミロイドβというたんぱく質が堆積することにより神経間の情報伝達が阻害されるものであるが、発症する人ではアミロイドβの蓄積はすでに40代から始まっているそうだ。それと知らずに日常生活を送り次第に症状が出てくる。と、いうことは、すでに僕の脳みそもアミロイドβに汚染されている可能性がある。これは困った。この物忘れもそれの兆候であってほしくはないものである・・。

最後に、「ひらめき」と「直感」について書き留めておく。これは物忘れの対極にある、発揮できればできるほど人生がばら色になりそうというものであるが、よく似ていながら全然違うものらしい。そもそも、脳の中でひらめきが起こる場所というのは大脳皮質の後帯状皮質というところであり、直感が起こる場所は大脳基底核というところで、まったく違うのである。
大脳基底核というところは大脳皮質の幅広い範囲からたくさんの情報を仕入れて処理をしている場所だそうだ。直感というのはそういう意味では、脳の中に蓄積された経験を基盤に発揮されるものである。いっぽう、ひらめきというのは、保存していた多くの陳述記憶やエピソード記憶の中に埋もれていたある記憶を呼び起こし、直面する難題と巧みに結びつけるとことによって解決するための答えを導き出すものである。
直感はある程度意識下にある記憶を使い、ひらめきは無意識下の記憶を使うのである。
特にひらめきは脳の中のデフォルト・モード・ネットワークという、脳が無意識な状態にありながら作り上げている広範なネットワークを利用している。これはヒトが意識的に何かの課題に取り組んでいるときは働かず、いわば、ボ~っとしているときに活発に働き始めるネットワークである。いわゆる、3上(馬上、枕上、厠上)でひらめくというやつである。

どちらにしても、すでに脳の中に蓄積された記憶がどれだけあるのかということがものをいうのにはちがいなだそうだ。
「人は移動した距離の違いでその大きさがわかる。」と言ったのは師であるが、移動した距離がすなわち経験であり記憶であるのならまったく納得できる箴言であるのだ。
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「FACTFULNESS(ファクトフルネス)  10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」読了

2022年06月23日 | 2022読書
ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド/著 上杉周作、関美和/訳 「FACTFULNESS(ファクトフルネス)  10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」読了

この本は医師が書いた統計に関する本である。「10の思い込み」と書いている通り、
日頃から見ているニュースを正しく見るためには思い込みのうえでデータを見ていてはいけないというのである。

これはまさにそのとおりで、わが社の役員から、つい最近もメールとともに数字ばかりが入った表計算のシートがメールで送られてきた。僕はただの傍観者でしかないのでそれを基に何か議論に参加するというものでもないのだが、この人の言っていることとこのデータはきちんと整合性が取れているのかどうかと疑わしいなと思ったのでもっと見やすいようにグラフに加工してみた。



そもそも、クライアント相手にプレゼンするのに数字を羅列した表を見せて説明するということ自体がおかしいと考えないのがおかしいとも思うのだ。
そのメールの内容の一部はこんなものであった。
『いつもお世話になりありがとうございます。
OOOOOO事業開発部担当の××でございます。
期間中の○○来館者と、△△来館者、期間の大阪府コロナ感染者の比較表です。・・・・・今回の前半と後半の感染状況と△△の来館者には明らかに関連性が見て取れます。・・・・』
赤い点線がコロナ感染者数の推移で△△の来館者というのが緑の線だ。△△というのは同じ建物に入居している大型商業施設である。
曜日で来館者数が上下するので移動平均をとってプロットしてみると、△△への来館者というのはこの期間では感染者が増えようが減ろうがそれに対しては大して影響されなかったというのがよくわかる。残りの2本の線は僕が関わっている観光施設○○の来館者だ。こっちは感染者の減少とはあきらかにリンクしている。
△△と観光施設では規模が大きく違う(このグラフはその規模の差を修正して人数の変化を比較しやすくしている。)ので元々来館者が多いのだという先入観と、この役員としては、「感染が落ち着いて△△への来店客が増えている。その商業施設とはコネがあるからいろいろ働きかけて宣伝や送客をしてあげる。」といい顔をしたいがためにクライアントに言いたいわけだ。
まさにこの本のとおり、「思い込み」なのである。
僕も露骨に「あなたの分析はおかしいのではないか。」とは言わないけれども、こんな数値の変化がヴィジュアルで見ることができますと返信をしてしまうから上司に嫌われてしまうのだろうとこの本を読みながら思ったのである。

この場合、感染が落ち着いても商業施設は客数が変わっていないということは感染前も感染後も来る人は同じ人ばかりでそういう人は元からこの観光施設には興味がないということだ。もともと小売り業界では斜陽産業の部類の業種で、相当なロイヤリティをもった客しか来なくなってしまっているのだから普通ならそういう結論はすぐにでてくる。そうは思いたくないというのも人情ではあるが、それさえも思い込みである。
客数を増やそうと思うのならもっと別の市場にアプローチすべきだし、興味がない人を無理やり振り向かせようとするなら、ふたり目無料くらいのサービスをする必要があるということだ。

そして、この本にはそういった思い込みのパターンが10個取り上げられている。
主要な著者であるハンス・ロスリングは医師ではあるが、長い期間のアフリカでの診療活動から、経済発展と農業と貧困と健康のつながりについて研究するようになった。そこで感じたことは、様々な援助策や政策を決めているリーダーたちでさえ知識不足と思い込みで間違った認識のもとにそれらをおこなっていて、それでは資源を無駄遣いするだけでなく、貧困にあえぐ人たちを救うことができないと考え、財団を立ち上げ「事実に基づく世界の見方」を広めるという活動に従事した人であった。そのリテラシーの目を「ファクトフルネス」という言葉で表している。そのために統計資料を重視しているのである。
この本は特に、筆者の経験から、いまだ発展途上になる国々の現状を例に挙げながら論が進められてゆく。世界の国々の豊かさをレベル1(貧困)~レベル4(裕福)に区分けし、例えば、世界中の1歳未満の子供が何らかの感染症の予防接種を受けている人数は全体の80%もあるそうだが、おそらくほとんどの人は世界の人口の半分くらいは貧困層だという思い込みからこういう質問を受けるとレベル4のほとんどの国のリーダーたちはもっと低い接種率であると考えている。世界で貧困ではないひとはすでに全体の91%まで増えているのが今の世界の現状である。
そんな人たちが適切に資源の投入をできるわけがないというのが著者の考えだ。そしてそれは様々な思い込みが原因であるというのだ。それが10個の思い込みなのである。
どんな思い込みがあるのかというと、
①分断本能「正解は分断されている」という思い込み
②ネガティブ本能「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
③直線本能「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
④恐怖本能(危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう)という思い込み
⑤過大視本能「目の前の数字がいちばん重要だ」という思い込み
⑥パターン化本能「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
⑦宿命本能「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
⑧単純化本能「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
⑨犯人捜し本能「誰かを攻めれば物事は解決する」という思い込み
⑩焦り本能「今すぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み
という10個である。
なるほど、言われてみれば僕にも心当たりがあるものがたくさんある。
例えば、もう、10年近く前だろうか、中国のひとというのはこんなに現代的な生活を送っているんだと驚いたり、これはつい最近だが、国民一人当たりの所得は日本より韓国のほうが多いのだということにも驚いた。
これなんか典型的な分断本能ゆえの思い込みであった。
まだまだある。CDってずっと売れているものだと思っていたらレンタル屋さんにも置かれなくなっていたのを見て驚くのは直線本能のゆえだろう。
この本は、世界の情勢を正しい統計資料と正しい目を持って見ていきなさいというものだが、身近なところにいくらでもこのような例が転がっているのである。

世界情勢を憂うほど奇特な人間でもないし、もとより会社の未来を憂うこともない。しかし、あんなメールを読んでしまうとこの会社も先は知れているなとか、相手の会社にはかなり見下されているのだろうななどとは思ってしまう。
この役員はこの10個の中のどんな本能の思い込みをしたのだろうかと、あれこれ考えてみたのだが、本能以下のアホさ加減だから当てはまるものが無いんじゃないだろうかと思ってしまう。しいて言えば、こう言っておかないと後にストーリーが続かないと思い込んでいるという点では7番の宿命本能というところだろうか。
だからなのだろうが、景色が売り物の施設で、エスカレーターを昇ってきたらいきなりウルトラマンが見えるというようなレイアウトをよく考えたものだとも思うのである。これには呆れてしまった。




もうすぐ参院選がある。野党の人たちはこのままではこの国は大変なことになると連呼するわけだが、そういうことも4番とか10番みたいな思い込みだけで言っているのかもしれない。いざとなれば自分たちもなすすべを持たないのに・・。もっと具体的に数値を出して説明をしてほしい。あなたの政策にどれだけお金がかかって、そのお金はどこから生まれて、誰がどれだけ助かるのか、それが知りたい。アホな候補者は「汗をかきます。」としか言わない。人間は何もしなくても汗をかくのだ。汗をかかなければ死んでしまうのだ。

ウクライナの戦争で何もかもが値上がりしているが、他の国ではもっと急激に物価が上がっているそうだ。(これもニュースの受け売りにすぎないし、その国の所得の伸び率も知らないのだが。)それに比べれば日本の上昇率は穏やかで、直近の物価高を憂いて自殺した人がいたというようなニュースを聞かない。そうなってくると、日銀の黒田総裁が言った、「値上げを受容している。」という意見もとんでもない発現ではなかったのかもしれない。もちろん、ミクロ的には僕自身、この値上がりは困ったものだと思ってはいるし、このままでは釣りに行く回数を減らさねばならないと思い始めてもいるのだが・・。
そうなのだ、この本に書かれていることもすべてはマクロ的な見方であるということも忘れてはいけないということでもある。
ただ、その話は本当にそうなのかと疑う心は確かに持ち続けなければならないのは確かなことであるというのには納得するのである。
ウチの役員さんもそんな気持ちになってくれないものだろうか・・。

この本を読んだきっかけというのは、翻訳者のひとりである、関美和という人が訳した本を読みたかったという理由からだ。かなり人気のある翻訳者らしく、翻訳した本はどれもベストセラーになっているそうだ。この本も貸し出し予約をしてから2ヶ月ほど待ってやっと借りることができた。
内容が容易であるというのもあるのだろうが、翻訳書としてはかなり読みやすい本であったのは確かだ。

そして、統計学というものの面白さというのもよく分かった。わが社の数値分析でもそのとおりだが、簡単に統計を取るだけでも言っていることと全然違うというようなことを見つけられてしまうというのは面白い。大学時代、「経済統計学」という授業があり少し興味をもっていたのだが、教授が厳しい人だというので選択をしなかった。今思うと残念なことをしてしまったものだ。あの頃からひたすら楽をしたいと思っていたらしい。

次に生まれ変わったら絶対に経済統計学の授業は受けようと思う。
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「火の賜物―ヒトは料理で進化した」読了

2022年06月20日 | 2022読書
リチャード・ランガム/著 依田卓巳/訳 「火の賜物―ヒトは料理で進化した」読了

この本は人類の進化について書かれているのだが、ダーウィンの自然淘汰説から導かれる進化の理由というのは、環境の変化に対応できた種だけが生き残ることができるというものだけれども、原人がヒトに進化したのはヒトが「料理」を覚えたからであるというのがこの本の趣旨である。
ヒトの直系の祖先はホモ・エレクトスと言われているが、それまでの猿人、アウストラロピテクスやホモ・ハビリスとの違いをあげてゆくとこんな感じだ。
小さな顎、短い腸、大きい体、大きい脳。そんな感じだ。脳の大きさというのが最大の違いだが、その要因になったのが「肉食」だという。この頃から我々の祖先は肉を食べ始めたという。
それまでは樹上生活をしながら、消化しにくい植物を食べていたので、植物をすりつぶすための大きな顎と消化のために長い腸が必要であったという。
肉というのは、カロリーが高く、タンパク質も豊富だ。それを食べることによって、体が大きくなり、肉を手に入れるために協力し合い、それが知能を発達させてきたというのである。
そして、植物を食べるよりも消化が早いから腸が短くなる。
僕の家の食卓にはあまり肉が上らない。特に牛肉は皆無といっていい。だから体力と知力がないのだとこの本の冒頭ですでに納得してしまったのである。

それまでがホモ・エレクトスの進化なのだが、さらにホモ・サピエンスに進化するための原動力になったのが「料理」だったというのである。
人類(の祖先も含めて)火を使ったという証拠が残っているのは約79万年前だというが、それ以前の地層からも焚き火のような跡がみつかることもあるので、不確かだがもっと古い時代から人類は火を使っていた可能性がある。それがホモ・エレクトスの時代なのである。

肉も植物もだが、そのまま食べるよりも組織を破壊するともっと消化吸収がよくなる。それは石器を使って食材を叩くという作業なのであるが、そういった作業の途中、肉を叩き損ねて石と石がぶつかったときに火花が散る。それが焚き火の最初であったかもしれないというのには興味と共感を得る。初期の、焚き火の痕跡と間違いなく考えられる場所にはたくさんの火打ち石の化石(石も埋もれていると化石というのだろうか・・)が残っているそうだ。
僕も最近、火打ち金と火打ち石を使って火を熾すことを覚えたが、彼らもきっと、火を熾すということの楽しさを知ってしまったということなのであろう。

火を使い、食材を加熱=料理するとどんな効果を得られるか。そしてそれがヒトの進化にどんな影響を及ぼしたか。
その端緒は消化吸収がさらによくなったということである。それに伴いホモ・エレクトスはもっと腸が短くなってきた。加えて、消化に要するエネルギー量も少なくなった。現在のヒトの基礎代謝と同体重の動物の基礎代謝にはそれほどの違いはないと考えられている。消化に要するエネルギーが減った分、それがどこに回ったかというと、脳に回すことができたという。ヒトの脳の重量は体重の2%しかないけれども、基礎代謝の20%は脳が使っているというほど脳はエネルギーを使う。使えるエネルギー量が増えたことで脳は大きくなってゆく。

また、消化に要する時間も節約できるようになった。それは獲物を探して行動する時間が増えたということである。植物を生で食べる動物が食事に費やす時間がいかに長いかということは極端な例かもしれないが、牛をみればわかる。しかし、そこには料理を作ってくれる人の存在が必要になるということでもあった。いくら料理をすることで消化する時間が節約できても料理をするには手間がかかる。そして、ホモ・エレクトスに比べて体躯が大きくなったヒトはそれなりにエネルギーを必要とする体になってしまっていた。一日中獲物を探し、ねぐらに帰ったときにすぐに料理を食べて翌日に備えるということが一番効率のよい生活だったのである。

そこで分業というものが生まれる。体力的に非力な女性たちは料理をしたり、集落の周りで食料になる植物を採ったりするようになった。この植物たちも確実に獲物を獲れるとは限らない環境では貴重な食材にはなったのである。
こういった、性別による分業、男女が異なるやり方で補完的に生活を送るという行為が結婚へとつながる。動物というのは常に奪い合うものである。そこで、体が弱く奪われやすい食料を持った女性は誰かに守ってもらわないと安全に生活ができない。その安全を担保するために結婚という形態が生まれたというのである。もちろん、その頃にはすでに集団で生活をするという形態も出来上がっていたので集団で安全を担保するという方法もあったのだろうが、より安全を確保するためには特定の男女が結びつくほうがよかったのである。
結婚という形態は、男が自分の遺伝子を確実に残すためのものであるというふうに思っていたのだが、実は、そこにはエネルギー問題というものが絡んでいたという発想が面白い。
しかし、料理が男女の結びつきを促進したのであるが、女性にとっては男性の権威に対する弱さを飛躍的に増大させることにもなった。「淑女(レディ)」という言葉は、”パンをこねるもの”という意味から来ているし、「主人(ロード)」という言葉は、”パンをもつもの”という意味からきているという。
つまり、男性のほうがより大きな利益を得、女性に男性優位の文化が新たに押し付けられるという従属的な関係ももたらしたのである。料理は男性の文化的優位という新しい制度を作り出し、永続化した。筆者はこれを決して美しい図式ではないという。

そういうことをふまえて、もし、結婚がエネルギー問題から発生したと考えると、現代の結婚しない男女というものがその裏返しとして必然的なものであるということが浮かび上がってくるように思う。
安全な世の中になり、男に守ってもらう必要がなくなれば女性としてはわざわざ男性に料理を作ってまで守ってもらおうとはしないだろうし、男性も、外食できるところがあればそこで食べればひとり分の食費だけ稼げば済むのだからあくせくして働かずとも楽ができる。
お互いに楽になるのだからわざわざ共同生活をする必要はないということだろう。自分の生活を考えると、奥さんに対して僕の権威を増大させているということなど全くなく、むしろその逆じゃないかと思っているが世間一般ではそうでもないらしいが、こんな理屈を考えていると、田辺市に住んでいた日本で最高齢助産師という人が語った言葉にも納得がいく。


日本政府は人口減少対策にいろいろなことをしてお金も使うことを考えているようだが、こういった進化論的な観点、すなわち、国民も生物であるというところから考えてゆかないとまったく何の効果も発揮しないのではないかと思う。
以前にも書いてみたことがあるが、やはり、コンビニが国内に2万店もあるということを何とかしなければならないのじゃないだろうか。
まずは離婚をした男女と結婚しない男女のコンビニ利用頻度と既婚者のコンビニ利用頻度の比較をしてから政策を立案しなければならないはずである。
少なくとも僕は完全に奥さんの料理に支配されているというのは間違いがない・・。

もちろん、こういった共同生活の解消ということもヒトの進化のひとつであるとするならばそれは仕方がない。地球に生物が生まれて40億年だそうだが、いまだかつて絶滅を経験していない生物はいないという。ヒトも生物ならいつかどこかの時点で絶滅する運命であるのならこれからがその始まりかもしれない。

しかし、男女の関係は料理が決めたというのもひとつの仮説にすぎないのも確かである。だって真実は過去にしかなく、それを確かめることは永遠に不可能だからだ。この説も確かにすごく説得力があるけれども、例えば、ヒトの体に毛がない理由はどういうふうに考えられているかということについても様々な説がある。
この本では、火を使えるようになったので体毛を頼りに暖を取らなくても済むようになったからだと書かれているが、以前に読んだ説では、獲物を狩るために長距離を移動する必要が汗を効率よく発散させる薄い体毛を生んだと書かれていた。この前見たテレビでは、集団生活するようになり、シラミやダニに悩まされそれを防ぐために体毛がなくなったと言っていた。
こうやってひとつのことに対して様々な考えがあるのが考古学であるのだからひょっとしたらこの料理説も実は事実と異なっているのかもしれない。と、いうよりも全ての説が複合的に組み合わさって今のヒトの姿があるというのが正しいのかもしれない。
そうすると、ヒトの絶滅の運命というのも違った方向に行くのかもしれないとも思うのだ。



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「アニメと戦争」読了

2022年06月12日 | 2022読書
藤津良太 「アニメと戦争」読了

アニメに限らないことだが、アクション映画を観ていても次々に人が死んでいく場面がいくらでも出てくる。僕は心優しい善人でもなんでもないが、ここで死んでいく人たちの人生というのは一体何だったのだろうといつも思ってしまうのだ。主役を殺すために戦いにいくのはきっとそれがこの人の仕事だからなのだろけれども、ずっとそれをしているわけではなく、たまの休日にはひょっとして魚を釣りに行くこともあるだろうし、実は相当な釣りバカであったりするのかもしれない。主役に頭を打ちぬかれたばかりにそれが突然途切れてしまうというのはあまりにも不条理ではないかと思うのである。
同時に、戦争に参加する兵士というのは上官に絶対服従で、あそこに行けばきっと撃たれるとわかっていても命令ならば行かねばならない。それを拒否すると犯罪に問われ悪くしなくても死刑になる。そういうことに唯々諾々と従える人の心理とは一体どういうものなのだろうかとまったく会社に対して忠誠心を持てない自分はいつも疑問に思っていた。

ひょっとしたら、そういう疑問がアニメを通して解けるのではないかとこんな本を借りてみた。
それと、つい最近だが、リメイクされた「宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち2202」というアニメを観ていたのだが、この物語では、最強兵器である波動砲を撃たない主人公たちとそれを嘲るように容赦なく攻撃を加える敵、そして結局それを使ってしまう主人公たちの姿を観ながら、ああ、これは核兵器を持ちながら絶対に使えない核保有国を揶揄しているのだろうなと思いながら、こんな表現をして大丈夫なのかとアニメの奥深さを実感したというのもこの本を借りてみた理由である。

著者は、戦争を題材にしたアニメの分類を、時間軸、シチュエーション軸のふたつに分けて分類している。
時間軸では、「状況」の時代、「体験」の時代、「証言」の時代、「記憶」の時代の四つの区分としている。これは戦争がどのように語られたかということに従った分け方なのであるが、制作に携わった人たちがどの年代を生きてきたかということに大きく関わっている。
状況の時代はまさに戦争が「状況」として語られた時代だ。「体験」の時代とは、戦争体験を持った世代が、同じような体験をした世代に語り掛けていく時代。「証言」の時代は、体験者が体験を共有していない世代に語りかけていくもの。「記憶」の時代とは、様々な戦争の語りを統合することで、「集合的な記憶」を社会の中に形成してゆくことである。
シチュエーション軸では、歴史的―非歴史的、みんな―個人というグリッドでアニメを分類している。
時間軸では「状況」の時代というのは戦前のプロパガンダのために作られたアニメということなので僕の世代とはかけ離れてしまっているが、「体験」「証言」の時代というのはまさにリアルタイムでテレビにかじりついていた頃だ。
「体験」の時代とは制作側の人たちが戦争を体験した世代の人たちだ。この本では「少国民世代」と書かれているが、『敗戦直後の「将来への希望の喜びと過去への悔恨、つまり、解放感と自責感がわかちがたくブレンドしてながれていた」世代の人たちである。その中で、とくにアニメ制作の世界で活躍した人たちは1930年代に生まれた人たちであるという。
「ゲゲゲの鬼太郎」「サイボーグ009」「宇宙戦艦ヤマト」などがこれにあたる。もちろん、すべては空想の世界が舞台なのではあるが、いたるところに太平洋戦争の影が見えるという。特に、「ゲゲゲの鬼太郎」は何度もアニメ化されているので同じ原作を扱ったエピソードを追いかけてゆくと時代の変化が見て取れるという。「妖花」というタイトルのエピソードでは、最初は生まれてすぐに出生していった父が戦地で白骨になるという設定であったが、現時点で最後にアニメ化されたものは戦地へ行ったのは祖父となり、主人公たちは戦争というものについて解説を受けるという設定に変わっている。それだけ戦争というものの実感が薄れていっているということが如実にわかるという好例である。
また、「宇宙戦艦ヤマト」では原作の西崎義展は、『アジア・太平洋戦争に至る背景には西洋文明崇拝があり、皇国史観やアメリカ的物質文明崇拝も、こういった趨勢のなかで、とくに強く表れた風潮だった。私たちは今、世界を見た目で、西洋文明だけが人間を幸せにする道なのだという、日本の現代を形成した選択には誤りがあったと批判しなければならない。逆に、日本人の勤勉さや、緻密さ、複雑さに、民族としての長所を認め、世界全体がもっと幸せになれるように指導性を発揮してほしいと要望されている。』というようなことを言っている。このアニメは、一方では戦争賛美だという批判もあるそうだが、確かにナショナリズム的な考えが根底にあるというのはよくわかるし、クルーがすべて日本人であったというのもそういった理由からではなかったかとも思えてくる。アニメの監督・設定デザインをしたのは松本零士だったが、この人は同じ少国民世代ではあったけれどももっとロマンのある、戦争色のない宇宙大航海物語にしたかったというので相当な対立があったという。
艦首には菊の御紋が絶対に必要であるという西崎に対して、それを嫌った松本は、波動砲の砲門のライフルマークを目立たせ、これで正面から見ると菊の御紋に見えるだろうとしたというのは嘘っぽくもあり本当っぽくもある。また、地球から発進するときに流れていた音楽は当初は軍艦マーチであったそうだ。このエピソードを読んでみても、「解放感と自責感」のせめぎ合いというものが見て取れるような気がする。「宇宙戦艦ヤマト」もリメイクされたけれども、おそらくこの考えは変わることなく根底にあったのではないかと「・・・2202」のストーリーを思い出していた。

時代が進み、1980年台のアニメの代表は「機動戦士ガンダム」だ。この時代になると、戦争を絵空事を通してしか考えることができない時代になってきたという。そして、戦争自体も個人の視点からそれを見るという世界観に変わっていく。ぼくはそこまでと思わないが、戦争は良心の傷まない「ごっこ」に変わっていったという。
「宇宙世紀」という時代設定はもちろん非歴史的であるし、ストーリーも戦争の是非というよりも主人公のアムロ・レイの成長譚ともいえなくもないのでやはり戦争が絵空事、もしくは後方に下がってしまっているのかもしれない。こういうのは、そもそもそういったプロットで企画されたという側面もあるのだろうが・・。一方ではロボットが登場するとはいえ、戦車や戦闘機が登場するというのは戦争の「体験」や「記憶」を引きずっているといえるのかもしれない。
原作の富野由悠季は1941年生まれということなので、戦後は知っていても戦争は体験していないし、キャラクターデザインの安彦良和は1947年生まれということだから戦後の混乱も知らないということになる。しかし、この人は、学生運動の筋金入りの活動家だったそうだからパーソナルな部分での反戦というところでは相当な持論を持っていたのかもしれない。

1980年代になるとさらに戦争は忘れ去られてゆき、戦争や戦闘というものがサブカルチャー化し、単なるコンテンツとして消費されるだけとなってくる。その象徴が「超時空要塞マクロス」だ。アイドルが最前線で歌を歌い、それが戦況を決定づけてしまうというのだから荒唐無稽すぎると言えば荒唐無稽なのである。

結局、この本はそれぞれの時代のアニメが本当にあった戦争からどれくらいの距離感で描かれたかということが分析されているものであって、最初に掲げた僕の疑問というものに答えてくれるものではなかった。
しかし、いろいろなメディアで簡単に再放送などを見ることができるようになった今、こういうことを前提にして見直すというのもまた視点が変わって面白いのかもしれないと思うのである。

この本の分類でいうと、「体験」の時代以降、日本人は本当の戦争を体験してはいない。戦争は文学や動画を通してしか知ることができない。そして、それらはすべて生き残った人たちが語ったものであり、アニメも主人公は絶対に玉に当たらないし死ぬことはない。
そういったコンテンツばかりを見てきた僕を含めた人たちはウクライナのどう見るのだろうか。リアルな戦争でも画面を通して見てしまうとそれはアニメと変わらない印象がある。どれだけ爆発が起きても自分は死の恐怖に怯えることはないし当然死なない。

日本でもこういった情勢を受けて軍備の強化が取り沙汰されてはいるが、いざ、本当に有事という状態になったとき、僕たちは戦えるのだろうか。人間には基本的に自分だけは安全だという「正常性バイアス」というものがある。それが、絶対に死なない主人公ばかりを見ていると、自分は絶対に死なないという絶対的な先入観しか残らないのではないだろうか。そんななかでもし戦場に放り込まれたとして、気が狂わずに戦い続けられるのだろうか・・。ひょっとしてこの国は全員が戦争に耐えられない民族になっているのではないだろうか・・。一方では、防衛費を増やすべきだと8割弱の人が思っているという世論調査の結果があるそうだ。僕も中国やロシアの脅威を思うと同じように思うけれども、自分が戦場に出なければならないという想定はそこにはない。

危機感がないと言われればそれまでだが、どうしようもない。ただ言えることは、いざ、どこかの国に攻め込まれたとしたらウクライナみたいに100日も持たずに占領されてしまうだろうなということだけである・・。

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